王平伝 3-1
二年ぶりの漢中の街並みは、見違える程に様相が変わっていた。その規模は成都に比べればさすがに劣るが、曹操が漢中の住民をごっそりと北へ移した直後に比べれば、格段に賑わいが増している。
ここに駐屯する蜀軍は二万を越え、それら兵士を相手にする商人が方々から集まり大小の商館を建て、その下での仕事を求める人夫が集まる。魏国内に比べれば蜀の税は安く、北からはるばる峡谷を乗り越え漢中まで来たという商人も少なくないようであった。王平も労役夫として参加していた山峡の橋造りが完成しつつあるということも大きいのであろう。
「民政のことになると、丞相の手腕は流石といったところだな。俺はここで治安を守っているだけで、面白いように人が増えていく」
椅子にふんぞり返った魏延が、顎鬚に手を当てながら言った。魏延の屋敷内である。漢中に着いた王平が句扶を伴って挨拶に行くと、魏延は破顔させて二人を迎えてくれた。
「お前の活躍は知っているぞ。名に聞く将来の丞相を継ぐ者と良い勝負をしたそうではないか」
馬謖のことである。
「そのようなことはありません。もう一歩踏み込まれていれば、私の軍は敗走させられていたでしょう」
この気前の良い男に、本当は自分が勝ったのだと、堂々と言ってやりたかった。だが言ってしまうと、この男は成都のやり方に不満を募らせることになるだろう。隣では、句扶が無表情のままその話を聞いている。
「私は漢中で、何をすればいいでしょうか」
王平は、すぐに話題を変えた。
「うむ、やる気満々のようだな。南が片付けば、次は北だ。その北伐をやり易くするよう下準備しておくのが、俺らの当面の仕事よ。二人とも、こっちに来い」
通された部屋に置かれた卓には、南は漢中、北は長安周辺のことが記された地図が置かれてあった。二人は、その地図を食い入るようにして見た。
「蜀軍の第一目標は、長安を陥落させることだ。この城塞都市を占領し、さらなる北伐の足掛かりとするのだ」
魏延は、演説するように説明し始めた。
「ここから長安までの道は三本ある。先ず一に、子午道。道のりでいえば一番短いが、険しい。この道に兵を通せたとしても補給が難しい。二に、斜谷道。普通に進軍しようと思えばこの道だ。子午道と比べたら遠回りとなるが、補給はし易い。第三に、一番の遠回りとなる箕谷道だ。この道を行けば長安は遠すぎる。途中の街を占拠して拠点を確保しておく必要がでてくるであろうな。王平、お前はこの箕谷道を歩き、祁山、街亭を見て回ってきてもらいたい」
「丞相は、箕谷道を通って北へ進攻するつもりなのですね」
「それはまだ分からん。あくまで、万事に備えておけとの指令だ。俺から言わせてもらえば、子午道を通って長安を奇襲し、北から魏の援軍が到着する前に一気に攻め込むのが一番だと思うのだがな。はっきり言って、長安の兵は弱い。まだ涼州は魏の版図組み込まれてから日が浅いから、魏のために本気で死のうっていう将兵が少ないのだ。これは、長安に放ってある間者からの報告を見れば一目瞭然よ」
なるほどこの男は蛮勇ばかりかと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。
「しかしそういった案は、丞相が嫌っておられるということですね」
「その通りなのだ、王平。お前もその辺りのことが分かってきたようだな。やはり丞相は文官なのだ。戦のことは、我々武官に任せてくれればいいものを」
魏延は眉間に皺を寄せながら言った。
「そしてそこの小さいの。句扶を言ったか」
句扶は、静かに顔を上げた。
「丞相から書簡が届いている」
魏延が懐から封をされた書簡を取り出した。
「これを開け、読み、すぐに燃やせ。必要なことがあれば、何でも言ってこい」
「御意」
王平の前ではよく喋る句扶は、他の者の前となると急に無口になることがある。魏延のような男は苦手なのだろうか、と王平は思った。
「今日は酒を飲もう、王平。成都の話を聞かせてくれ」
