王平伝 9-11

 遼東で公孫淵が叛乱を起こし、これを討伐するための軍が洛陽に集められた。北方での戦となれば強力な騎馬隊が必要不可欠となるため、夏侯覇は手勢の五千を率いて長安から援軍としてやってきていた。

 上質な生地でできた袍を身に纏い、掃除の行き届いた一室を宛がわれて北への出兵命令を待っていた。綺麗な部屋がどうも落ち着かなかった。洛陽の軍営で兵と共に過ごすことを希望したが、将軍が受ける待遇ではないと言われ笑われてしまった。生前の父や叔父が積み上げた功績が、夏侯姓を特別なものにしていた。

 戸を叩く音がし、夏侯玄が一人の男を連れて入ってきた。

「つまらなさそうな顔をしているな、夏侯覇」

「ここは息が詰まる。俺には埃臭い軍営の方が合っているようだ」

「毎日、調練はしているんだろう」

「まあな。ところでそちらの御仁は」

 夏侯玄の隣の男が、笑顔を向けて一礼した。あまり良い笑顔ではない、と夏侯覇は思った。

「李勝と申します。曹爽様に近侍している者です」

 曹爽は、蜀攻めの後に死んだ曹真の長子で、洛陽で大きな力を持っていた。また夏侯玄の従兄にもあたる。

「その李勝殿が、俺に何の用です」

 作り笑顔を訝しんだ夏侯覇がぶっきらぼうに言うと、李勝が湛えていた笑顔を少し崩した。宮廷ではこんな野暮な物言いをする者はいないのだろう。しかし夏侯覇は、気にしなかった。

「暇を持て余されているようなので、洛陽の軍と演習戦でもしてみないかと曹爽様が提案されております。是非、歴戦の将である夏侯覇殿のお手並みを拝見させて頂きたい」

「それは構いませんよ」

 李勝は喜んで美辞麗句を連ねて礼を言い、夏侯覇はそれに適当に相槌を打った。

 洛陽の軍人から夏侯覇は、蜀軍と何度も戦った将の一人として、幾らか畏敬の念を持って見られていた。それに悪い気はしないが、時に煩わしいこともある。

「参加して頂けるのなら渡すものがあります。これをお納め下さい」

 李勝が懐から袋を取り出し卓に置いた。中に銀の粒が入っていることは見なくてもわかった。

「何ですか、これは」

「お近付きの印です。同じ魏国の臣として、どうぞよしなに」

「こんなものがなくともよしなにはできますよ。これはお返しします」

 夏侯覇は李勝の手を取り銀の袋を持たせて懐に押し返した。

「それよりも、遼東への出陣はまだか」

 夏侯覇は困惑する李勝を尻目に、夏侯玄に言った。

「司馬懿様が指揮を執られることは決定している。軍の編成もほぼ決まっていた。ところがしばらく動かないだろうと見ていた蜀が不穏な動きを見せ始めた。成都から漢中に兵を集めているようなのだ」

