王平伝 5-1
成都では、物の値が上がり始めていた。蜀で生産された大部分の富が、北で行われている戦で費やされているためだ。
蔣琬は、成都の中央通りを、五人の供を連れて歩いていた。供の五人は、いずれも体術の手練れである。成都を離れている諸葛亮に代わって国事を任されているのだ。今やもう、一人でどこかにぶらりと出かけるようなことなどできない身分になっていた。
街の中は、北伐が始まる前と比べると、道行く人の数が明らかに減っていた。大きな店が並ぶ中央通りにも、以前のような活気はない。民の活気とは、国の活気と言っていい。また商いの活気とも言っていい。国の活気が、北へと注がれているのだ。
蔣琬は執務室に戻ると、卓について大きなため息をついた。卓の上には、北へと送らなければならない物資と人員についての書類が山積みにされている。
戦によって大きな影響を受けるものの一つに、市場がある。兵の腹を満たすために多くの糧食が北へと送られ、国内の穀物が少なくなった。そこで商人による買い占めが横行し始めた。それによって輪をかけて、民の口に入るものがかなり減っている。
法により穀物の買い占めを禁止し、それでもやめない者は摘発したが、それでは根本的な解決にはならなかった。
足りていない糧食は、呉から米を買うことで補った。この大陸の南東では、米が豊富に採れるのだ。しかし同盟国とはいえ、呉はいつ敵に回るか分からない国である。陳倉城攻めの時に東で呼応した呉は、利が薄いと見るやあっさりと軍を退いたのだ。戦によって疲弊した今の蜀の窮乏を知った呉の廷臣達は、手を叩いて喜んでいることだろう。
そんな中で、呉の王だった孫権が帝を提唱した。この大陸に、三人の帝がいることになった。漢王朝の復興を掲げる蜀としてはこれを無視することができなかったが、今の国力では抗議すらできない。抗議どころか、祝賀の使者を送るのが、それに対する精一杯の外交であった。
やはり、戦は一度中断するべきである。成都の廷臣の中には、そんな空気が濃厚に漂い始めていた。
「苦労をしているようだな、蔣琬」
董允が、まだ若い従者と共に務室に入ってきて言った。諸葛亮がまだ北伐を続けることができるのは、この男が帝の周りにいる北伐反対派を抑えているからだと言っていい。
「暢気なものだな。陛下の話し相手をしていればいいお前に、この苦労はわからんだろう」
「愚痴るな。俺は俺で、苦労しているのだ。宦官を始めとして、陛下の耳元で良からぬことを囁く者は少なくない。そいつらを抑えつけることで、俺があいつらからどんな陰湿な嫌がらせを受けているか知らんだろう」
言われて、自分もずいぶんと憎まれているのだろうな、と蔣琬は思った。いっそ戦を止めてほしい。そうは思うが、口には出せないことだった。諸葛亮の代理として、自分はここにいるのである。
「郤正、茶を入れてこい」
従者に向かって董允は言った。郤正と呼ばれた従者は静かに頷き、茶の用意をしに行った。
「何なのだあいつは」
蔣琬が顔を近づけて小声で言った。
「気付いたか。先日、丞相の命で俺の従者となったのだ」
「足音が、全く聞こえなかった」
「丞相の目となるために送り込まれてきたのだろう。何、まだ十六の小僧だ。恐れることなどない」
「恐れなど」
郤正が茶の乗った盆を持ってきたので、二人は座り直した。
やはり、足音は一つとしてない。
「物価の値上がりだけは、どうしようもないか」
蔣琬が、何事もなかったように出された茶を啜りながら言った。
「呉から米を買い入れるために、かなりの銭を鋳造した。その上、蜀で生産に携わるべき若い者は北の戦地へと持っていかれているのだから、どうしようもないさ」
蜀の通貨は太平百銭といい、かつて漢中を治めていた張魯が使っていたものだ。
「南方では徴税と徴兵に対する反発が、段々と強いものになってきている。大きな反乱が起きる前に何か手を打っておかなければならん。これも頭の痛いことだ」
「今度、永安から李厳殿が来るようだ。覚悟しておいた方がいいぞ」
呉と国境を接する永安を任されているのが、李厳だった。任されている主な任務は、呉との交易の調整である。戦に比べれば華はないが、戦によって衰退する国力を交易で補うことは、今の蜀にとって重要なものであった。その李厳が、成都のやり方に不満を持っていることは知っていた。
その李厳がここに来れば、何を言われるか分かったものではない。
「また頭痛の種が一つ増えるのか」
戦を続ける諸葛亮は、まるで何かに憑かれたようであった。目的を果たすために何事も顧みないそのやり方は、時に恐しさすら覚えることがある。
