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自灯明・法灯明

こんにちは、領です。

 

ゴータマ・シッダールタさんは、現代においても絶大な影響力があります。仏教という世界観は人を強く引きつけます。仏弟子という言葉は、心地よさや特別な何かを感じさせます。

現代において、錬金術によって卑金属から金を精錬しようとはしません。
もし一般相対論が発表される前に、光が重力場によって曲がることが発見されていたら、神の力の行使と解釈されたかもしれません。現代は、太陽によって光が何度曲がるか計算できます。

仏教という世界観を大切にする存在と、仏教という世界観を科学に接地して思考していきたい存在は、相依相関して存在し、片方だけで存在することはできません。相依相関して存在するとき、仏教に対するどんな思考、どんな態度も一切欠けることはできません。相依相関して存在するとき、仏教や科学の思考の場に、優劣真偽は確定しません。

以前、造波装置について書きました。

水槽に128機の造波装置が円形に並んでいて、造波と消波の関係性で波を干渉させると一瞬だけくっきりとしたハートマークや細かいロゴマークまでが表現できます。ハートマークに注目しがちですが、ハートマークではない部分もハートマーク形成に関与しています。

一機止めるとハートマークはどうなるのかな?気になります。ぐちゃぐちゃになるのか少しハートが崩れるのかな?ハートマークの形成には、一機も欠くことは出来ないと思います。

円形の水面により重要でより特別な位置は存在しません。水槽全体でハートマークの形成に平等に必要で、振動する波の振幅の高さに優劣はありません。波の振動の高さは常に伝播していくので同じ状態を維持することはできません。もちろん、単独の振幅は存在しません。

振幅を揃えて造波と消波の波を干渉すると、一見、凪の状態をとった水面の高さが、ゼロの状態になります。また別に例えば、円形の水槽と直径の交差する地点を造波装置のA地点とB地点として、両地点から発生した波が干渉したとき、高さゼロの位置が存在します。凪の水面と同じ状態ですが、波は同じ状態を維持しないので高さゼロは一瞬で移ろいます。

この世と造波装置の関係、縁起縁滅の法と万物の理論の関係からいろいろ考えてみます。

この世や個人の思考に優劣真偽は存在しません。この世に特別な境地は存在しません。
「悟り」を目指すべき特別な方向とする思考が存在しますが、本質的に「悟り」は、凪の状態の水面と同じ高さになる刹那で、本質的に特別な方向ではありません。五蘊が相依相関して波の性質を持って展開するとき、数式に従って、決定論でゼロに潜在する地点が存在します。五蘊の解消の一点は、直ぐに移ろいます。「悟り」は、終着地点ではなく、業の解消の刹那であって、「悟り」の状態で時空上に存在し続けることはできません。


無限の五蘊と無限の反五蘊が重なり合って、一切が無に潜在するという構造を可能にするには、一切の可能な振動の状態が、「今」存在することが必要です。悟りという状態は、この世の一切を観る全知の状態です。逆に、この「観る」という構造が一切の今に不可分に存在します。「観る」という構造が、意識と呼ばれる構造を可能にします。以下、「観る」という構造を「観」と表します。
「観」は全くの無ではないことを可能にする物理作用です。
五蘊がゼロに潜在して如実に知るのが「観る」という物理作用ということになります。
この世の一切を観るという構造は、この世の全ての五蘊を観るということです。観るという構造は、唯一として存在し、全てに共有されます。これは「全ての人は同一人物」という構造になるということです。