 またか、とは思わなかった。来るならまた戦えばいい。戦うことこそ、軍人の存在意義だ。

「そういう理由で軍議が長引いている。折角洛陽に来てくれたのだが、このまま長安にとんぼ返りして蜀軍に備えてもらうことになるかもしれん」

「そういうことか」

「ですので、せめて洛陽の軍に稽古をつけてもらえればと思いまして」

 李勝の声は些か不機嫌になっていた。

「日取りはいつです」

「三日後。南東の丘陵地帯で曹爽様の弟であられる曹羲様の率いる軍と、司馬師殿の率いる軍が遭遇戦をやります。夏侯覇殿には三千の騎馬隊で曹羲様の軍に参加して頂きたい」

 夏侯覇はその話にきな臭いものを感じた。洛陽の宮中にも派閥があり、司馬家と曹家はそれぞれが派閥となって別れている。その派閥争いには関わりたくなかった。

「三日後に演習戦があると、部下には伝えておきます」

「それはいけません。できればこのことは内密にして頂きたい。夏侯覇殿の参加ことが知られれば、洛陽の将兵は畏縮してしまいます」

「戦に出ようという者が、相手によって畏縮するのですか」

「洛陽の将兵は実戦を知らぬ者ばかりです。ここは何卒、本番まで御内密に」

「わかりました。そう言われるのなら黙っておきましょう」

 恐らく、司馬家の者に知られたくないのだろう。それは口に出さず納得しておくことにした。何か意図することがあるのだとしても、一歩引いて見て見ぬふりをしておけばいい。

「曹羲様には期待しておいてくれとお伝え下さい」

 李勝はその言葉に喜んで夏侯覇の手を取ってきた。その顔はやはり、下心があるように見えた。

「では、これで」

「待ってくれ、夏侯玄。少し街でも歩かないか。行きたい所がある」

「街を歩くか、それはいいが」

「戦友が上洛されたのです。夏侯玄殿の仕事は私がやっておきますので、是非お行きなされ」

「そう言ってくれるのなら行くか。礼を言うぞ、李勝殿」

 李勝がまた下心の見え隠れする笑顔を向け、出て行った。

 夏侯覇は夏侯玄を連れて外に出た。洛陽の城郭内は豊かで、戦場とは真逆の場所であると思えた。たくさんの人々が富に群がり、富から溢れた者は城郭の端へと追われ、さらに溢れた貧しい者は城外に暮らしている。洛陽の宮殿を中心に円を描くように、富む者が内へと、貧しい者が外へと居住していた。

「銀の袋を拒否していたな、夏侯覇。格好などつけずに、ああいうものは黙って貰っておけばいい」

「軍人には余分なものだ。駿馬三千頭なら喜んで貰うが」

「銀を渡すことで築ける関係もある。逆に断ってしまえば相手に不信感を与えてしまうことになるぞ」

「銭がなければ成り立たない関係など、何の価値がある。お前は賂など嫌う男だと思っていたのだがな」

「お前は何もわかっていない。洛陽には、洛陽のやり方があるのだ。それを頭から否定したところでどうなる。周りからおかしな目で見られるだけだぞ」

 もういい、と言うように夏侯覇は手を振った。雍州の西端では、氐族が家畜同然の暮らしをしていた。あの貧困さの上にわずか一握りの人間の豊かさがあり、そのわずか一握りの豊かさを守るために魏国があるというのなら、自分は何のために軍人をしているというのか。あまり考えたくないことだった。

「ここは豊かだな。豊か過ぎるほどだ」

「ここでの豊かな暮らしがあるのは、お前ら軍人のお蔭だ。感謝しているよ」

「実際に戦場に立ったお前も感謝される側で、感謝する側ではないのではないか」

「俺は文官だ。前線で血を流すことはない」

「関係ないさ」

 お前と俺は違う。そう言われたようで会話が続かず、夏侯覇はそれを誤魔化すように周囲の店を見渡した。雑貨を売る店や、焼いた肉を売る店に小奇麗な格好をした婦人が群がっていた。

「洛陽の物はどうしてこうも高いのだ。あらゆる物が長安の倍近くあるぞ」

「蜀との戦で司馬懿様は、雍州の民を手懐けるために大量の銭を造って撒いた。それで物が豊富にあった都の商人を肥やした。長安で造られた銭は商人を通じて大量に洛陽に流れ込んだのだ」

「銭が増えると、物の値が上がるのか」

「銭があれば、財布の紐が緩むからな」

「それにしては城外には貧しい者が多いようだが」

「銭を持つ者がその銭を使い、さらに多くの銭をかき集める。銭を持たない者はいつまで経っても貧しいままだ」

「つまらんな」

「そう言うな、夏侯覇。銭を使うことで民をまとめ、蜀軍を打ち払った。魏国が蜀軍に侵されるよりよほどましなことではないか」

 眼の前で、焼いた肉の串を落とした童が泣いていた。母がすぐに駆けつけ、新しい肉を買い与えた。襤褸に身を包んだ男が落ちた串を見つけ、砂まみれになった肉を食いだした。肉を買った母子は、その男を見てくすくすと笑いながら去っていった。まるで銭を持たない者は人ではないと言わんばかりに。