そして北伐反対派からの批判の矢面に立たされるのは、自分だった。そういう時の蔣琬は、強硬的な姿勢で臨むのではなく、時に相手の言い分に理解を示し、時に宥めながら事に当たっていた。心の中では戦をやめてほしいと思っているのだ。北伐反対派と同調する姿勢を見せることは、抵抗のあることではない。しかしあまりやり過ぎると、自分の首が飛びかねない。難しいところであった。
半月ほどして、李厳が成都にやってきた。帝への拝謁を済ませ、董允に連れられ蔣琬の執務室を訪ってきた。部屋の中には、郤正も入れて四人のみである。
「李厳殿、永安でのお勤め、大義でございます」
蔣琬は恭しく頭を下げた。
「なんの。蔣琬殿の苦労も人並みではなかろう。それと比べれば、なんということもない」
蔣琬や董允に比べ一回りも年上の李厳であったが、その物言いは厳しいものではなかった。蔣琬の目には、それが何とも不気味なものに映った。能の無い年長者ほど、無駄に偉そうにしたがるものだ。
「そう構えなさるな、蔣琬殿。わしは何も、喧嘩をしに来たわけではないんぞ」
言われて、蔣琬ははっとして無意識の内に組んでいた腕を解き、居住まいを正した。。同時にほっともした。李厳が来ることで喜んでいる北伐反対派は、少なくない。それに対するための抗弁をずっと考えていたのだ。
「永安では物資が少なくなり、銭の価値が下がり続けておる。何か良い策はないかのう」
李厳は郤正から出された茶を啜りながら、呟くようにして言った。
「耐えて頂くしかありません。戦が終わる気配はまだないのです。漢王朝の復興は、今は亡き劉備様の悲願でありました」
「丞相がその意思を継いで北で戦をしているということは、よく分かっている。しかし、先ずは国の基盤をしっかり整えねばと、儂は思うんだがのう」
李厳が試すように言った。蔣琬の頭が、目まぐるしく回った。
「李厳殿の思われている国の基盤とは何か、お聞かせ願えませんか」
蔣琬が口を開く前に、董允が試し返すように言った。
「国の基盤とは、健全な物の流れと安んじられた人心のこと、だと儂は思う。今のこの国では、どちらも蔑ろにされてはおらぬか」
蔣琬はまた腕を組みそうになったが、椅子に座り直す仕草でそれを誤魔化した。
傍らでは、無表情の郤正が静かに立っている。それも何とも不気味であった。
「御明察でございます。しかしその健全なる国を実現させるために、丞相は北で戦っておられるのです。昨年奪った漢中から西にかけての地では大規模な屯田が行われ、なかなかの成果を出しているようです。今は苦しい時ではありますが、この国があるべき姿に戻りつつあるのも確かなことなのです」
董允が言った。李厳がつまらなさそうに茶を啜った。
「では、董允殿の思う国のあるべき姿とは、いかなるものなのですかな」
蔣琬は横目でちらりと郤正を見た。目だけが微かに動き、会話を追っている。
董允は一呼吸置き、口を開いた。
「国の中心には、帝が必要です。帝という、国の頂点におわす御方がいるからこそ、人と人との間で大きな争いは起こらなくなるのです。帝には、歴史が必要です。長い歴史は帝の存在意義を高貴なものに、そして尊いものにするのです。魏がした帝位の簒奪は、この国を乱すものに他なりません。四百年と続いた歴史を蔑ろにし、易々と帝位を奪うようなことがあれば、次は自分がと思う者がこの国に乱立し続けるでしょう。それを阻止するためにも、小事には目を瞑り、大事のために蜀は戦い続けなければならないのです」
蔣琬は隣で、目を閉じながら聞いていた。もう、腕を組むことを隠そうともしなかった。
戦には反対だったが、帝の歴史を途絶えさせるべきではないという点では、蔣琬は同じ意見を持っていた。問題は、その方法なのである。
「流石は董允殿。そなたのような者が帝室に仕えているということで、私は安心できる。しかし、小事の積み重ねの上に、大事はあるのではなかろうか。目の前の矛盾を無視していながら、どうしてその背後にある大きな矛盾を解消することができようか」
言っていることの道理は分かる。間違っているとは思えない。だが今の自分は、諸葛亮の意を汲む者としてここにいるのだ。
「蔣琬殿はどうお考えですかな。是非聞いてみたい」
蔣琬ははっとした。
「私は」
そして何故か、目が郤正の顔を確認していた。
「丞相の代理でここにいるということは、よく分かっている。それは抜きにして言ってもらいたい。そなたにとっての帝室とは、いかなるものですかな」
蔣琬は口籠った。帝のことについて質されるとは、思ってもいなかったのだ。