夜になり、酒と肉が屋敷の大広間に並べられた。その席には既に、句扶の姿はなかった。渡された書簡を読んで燃やすと、王平に一つ挨拶を残してさっさと北へと向かっていった。一晩くらい休めと言ってみたが、宴は苦手ですと言って漢中を後にしたのだった。
並べられた料理に成都特有の辛さはなかったが、山中で採れた山菜がふんだんに使われており、獣の臭いが強い肉が懐かしかった。
「成都の女はいいだろう、王平。漢中のような最前線では。妓楼に行ってもばばあしかいやがらねえ」
「妓楼には、一度だけ蔣琬殿と共に行きました。確かに、成都には綺麗な女が多いと思います」
「蔣琬。あの戦下手の青瓢箪か。あいつは俺らが荊州にいた時に小部隊を率いていてな、危ないところを救ってやったことがある」
「魏延殿は南荊州におられたのでしたね。それはその時の話ですか」
「そうだ。劉備様の軍団が南荊州に進出してきた時、俺はその軍に加わった。劉備様は人の心がわかる、とにかく優しい人だった。部下を自分の奴隷か何かとしか思っていない野郎はこの世に五万といるが、あんな主君に恵まれた俺は本当に幸運だぜ。あの人はもう死んじまったが、俺がこんなばばあしかいない所で大人しく働いているのは、あの人のためなんだ。それは、あの人が生きていようが死んでいようが関係ねえ」
「劉備様のそのような噂は、周りから聞いておりました。さぞ御立派な方だったのでしょうね」
「そうか。お前は劉備様に会ったことがないのだな。いいか、王平。男の幸せとはな、ああいった人の下で働くことだ。後継ぎの劉禅様はまだ若く、蜀の実質的な権力者は丞相となった諸葛亮殿だが、人の上に立つこととなるとどうかな」
言って、魏延は酒を呷った。
「いや、楽しい席にこういう話はやめておくか」
魏延は丞相のことが好きではないのかもしれない。いや、文官自体を嫌っているという節がある。もしかすると、魏延が成都から遠く離れた漢中に置かれている理由は、そういうところにあるのかもしれない。
「しかし妓楼に一度とは寂しいな。本当は、成都に何人か囲っているんじゃないのか」
「いえ、そのようなことは」
歓のことを話そうかと思い、王平は少し迷った。
もう洛陽を後にして、三年以上が経つ。これほど一人の女に未練を残していることを、女々しいと思われたくなかった。歓のことを忘れたわけではない。触れることもできない女のことをここまで想い続けていることを、おかしいと思われるのが嫌なのだ。そう思われることで、歓との思い出が汚されるような気がした。だがその反面、この想いを誰かに吐露してみたいという気持ちもある。吐露することで、一人の女を想い続ける重さを少しでも軽くできるのではないかと思えるからだ。
この魏延という男は、良くも悪くも男臭い。丞相に女の話をしても相手にすらされないだろうが、こういった男になら話してみてもいいのではないか。丞相と魏延を比較することで、少しだけ喋ってみてもいいかもしれないという気になってきた。
「実は、洛陽に」
歓のことを話した。酒が入っているせいもあってか、魏延はその話の一々に頷き、時に励ましてくれた。
「あまりこのことは、周りには言って欲しくないことなのですが」
そう付け加えることを忘れなかった。
「言わんよ。俺はそこまで口が軽くないし、無神経でもない。今の話は、俺の心の中にしまっておこう」
それを聞いて、王平はほっとした。軍を指揮する者が女のことで悩んでいると兵に知られれば、指揮官としての威信に関わってくる。
「そんな話を包み隠さずしてくれたというのが俺は嬉しいぞ、王平。さあ、もっと飲もう」
嫌な話をしてしまったと思う自分もいる。そんな気持ちが、王平に杯を重ねさせた。
それからの話題は、戦だった。魏延は荊州での転戦と益州攻めの話をした。ほとんどが自慢話のようであったが、退屈だということはなかった。
王平も辟邪隊を指揮していた時の話をした。山岳戦のこととなると、魏延は興味深気に耳を傾けてきた。さすがにこの辺は、生粋の軍人なのだろう。
王平は自分の口数がいつもより多くなっていた。成都から漢中に来たことで、少しでも歓のいる地に近づけたということがそうさせていた。