こんな世のために今まで戦っていたのかと思うと空しい気持ちになってしまう。洛陽でこういう光景を目にするのは、一度や二度ではないのだ。

「俺は銭のためには戦わんぞ、夏侯玄。お前も文官なら、ああいう母子を何とかしろ」

「なんとかしろと言われてもな。出世していずれ力を持てば考えてやれるが、今の俺には力がない。銭を撒いた司馬懿様を批判すれば、俺の首なんかすぐに飛んでしまうよ」

 そんな会話をしながら裕福な通りを抜けた。中央通りから外れて城壁に近付くにつれ、貧しさが目についてきた。

「どこに行こうというのだ」

「会いたい人がいる。俺はあまり面識がないから、お前に付き添ってもらいたかった」

 小気味良い金属音を鳴らす鍛冶屋の隣に、裕福さはないが清潔さのある家が一軒あり、夏侯覇はそこに訪いを入れた。家人が出て来て、二人は中へと通された。車のついた椅子に座った辛毗が書見をしていて、二人に気付くと声を上げて二人を迎えた。王平に斬り飛ばされた両足の先は、肉が盛り上がって丸くなっていた。

「先の大戦では大義でありました。一度、挨拶に参りたいと思っていたのです」

 洛陽に戻った辛毗は、足を失ったことで引退していた。洛陽の隅に小さな家を与えられ、そこで家人と二人で静かに暮らしていると聞いていたのだ。

「儂のような物の役に立たなくなった老人に会いに来るとは、物好きなことだな」

「物の役に立たないなどと。蜀軍の諸葛亮を討ったのは、辛毗殿であると私は思っております」

「それは言い過ぎだよ、夏侯覇」

 言って辛毗は大笑した。この人はこんな笑い方をするのか、と夏侯覇は思った。蜀軍と対峙した戦場では、司馬懿の謀臣としていつも暗い顔をしていた。

「今ではめっきり客が減ってしまった。昔は色々と物を聞いてきた夏侯玄も、全く儂の顔を見に来ようとせん」

「私は、そのようなつもりでは」

 隣で夏侯玄が恐縮していた。武功で蜀軍と睨み合っている時、洛陽から二万の援軍を引き出しに行った辛毗に、夏侯玄は随行した。物を聞いてきたとはその時のことだろう。

「戦に大功のある辛毗殿がこんな所で不遇を囲っているとは、いささか心苦しい思いがします」

「自らここを望んだのだ。隣に、腕の良い鍛冶屋がいる。脚を失った儂には、この椅子をすぐに直してもらえるここが一番良い」

「ここでの暮らしで銭に困ることがあれば、私がすぐに届けます」

「お前はすぐに銭の話をするようになったな、夏侯玄。為政者たる者がなんでも銭に頼っていてはいかん。銭がなく椅子を直すのに困れば這えばいい。それを見て少しでも憐れんでくれるのなら、手を貸してくれればいい」

「ですから、そのために」

「まあ儂のことはいい。足がないことが悪いことばかりではないぞ。足がなければ、足を洗わずに済む」

 夏侯玄に向かって快活に喋る辛毗に、夏侯覇は好意を持ち始めていた。立場が変われば、こうも人は変わるものなのか。

「司馬懿様は元気にしておられるか。今頃は、宮中で曹爽様との戦に苦労されておられることだろう」

「辛毗様、物騒なことを言われますな。魏の臣同士でどうして戦をせねばならぬのです」

「人の世とはそういうものだ。恥じることもない。その諍いの中で知恵を凝らし、上手くやっていこうというのが人の世ではないか。その事実から目を逸らしていたのでは良い仕事はできんぞ」

 夏侯玄はそれに言い返せず、困った顔を見せているだけだった。

 曹家と司馬家は、やはりあまり良い関係ではないようだ。李勝が演習戦に誘ってきたのは、やはり自分のことを曹爽側に引き込んでおきたかったという意図があったのだろう。

「お前はどうなのだ、夏侯覇。司馬懿様と曹爽様、どっちに見込みがあると思う」

「えっ」

 妙なことを聞かれ、夏侯覇は辛毗の顔を見つめた。笑っている。李勝のような嫌な笑いではない。一線を退いたからこそ、この老人はこんなことを笑いながら聞けるのだ。いやらしいことを聞く辛毗の顔を見ていると、無性に笑いが込み上げてきた。