「陛下は、恐れながら、決して暗愚ではありません。臣の言葉にはよく耳を傾けられ、我欲を抑える術も心得ておられます。それはこの国にとって、大事なことだと思います。漢の四百年という長い歴史を引き継ぐに値する御方です。引き継ぐことで、この蜀という国はもっと強い国になれることでしょう。その歴史を守るためにも、我々臣は陛下の元で粉骨砕身の思いで働くべきだと思っております」
「では、四百年の歴史を守ることが、この度の北伐であると思っているのじゃな」
「それは」
「何も魏まで攻めていかなくてもいい、と儂は思う。この大陸の南西の地で、漢の歴史を絶やさぬこと。そしてこの地から魏と呉の二国に漢の存在意義を発し続けること。我々がすべきことは、そういったところにあるのではないかのう」
「戦は続いております、李厳殿」
「こちらから攻めるからじゃろう。東は呉と手を結び合い、北は要害によって外敵を防ぐ。今は力を内に溜め、蜀は漢の四百年の歴史を継承した国なのだと天下に示し続けることこそ、我らのすべき戦であろう」
「それは、わかりますが」
蔣琬は俯いた。帝のことを出されると、何も言い返せなくなる。
「蔣琬殿の立場はわかっておるよ。わしはそなたのことを非難するために、成都に来たわけではない。丞相の代理であるそなたがどのような考えを持っておるか、それは確かめておきたかった」
「李厳殿」
董允が何か言おうとしたが、李厳がそれを目で制した。
「そなたは、いや我々は、帝の臣であって、丞相の臣ではない。それが確認できて一安心じゃ」
「不遜ですぞ。その言い草だとまるで」
「だから、そうではないと言っている」
不意に、李厳の目が鋭くなった。それで董允は黙った。この辺りは流石に、生前の劉備から信任されていたというだけのことはある。
「これからの北についての話をしようか」
李厳が穏やかな声で言った。
郤正が、空になった李厳の器に静かに茶を入れ直した。
それからしばらく、三人は今後のことについて話し合った。帝のことではなく、戦と物流のことについてである。呉との関係は今のところ良好なので、永安から北へ二万の兵力を回すことを李厳に承知させた。魏が漢中へ侵攻してきそうな気配を見せているのである。
李厳は戦に反対だったが、とりあえず現状には協力してくれるようだ。しかし物資が足りないのだけはどうしようもない。銭を鋳造することでなんとか凌いではいるものの、これでは銭の価値が安定しない。どこまでこれを誤魔化し続けることができるか、お前の手腕にかかっている、と李厳に言われた。
具体的にどうしろとは言わないのは、流石なところだと蔣琬は思った。言ってしまえば、そこに責任が生じてしまう。全てお前の手腕でやれ。李厳から、言外にそう言われていた。
話は、それまでだった。
李厳と董允が退出し、蔣琬も細かな仕事を終わらせてから自宅の屋敷に帰った。昔はここで仲間と酒でも飲みに出かけたところだが、そのような軽々としたことはもうできない。魏からの刺客がどこにいるかもわからないのだ。
屋敷には妻と、もう背の伸びきった二人の息子がいる。妻との関係は、あまり良くない。仕事の疲れをそのまま持ち帰るのを好ましく思われていないのだ。こうして屋敷に帰っても、家人が世話に出てくるだけで、妻は奥から出てこない。家でくらいは疲れを露わにさせてくれと思うが、他の所帯持ちの話を聞いていると、自分のやりたいことに干渉してこないだけましだとも思えた。
二人の息子は、どこか自分によそよそしかった。昔から仕事詰めで、その成長を見てやることができなかったのだ。息子達の態度がそうなるのは、仕方のないことなのだと割り切っていた。妻の教育熱心のせいで、書見は人一倍やっているようである。それは悪いことではない。
蔣琬は着替えをすませて寝台に横たわり、その日のことを振り返った。
李厳は、戦を止めて国内を固めるべきだと考えている。それはただ殻に籠ってじっとしているという意味ではなく、漢の歴史を保持するために戦はあるべきだと考えているのがよくわかった。
そのために今の北伐は必要なのか。魏に攻め込もうとも、もうそこには漢の帝はいないのだ。しかし諸葛亮は、外征の必要はあると考えている。そして自分は、その意を成都で示すためにここにいる。自分は何なのだ。そういう思いに襲われたことは、一度や二度ではない。
自分がそう感じていることは、妻には見抜かれているという気配がある。男のこういう姿は、女の目からは小さなものに映るのかもしれない。そのことを考えると、溜め息しか出てこなかった。
そろそろ、二人の息子を外に出してやらなければならない。燭台の炎を消しながら、ぼんやりと思った。それは自分のためでなく、将来のこの国のためだ。しかし、二人を生き甲斐のように思っている妻は何と言うだろうか。それも、考えたくないことだった。