翌朝、王平は魏延に連れられ漢中軍の調練を見て回った。まだ少年の面影を色濃く残した二人の男が、こちらに向かって拱手しているのに王平は気付いた。
「こいつらはな、蜀軍の総帥である趙雲殿の子供たちだ。お前ら、あいさつしな」
「趙統です」
「趙広です」
兄の統はがっしりとした体格に恵まれていて、それに対し弟の広は句扶のように小柄であった。体は対照的でも顔が似ているところを見ると、なるほど二人は兄弟なのであろう。
「俺は趙雲殿に頼まれて、この二人を預かっているんだ。こいつらに軍のなんたるかを叩き込んでやっているってわけよ。なあ、お前ら」
「はい」
二人が白い歯を見せながら同時に答えた。この兄弟は、魏延に懐いているように見えた。一軍を率いる将ともなれば、こういう魅力にも恵まれていなければならないのかもしれない。
「そこで王平に頼みがある。弟の広を預かってもらいたい」
「えっ」
趙広が不安そうな顔を見せた。
「何だ、嫌なのか」
「私は、魏延殿の下で学びとうございます」
初対面の男にいきなり預けると言われ、不安になったのだろう。蜀軍総帥の子とはいえ、そこはまだ子供なのだと王平は内心ほくそ笑んだ。
「こら、わがままを言うんじゃない。俺はまだ漢中にいるし、王平も漢中にいる。ただ先生が変わるだけだ。別にどこかに追い出そうってわけじゃねえんだから」
魏延の口調は荒っぽいが、嫌がる趙広に諭すように言った。粗野な男だとばかり思っていたが、王平は魏延の意外な一面を見る思いがした。
王平は腰を落として趙広と視線を合わせ、肩に手をぽんと置いた。趙広はそれで、直立した。
「そんなに力むことはない、広。年はいくつだ」
「十四であります」
「統、といったか、お前は」
言われて、兄の趙統も直立した。
「十五才です」
「そうか。二人ともいい目をしている。俺もな、十五の時に軍に入ったんだが、俺よりずっといい軍人になれるかもな」
言われて、二人はぱっと顔を明るくさせた。
「よしお前ら、わかったら俺がいいと言うまで駆けてこい」
「はい」と魏延の言葉に同時に返事をし、二人は調練場の方へと走って行った。
「突然のことですまんな、王平。俺一人が一度に二人を教えるより、一人ずつ教育した方がいいと思ったんだ。こいつらには未来の蜀軍を担う優秀な将になってもらわねばならんからな」
「素直で、良い指揮官になる資質は十分にあると思います」
「そこは、さすがは趙雲殿の子よ。しかしな王平、一つだけ言わせてくれ」
突然、魏延は顔をしかめて王平を振り向かせた。思わず、王平はさっきの二人のように直立した。
「あいつらが戦場で犬死するかどうかは、俺らにかかっている。決して半端な気持ちで接してくれるな」
「こ、心得ました」
「その点、お前は篤実な男だから心配はしていないがな、念のために言わせてもらった。頼むぞ」
「はい」
魏延の顔は、真剣そのものであった。魏延には子がいない。もしかしたら、あの兄弟のことを自分の子供のように思っているのかもしれない。
その日から、王平は魏延の部下として調練の指揮をすることとなった。やることは、成都でしていたことと同じだ。旗を振り、鼓を鳴らし、兵を自在に動かせるようにする。毎日同じことの繰り返しである。同じことを繰り返すのが軍なのである。成都にいた時と違うことは、傍で趙広が身辺の世話をしてくれるようになったことだ。この少年は、当然調練にも参加する。魏延の言葉に従い時には過酷なこともさせたが、どんなに疲れていても一晩眠れば次の日にはけろりとした顔をしていた。それは若さだけがそうさせているのではないということは近くで見ていてよく分かった。心が、強いのだ。
兄の趙統は調練にへばってよく魏延に尻を蹴飛ばされていた。時には目に涙を浮かべながらも必死についていっていた。無理もない。魏延が率いる部隊はいざとなれば蜀軍の主力となる部隊で、その調練は蜀軍の中でも苛烈を極めているのだ。それに統は、まだ十五才の少年なのである。
