植物食べても殺生にはならないの?
ケーブルカーの高野山駅から山上の街中までは
バス移動になるのですが、バス専用の道路を通って行きます。
山の中を切り開いたうねうねと曲がりくねった道ですが、
時折野生動物を見ることができます。
この間は珍しくカモシカが出てきてました!
バスの運転手さんがちょっとゆっくり通り過ぎてくれたので
よく見ることができましたよ。
写真は間に合わなかったですけど。
可愛かったです!
写真は紀伊細川駅のねこたち。改札機あったかいの?
不殺生戒を犯さないために肉食を避けるという話を
してましたけども。
植物も生命だけどいいの?という疑問が湧くかもしれません。
仏教の考え方では、この世界にあるものは
有情と非情に分けられます。
有情とは感情や意識などがあり心の動きを有するもの。
非情は感情などの心の動きを持たないもの。
具体的には有情は動物や人などの衆生。非情は草木や石など。
植物は仏教では器世間に属します。
器世間はこの世界を構成する山や川や海、草木や岩石をさし、
衆生がその中で生きていく器のようなものなので「器」世間。
世界の構成要素なので無機質のものと同じで輪廻はしません。
根こそぎにすれば殺生に当たるかもしれないですが、
根を残して実などを収穫するのは殺生ではないと考えられています。
仏教と同時期ごろから始まったジャイナ教では
植物も生命を持っているので
植物を食べるのも不殺生に反するという考え方でした。
これに比べると仏教は少し緩やかな教えといえます。
しかし、大乗仏教においては
草木国土も全て仏性を持っていて成仏できるという
考え方が現れてきます。
これはもともとインドにはなかった考え方。
6世紀ごろから中国で見られ始め、
9世紀ごろから主に日本で広く受け入れられるようになりました。
「山川草木悉皆成仏」とか「草木国土悉有仏性」という
言葉があるのですが、これはこのままの表現はどうも
経典や論書には見つからないようなんですね。
よく見られるのは謡曲や文学作品の中。
日本人の自然に対する感性が非情のものの中にも
仏性を見出すことにしっくりするものを感じたのでしょう。
前回も書きましたけど、仏教は極端なことを離れる教え。
さまざまなものの中でバランスを取りながら生きることを教えます。
全てのものがつながっていて、お互いに関連を持ちながら
生きているこの世界。
そこで生きるには、何かにひどく偏るのではなく
その間の適切な状態を保つことがお互いにとって
最も望ましいあり方。
言ってみればそれが中道です。
戒律は仏教教団の中で人々が仏教の教えに従って
修行をしながら生きていくために
お互いにとって適切な状態を保つためのルール。
ですので、少し気をつければ守れるものであって、
全く守れないのでは意味がありません。
不殺生の戒があるからといって、それを守るために
何も食べずに死んでしまうというのでは本末転倒です。
生きるために必要なものを節度を守って入手するのは
止むを得ないこととして認められています。
止むを得ないとはいえ命を奪ってしまったことは
その命を受け取った人が懺悔の気持ちを持った上で
より良く生きること、他の衆生を利益することに
その命を使うことで償うしかありません。
草にも木にも山にも海にも仏性があって成仏できるものなら
草とも木とも、山とも海とも一緒によりよく生きる。
それが一番いい、冴えたやり方かもしれません。