修行する、ということ。
時々お会いした方に、
「お坊さんて日頃から精進料理なんですか?」
「滝行って月に何回くらいやるんですか?」
「夜中も寝ないで山歩いたりするんですか?」
と聞かれることがあります。
精進も滝行も山岳修行も、それぞれの方のそれぞれの
考えがありますので、やる人もいればやらない人もいる、
んですよね(^^)
人生は修行、なんて言い方をすることがあります。
修行というのはすごく苦しいかわりに
何かをジャンプアップさせてくれることのように思えます。
確かにそれはあります。
でもこれは苦しいことが要件、というわけではないです。
お大師さまは滝行とか山岳修行とかは
かなりお好きだったと思いますが、
おそらくですけどすごく楽しんでやっておられる部分が
あったのではないかという気がします。
何度かお話ししたことのある四度加行。
確かに苦しいんですが、楽しい部分も確実にあります。
「楽しい」が語弊があるなら「充実した」と言い換えてもいいです。
期間を限ってすごく集中してそれだけをやる、
ということは実はとても贅沢なこと。
しかもずっと仏さまを拝み続けられるという
ありがたいことをするわけです。
こういった修行が一ミリも楽しくない、という人は
密教のお坊さんには向いてないかもしれません。
実際友人の大学生阿闍梨や先輩方にお聞きしても
結構楽しかった、という感想を述べられる方は多いです。
かと言ってもう一回やれって言われたらイヤかも、
とは付け加えますけどね(笑)
修行というのは、苦しいことが要件ではなく、
集中して行う、ということが大事。
修行というのはルーティーンを作ることであり、
瞑想であり、クリアリングでもあります。
頭での理解だけではなく身体に落とし込み定着させるということ。
そして、何かの限界を一度越えることでもあります。
自分の中にある制限を一回壊すことで、
また新しいものを受け入れる余地ができます。
これは、別に僧侶の修行だけではなく、
いろんな分野の専門的なスキルを身につけるときにも
同様のことを行なっていると思います。
つまり修行する、ということは
継続的に集中して負荷をかけていくことで
自分の器を広げるということ。
人生が修行というのも同じです。
成長の過程でいろんな初めての体験をしていくことで、
自分の認識を広げていき、段階の違う達成を得ると
いうことです。
これまでのトレンドはどちらも
辛くて継続的で歯を食いしばって、みたいな部分に
すごくフォーカスが当たっていましたが、
新しいステージにぽん、と上がるとか
自分が限界と思っていただけで実はまだ先にいけたとか
そういうびっくりや喜びもある、実は楽しみなものでも
あるのではないでしょうか。
集中と継続に少しキツい部分があるだけ。
人はコストを払ったものに執着する、という話を前にしましたけど。
やった感はワナですが、適切に使えばそれ自体がご褒美にもなるわけです。
なので、ルンルンで片付くよりはちょっとしんどい部分が
あるくらいでちょうどいいかもしれません。
でも重要なのは、身体に落とし込むだけではなく、
頭でその意味を理解しておくことも必要だということ。
どちらかだけでは不足です。
それについての知識を十分持っていて、
行うことにはそれぞれどういう意味があって
どういうゴールに到達できるのかが見えていることが
修行を過不足なく続けていくには重要。
知識も経験も、両方備えていた方が
人生も修行も高いところまで行けるはず。
できるものなら、最大限の達成を狙って行きたいですね。
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