趙統が調練で泣いた後は、魏延は決まって王平のところに酒を飲みにきた。そして他愛もないことを話して帰っていくのであった。王平には、それが何となくおかしかった。
ある日、調練が終わった後、趙広に腰を揉ませていると彼が言った。
「王平様は昔、山岳部隊を率いられていたと聞きました。本当でしょうか」
「そんなこと、誰から聞いた」
王平は趙統のあんまにうとうとしながら答えた。
「魏延様から聞きました」
「嫌な部隊だ。森の中でじっとして、蚊にくわれても蛭に噛まれても耐えねばならん」
「それは、普通の部隊とはどう違うのですか」
「そうだな、お前が思っている普通の軍が表の軍だとしたら、裏の軍だ。相手の意表を突き、表の軍が勝ち易くなるよう工夫をしてやるんだ」
「今の蜀軍にも、そういった軍はあるのですか」
ある。そう答えようとして、王平は言葉を止めた。あまりこういうことは言わない方がいいかもしれない。
「何故突然そんなことを聞くのだ、趙広」
「私の体は小柄です。もしかしたら、そういう軍に適しているのではないかと思って」
「余計なことは考えなくていい。お前は言われたことを黙ってこなせばいいんだ」
そう言いながらも、王平の心は動いた。
「折角、王平様の下で学ばせてもらっております。そういった技があるのなら、是非教えて頂きたく」
「余計なことは考えなくていいと言っている。黙って腰を揉め」
「はい」
趙広はむすっとしながらも、あんまを続けた。面白いかもしれない。王平は趙広を叱りながらもそう感じていた。
翌日、王平は魏延の館を訪った。趙広が言っていたことを相談するためである。
「趙統がそんなことを言っていたのか」
酒肴を前にして、魏延は腕を組んで唸った。山岳部隊は普通の部隊と違い、部下の先頭に立って敵陣へと斬り込む。当然、討死する可能性は高くなる。魏延はそのことを懸念しているのであろう。
「王平、お前はどう思うのだ」
「正直、向いてはいると思います。教えられたことを吸収する若さもあります」
魏延は、鼻からふーっと息を吐いた。目を閉じ、何かを考え込んでいる。嫌な決断を押し付けてしまっているのかもしれない。そんな魏延を見て、王平はそう思った。
「そういう指揮官も、これからの軍には必要なのかもしれないな。他の者であれば二つ返事で良しとするところなのだが」
魏延は苦笑いしながら言った。王平も近頃はあの兄弟に対し、魏延と同じ想いを持つようになっていた。その気持ちはわかる。
「よろしい。自分でやりたいと言っているのなら、やらせてみろ。そのかわり王平、しっかりと教えるんだぞ」
「御意」
形としては、上官からの許可が下りた。しかし王平には、後ろめたさがないわけでもなかった。
「趙広、来い」
その日の調練が終わり、井戸で頭から水をかぶっていた趙広を呼びつけた。
「はい、なんでしょうか」
「お前、山岳部隊の技を身につけたいと言っていたな」
趙広の口元に笑みが浮かんだ。
「はい、言いました」
「今日から、お前に山岳戦の技を教える。ただし、通常の調練が終わった後にやるんだ。できるか」
「望むところです」
「馬鹿者。軍人の返事は、はいだ」
「はい」
趙広の若い声が、元気良く答えた。
王平はその日から、趙広に血がにじむような調練を課した。森の中でのこごみ歩き、狭い空間での短剣を使った格闘術、そして長時間に渡って体を静止させる訓練。時には動きを止めたまま、一睡もさせなかった。辛い調練を課すことで根を上げて欲しいという気持ちは確かにあった。しかし確実に、趙広は王平の技を会得していった。
趙広を心配するという反面、これはいい指揮官になるという想いが王平を楽しませた。もしかしたら定軍山で死んだ夏候栄も、生きていればこんな風になっていたかもしれない。
句扶が帰ってきたら、その下に趙広をつけるよう進言してみよう。もしかしたら句扶はそういうことを嫌がるかもしれない。しかし嫌々ながらも、彼は引き受けてくれるはずだ。そんなことを考えると、王平はたまらなく楽しかった。
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