「自灯明」、「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず」、この言葉は、地動説に通じると思いました。地動説=太陽中心説なので、地球と太陽がごちゃごちゃしてしまいます(;゚ロ゚)
私が、思考空間の果てで神に出会ったとき、「あなたのせいで私がどれだけ苦労してると思っているの!」と怒りをぶつけました。神という存在には、つい甘えてしまいました。
それまでは、常に原因の全てを自己に引きつけて思考していました。何か他者に困る感情を起こされた状況でも、原因を自分の中に発見していました。
全てにおいて「自責」で観察すると、全ての行為や出来事の中心が自己に属することになります。たった一人でも「他責」で観察すると、芋づる式に広がり、この世の全ての干渉を受けるイメージになります。「他責」では、世界の展開はランダムに見えるようになります。他責には、他者と比較したりすることも含みます。
「自責」で自己を観察するということは、縁起縁滅の法の中心から観察することになります。「観」の状態を模倣した状態で観察することになります。そうすると縁起縁滅の法が、領解されてきます。「法灯明」、法を灯明として観察することが深まっていきます。
自己の存在状態が、振動し一つの状態に留まることは不可能であり無常を領解します。自己の出来事の振幅を観察し続けると、高さゼロの凪を領解します。この地点を「悟り」と名づけています。悟りと名づけると不可思議で神秘的な印象ですが、普遍的な物理現象です。

ここまで書いたことは、そんなに大切ではありません。独立自存の真理は、思考で扱えません。絶対の真理は、思考では触れることができません。ここのブログに書かれていること全ては、絶対の何かではありません。それでも大切なこととして書きたいことは、「全ての人は同一人物」ということです。
一人の人間の場合、小指はサポートとしての働きだから、ギリギリの酸素供給しかしない、酸素を運ぶだけの赤血球は、前頭葉のニューロンより劣る存在、なんて思考しません。
今は人類全体で、かなり歪な状態だと思います。
縁起縁滅の法は、この世に受け入れられることだけをすることはできない構造で、素敵なことだけで埋め尽くすことはできません。受け入れられないことにも振動することが存在することの条件だからです。でも、「全ての人は同一人物」というとき、慈悲に基づいて思考し行動することは簡単になります。慈悲は特に素敵な行為ではなく普通のことになります。

かといって、「全ての人は同一人物になる構造」「意識は一つとして存在する構造」ということが科学で示唆されても、直ぐには常識として浸透しないかもしれません。
「自灯明・法灯明」によって、三心平等、五蘊皆空、一切顛倒夢想まで認識する瞑想も必要かもしれません。

ふと思ったこと
波打ち際に立っていて、足に波が当たって砕けている。その砕けた波を自己としているイメージ。自由意志が存在し得ないイメージです。
「観」:自己の中心に不可分に存在する「私の意識」をもたらす物理的性質。
「観」の絶対、不変、恒常、不動、不生不滅、これらの条件を満たすように相対性を持って五蘊が展開している。「観」が移動するのではなく五蘊が「観」に対して振動する軌跡を描く。あらゆる振動が存在するのではなく、振動という性質が存在する。「観」の絶対性を満たすために五蘊が振動、展開し、いろいろな存在状態をとる。自己から見て他者は、まったく別の景色を見ているようで、まったく同じ質で振動している。特別などこか、特別な誰かは見え方で、本質は平等で同じ価値として存在する。

ふと思ったこと
最近読んだ『でたらめの科学 サイコロから量子コンピューターまで 勝田俊彦』に、
「P124 水の分子は、水1ccだけでも3×10の22乗個(1兆の3000億倍)ほどあるから、それらの動きを全部、追うのは到底できそうもない。この衝突の一つひとつを追わずに、「花粉の粒子が揺らいでいる」「花粉の粒子がでたらめに動いている」と、見立てて計算するほうが、ずっと楽で、実用的だ。」
このように書かれていました。なんだか、乱数に対してきちんとイメージできていなかったと思いました。本質的に非計算的ででたらめなものとして乱数を捉えていました。普段、非計算的なものは存在しないと思っていたのに、乱数についてきちんと考えたことがなかったことに気付きました。乱数は、計算仕切れないだけで計算可能なもの。五蘊がこの世全てと干渉し、波動性に気付くことがなくて非計算的に見えても本質的に計算可能ということをふと思いました。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

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