「笑うか、夏侯覇。それもいい。そういう諍いが嫌なら笑って誤魔化せばいい。そして誤魔化しきれなくなったら、蜀にでも逃げればいいのだ」

「そうですな」

 言って辛毗と夏侯覇は共に笑った。夏侯玄だけが、笑い声に挟まれ顔を困らせていた。

 笑っていると、外から馬蹄の鳴る音が聞こえてきた。その音は徐々に近付いて辛毗の家の前で止まり、一人の男が入ってきた。

「探しました、夏侯覇殿。私は司馬師様の属将で、胡遵と申します。三日後に演習戦がありますので、それに司馬軍として参加して頂くようお願いに参りました」

「胡遵とやら、お前はいきなり入ってきて何を言っているのだ」

 夏侯覇は言いながら腰を上げた。

「ですから、演習戦の御加勢に」

「俺は今、辛毗殿と話をしているのだ。そこにいきなり入ってきて、何がお願いに参りましただ。洛陽の軍人は最低限の礼節も知らんのか」

 胡遵が、呆れたような笑みを浮かべた。

「夏侯覇殿、ここは城郭内の端です。長安から来たから知らないでしょうが、こういう所には銭の無い者が」

「黙れ」

 夏侯覇は胡遵の顔に思いきり拳を打ち付けた。

「お前の願いは断る。礼節を学んで出直して来い」

 胡遵は何故殴られたか分からないという顔をしながら、それ以上は何も言わず逃げるようにして出て行った。

「腰抜けめ。軍人のくせに、殴り返すこともできんか」

 夏侯玄が止めに入ってくるかと思ったが、ただ見ているだけだった。蜀との戦に臨む前に、夏侯玄とは一度殴り合った。そのことを思い出していたのだろうか。それとも、自分が司馬家の者を殴ったことを内心で喜んでいるのだろうか。

「剛毅だのう、夏侯覇。その剛毅さは、いずれ災いの種となるぞ。儂は嫌いではないがな」

「望むところですよ。非礼に非礼だと言って、何が悪いのです。城郭の端の家がどうだとか、軍人が銭の量で人を見るようになれば終いだ」

 洛陽に来てからどうも居心地が悪かった。それは小奇麗な一室や着物にあるのではなく、あのような銭勘定で動く者が多くいるからだと胡遵を殴ってはっきりとわかった。

「その気概を持ち続けろ。夏侯玄も、こういう軍人を積極的に頼るのだ。気概なく銭ばかりを追って生きる者より、気概を持つことで損をしながら死ぬる者の方が儂は好きだ」

「まるで私がすぐにでも死ぬような言い草ではありませんか。私は、あんな輩には殺されませんよ。またおかしな者が来ない内に、今日のところは帰ります」

「またいつでも遊びに来い」

 二人は一礼し、辛毗の家を後にした。

 三日後、夏侯覇は手勢の五千騎から三千を選び、重騎兵を率いる徐質と、軽騎兵を率いる苻双を従え、演習場へと向かった。

 本陣には、既に曹羲の幕僚が集まっていた。夏侯覇を誘ってきた李勝と、曹羲軍幕僚である楊偉が声を上げて幕舎に迎え入れてきた。煌びやかな具足に身を固めた曹羲が、幕舎の奥に座っていた。

「よく来てくれた、夏侯覇。これは演習戦であるが、実戦だと思ってやってくれ」

 余分な肉が付いていてあまり強そうではない。夏侯覇はそう思いながら拱手した。

 卓には戦場の地図が置かれていた。一万と一万の勝負で、騎馬はそれぞれ三千である。戦術を練る幕舎に満ちた緊張感は、実戦のそれとは少し違うという気がした。

「先鋒は、李勝の四千。楊偉がその後ろに二千で続く。夏侯覇は三千の騎馬で遊軍となり、敵の側面を突くよう動いてくれ。いつ仕掛けるかは、お前の判断に任せる」

 曹羲の周囲は千が守るということで、これはいかにも少ないと夏侯覇は思った。

 次は楊偉が口を開いた。

「李勝殿の四千がまずぶつかり、敵の動きを止めます。これは囮のようなものです。足を止めた敵を、私と夏侯覇殿で挟み撃つというのが基本方針です」

 この戦は負ける。夏侯覇は話を聞いてそう直感した。この作戦は、敵が李勝の四千を正面から受けることを前提に建てられている。司馬師の軍が李勝の四千を無視し、後方の曹羲を狙えば、守りは一千しかいないのだ。

 それを言うべきかどうか、夏侯覇は迷った。あまり余計なことを言って角を立てたくはなかった。

「夏侯覇の考えを聞かせてくれ」

「良い作戦だと思います。丘陵地帯で怖いのは、丘の影に隠れて動く騎馬隊です。李勝殿が敵の目を引き付けてくれれば、私が敵の背後を突きましょう」

 それで遠回しに敵騎馬隊の危険性を伝えたつもりだったが、曹羲と李勝はただその言葉に喜んでいるだけだった。楊偉だけが、黙ってじっと夏侯覇の方に目をやっていた。

「それでは、それぞれの配置に着け。必ず勝つぞ」

 そこにいた全員が声を上げた。出動命令を出し、馬に鞍を乗せていると、名前を呼ばれて夏侯覇は振り返った。楊偉だった。

「自軍にいなくてもいいのですか」

「戦が始まる前に、夏侯覇殿の意見を聞かせて頂きたい」

「私の意見なら軍議で述べた通りですが」

「私の目にはそうは見えなかった」

 ほう、と夏侯覇は心の中で思った。洛陽の軍人の中にもましな者はいるようだ。

「夏侯覇殿にとっては、この演習戦は遊びのようなものかもしれませんが、私は真剣なのです」

 夏侯覇はそれに苦笑した。

「何が可笑しいのです」

「遊びなどとは思っていません。いや、思っていたかな。ちょっと、待ってください」

 夏侯覇は徐質と苻双の二人を呼んだ。徐質は沈着としていて、苻双は少しあがっているようだった。

 四人で円になって座り、夏侯覇は木の枝で地面に図を描いて説明した。

「これが、我が軍の配置です。これでは負けます。負ける可能性が高い、という意味ですが」

「何故、そう思われるのです」

「四千の歩兵が一丸となって前に出て、二千が後詰となればこれはいかにも堅い。しかし、鈍重です。敵とぶつかる前に斥候に補足され、ぶつかり合いを避けられてしまえばいないことと同じになってしまう」

「戦だというのに、戦わないというのですか」

「戦はぶつかり合いだけではないのです。徐質、お前が敵ならどうする」

 徐質が枝で、大きく弧を描いた。

「丘を縫うように騎馬を走らせ、後方に回って千の本陣を突きます」

「待ってくれ、それではかなりの時がかかる。こちらも斥候は出しているのですよ」

「敵の騎馬を補足しても、対応できなければ意味がありません。だから、鈍重さがこの作戦の弱点なのですよ」

 楊偉が唸った。こちらが伝えたいことは、ちゃんと理解してくれているようだ。

「本気で勝とうと思うのなら、李勝殿には悪いですが、この四千が敵とぶつかっても助けに向かってはなりません。李勝殿にはある程度の死に兵になってもらいます」

「しかしこの四千が討ち果たされれば」

「小さくまとまった四千は、そうそう破られるものではありません。敵はこちらの騎馬隊にも警戒しなくてはなりませんから」

「わかるという気もしますが」

 楊偉は、半信半疑という顔をしていた。書の上でしか戦をしたことがなければこんなものだろう。

「この話を軍議でしていても、恐らく聞き入れてもらえなかったでしょう。私は客将ですからね。さあ、配置に戻りましょう。私の話は、胸に御仕舞いください」

 そう言っても、楊偉は難しい顔をするだけで動かなかった。

「敵の騎馬隊は、本陣まで来ますか」

「来ます。間違いなく」

 司馬師なら、必ず奇を衒う。正面から兵をぶつけ合う愚直な戦をするような男ではない。

「勝ちたい。私は、どうしても勝ちたい」

「出世のためにですか」

「そうではない。私は軍人だ。軍人なら、勝ちたいと思うのが当然ではないか」

 楊偉が強い眼差しを向けてきた。良い目をしている、と夏侯覇は思った。

 銅鑼が鳴った。楊偉は礼を言って自陣に戻って行った。

「負けますか、隊長」

 徐質が聞いてきた。

「負けてもいいかと思っていた。あの男のために勝ってやろうかという気になってきた」

「そうこなくては」

 徐質が手を打って喜んだ。徐質にも、楊偉の熱意が伝わったようだ。

「苻双、お前は五百の軽騎兵で敵本陣の周りを駆け回れ。斥候に補足されては姿を消すということを繰り返すのだ。もし敵の騎馬隊と出くわしても、戦わずにひたすら逃げろ。軽騎兵の足ならそれができる」

「わかりました」

 苻双は強張った顔を頷かせた。

「お前、しっかりやれよ。頭に血を昇らせて敵に突っ込むんじゃないぞ」

「徐質殿こそ、曹羲様をちゃんと守ってくださいよ」

「言ったな、こいつ」

「その辺にしておけ。そろそろ行くぞ」

 全軍に騎乗を命じた。

 李勝の四千が先陣を切って進発した。その後ろに続いて楊偉の二千がゆるゆると進み始める。それを確認して夏侯覇は苻双に合図を出した。苻双の五百が、李勝の四千を大きく迂回するように駆けだして行った。上手くやれよ。夏侯覇は馬上でそう呟いた。

 しばらくの間があり、李勝の四千が敵と遭遇したという伝令が来た。敵は司馬師を中心に、七千の歩兵が守りの陣を組んでいる。騎馬隊発見の報告はまだない。

 李勝から、敵七千の側面を崩してくれという要請が何度か来た。夏侯覇はそれを全て無視した。後軍となっている楊偉の二千も、李勝の四千からかなり離れた場所で足を止めている。そのさらに後方の小さな盆地となっている地形に、夏侯覇は手勢の二千五百を隠していた。曹羲からも何故動かないのかという伝令が来たが、やはり無視した。

 李勝の四千と司馬師の七千が対峙してかなり時が経った。この間に苻双の五百は何度か補足されているはずだ。三千の騎馬を幾つかに分けて七千の隙を伺っていると司馬師が読んでくれれば、この戦は勝ちだ。

 司馬師が仕掛けた。七千の陣を鶴翼に開き、李勝の四千に襲いかかった。斥候がその様子を伝えてくる。楊偉の二千はそれでも動かず、じっと耐えていた。李勝からの救援要請がしつこく、徐質が伝令兵を馬から突き落としていた。

 夏侯覇は丘の稜線から顔を出して曹羲の千を見つめ続けた。敵騎馬隊はまだ補足できていない。こちらも、補足されてはいない。もう来るはずだと、夏侯覇は確信した。

 見えた。先遣隊であろう五騎が、向こう側の稜線から姿を見せてすぐ消えた。

「乗馬。徐質の重騎兵から、一直線に本陣に駆けろ」

 五騎が消えた所から、敵の騎馬隊がぬっと姿を現した。それと同時に徐質の千五百が丘を駆け下りた。

 曹羲の本陣に向かう敵の騎馬三千が、徐質の騎馬隊を見て浮足立ったのがわかった。数で勝てると思ったのか、敵は曹羲の千から徐質の千五百に馬首を向けた。夏侯覇も、千を率いて徐質の後に続いた。

 前面を馬甲で固めた徐質の重騎兵が、蔓を割くかの如く倍する敵騎馬隊を断ち割っていった。割れた片方に、夏侯覇は千をぶつけた。騎馬隊の指揮官はあの胡遵だった。

 一度のぶつかりで敵の三千は乱れに乱れ、胡遵は戦う素振りも見せず乱れたまま司馬師の陣へと逃げ始めた。

 夏侯覇は舌打ちをした。本陣は守ったが、この騎馬隊が七千と合流されると厄介だった。こんなにあっさりと退くとは思っていなかったのだ。夏侯覇は徐質と共に胡遵の後を追った。

 不意に、胡遵の逃げる先から鬨の声が上がった。楊偉の二千。胡遵の逃げる先を完全に遮っていた。

 胡遵の騎馬隊が足を止め、降参だと言うように調練用の棒を地に放った。徐質が目配せしてきた。行け、と夏侯覇は目で言った。逃げるばかりの卑怯者め。夏侯覇は心の中で罵った。

 徐質が駆けて行って棒を薙ぎ、胡遵の体が馬上から消えた。

「楊偉殿、すぐに反転しろ」

 夏侯覇は駆け抜け際にそう叫んだ。楊偉が目で答えていた。

 馬を疾駆させた。すぐに歩兵がやりあっているのが見えてきた。李勝は七千の鶴翼に半円を描くように包囲され、四千を三千程までに減らしていた。

 疾駆の勢いのまま、夏侯覇は七千の左側に突っ込んだ。錐をもむように食い込み、肉を抉り取るように内から崩して抜け出した。それを二度、三度と繰り返していると、楊偉の二千が追い付いてきた。劣勢だった李勝の三千が五千になり、夏侯覇が崩したところから押し返し始めた。それでほぼ勝負は決まっていた。

 その時、敵の背後の丘から五百の騎馬隊が姿を見せた。苻双だ。苻双は雄叫びを上げながら丘を駆け下り、逆落としの勢いで敵陣の背後を襲った。

 苻双が敵陣を割っていく。もう反転しろ。夏侯覇がそう思っても、苻双は進むことを止めなかった。そして司馬の旗まで辿りつき、苻双の鋭い突きが司馬師を落馬させた。

「あいつ、容赦ないな」

 徐質が呆れて言った。

「お前も人のことは言えんだろう」

「確かに」

 勝敗を告げる銅鑼が鳴らされた。曹羲軍の大勝である。

 夏侯覇は馬を歩ませ司馬師のところに行った。

「御怪我はありませんか」

 顔の半分を泥で汚した司馬師が、地に座っていた。

「俺の誘いを断り、曹羲殿についたか、夏侯覇」

「あれは、胡遵殿があまりに非礼だったためです」

「まあいい。あのちょろちょろと動く五百を完全に読み違えた。遼東に行く前に良い演習ができた。礼を言うぞ。きっと曹爽殿からは褒美が出ることだろう」

 皮肉混じりの言葉を残して司馬師は行ってしまった。

 兵を収容し終え、面倒だと思いながらも筋肉質な体に似合わない袍で身繕いし、曹羲の館に向かった。館では、もう宴が始まっていた。

「夏侯覇が動かぬ時はどうしたのかと思った。あの騎馬隊を読んでいたのだな。本当によくやってくれた」

 既に酔っている曹羲が夏侯覇の肩を叩いて喜んだ。

「李勝殿の四千が敵を受け止め、楊偉殿がそれに耐えてくれました。勝因はそれで、私はただ馬を走らせていただけです」

「謙虚なところも良い。褒美を取らせるぞ。これは、俺の兄である曹爽殿からだ」

 言って曹羲は袋を渡してきた。中を見ると、李勝が渡してきたものより多くの銀の粒が入っていた。

「これは過分な」

「遠慮はするな。こういう時は、遠慮をした方が非礼になるのだ」

 それで曹羲は夏侯覇に興味を失ったのか、女の方に行ってしまった。それを見計らって、楊偉が隣に座ってきた。

「今日の戦は、夏侯覇殿の言った通りになりました。少しでも疑ってしまった自分を恥じております」

「李勝殿からは恨まれてしまいましたかな」

「救援要請を無視しましたが、あれは正解でした。現に我らが勝ったではありませんか」

「しかし一つの演習で勝ったくらいで、この盛り上がりは大袈裟ではありませんか」

「天下に響く司馬懿様の軍に、曹爽様の軍が勝ったのです。実態はどうあれ、世間からはそう見られます。これは我らにとって決して小さいことではないのです」

 やはりそういうことか、と夏侯覇は思った。あれは兵を強くするための演習戦ではなく、曹家と司馬家の政争の一環だったのだ。演習前に見せた楊偉の熱意に疑いはないが、それもどこか白々しいものに思えてきた。

「行きます。やはり私には、ここより軍営の方が性に合っているようです」

 名残惜しむ楊偉を尻目に夏侯覇は屋敷を出た。

 渡された銀の袋を見て、趙雲を討ち取った時の王双を思い出した。大して喜びもせず、女のために髪飾りを熱心に選んでいたあの姿には妙な愛嬌があった。もう、十年も昔のことだ。あの頃にいた張郃や王双のような男は、洛陽の軍にはいなかった。

「よくお似合いじゃないですか、隊長」

 軍営に戻ると顔をにやつかせた徐質が言ってきた。

「洛陽での用は済んだ。すぐに長安に戻る準備をしておけ。こんな衣はさっさと脱いでしまいたい。それとな、俺達は曹爽派になったようだ。一応覚えておけ」

「なんですかそれは」

「洛陽の馬鹿どもの目にはそう映るということだ」

 軍営の方々で兵が騒いでいた。演習とはいえ勝利に大きく貢献できたことで、皆が興奮していた。実戦に参加したことのない氐族にとっても、この演習戦は良い経験になったはずだ。

 この兵たちに銀を配ってやろうか。そう考えたが、やめておいた。兵たちの顔は十分に笑顔に満ちていて、銀を配ればこの笑顔が壊れてしまう気がした。

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