王平伝 4-9

 通り過ぎていく街道に、緑が目立ち始めていた。風はまだ冷たくはあるが、それは寒いという程ではない。

 郭淮は二万の中軍にいて、西へと向かって進んでいた。また、蜀軍が魏領に侵攻してきたのだ。

 蜀が何を考えているのか、郭淮には理解できなかった。戦は、大量の金を使う。二度の敗戦を経て、蜀が失ったものは決して小さくなかったはずだ。それでもまだ戦を続けようというのは、どういうことなのか。蜀の指導者は愚かなのだろう、と曹真は言っていた。

 その曹真から命じられたことは、蜀軍を長安に近付かせるなということだった。今回の蜀軍がとる、漢中から秦嶺山脈を大きく西へと迂回する長安への進路は、かなりの長さがある。二度の敗戦後の蜀軍の財政を考えれば、一息で長安まで辿り着くことはできないだろう。ここで蜀軍を完膚無きまでに叩き潰しておくことができればそれが理想だが、そこまでの勝ちを得るのは難しいだろうというのが曹真の考えだ。魏も蜀ほどではないにしろ、疲弊しているのだ。魏軍の中で精強を誇る張郃軍も、呉の進攻を警戒して中央へと帰還している。

 自分が二万という大軍の指揮官となるのは初めてであったが、気負いはない。蜀軍と決戦をするための戦ではないのだ。涼州の西方の辺境の地など、くれてやればいいのだ。そこまで本気になって防衛しようと思えば、かなりの戦費がかかってしまう。それならば、蜀軍に長い進路を取らせたうえで、魏領内に深く誘い込めばいい。これも、上手く戦を運ぶ方法の一つである。

 長安から西方五百里の陳倉を過ぎた。前回の戦場だった地である。郝昭が心血を注いで築き上げた、堅牢な要塞がそこにはそびえ立っている。蜀軍はもっと西方の陰平という城郭を奪ったのだという情報が入った。そして、さらにその北の武都へと軍を進めているのだという。この辺りで止めておくべきだろう、と郭淮は思った。

 敵の総勢は、四万。成都の三万を主力とし、北からは羌族の一万が南下し始めているという。羌族に紛れ込ませた間者によると、この一万はさほどやる気がないらしい。だとしたら、敵の実質は三万。郭淮に与えられた使命は、敵を打ち破ることではなく、足止めをすることで蜀を疲弊させることである。戦場さえ間違えなければ、二万の兵力でそれは可能であると思えた。

 郭淮は、武都から二百里北の天水という城郭に二万と共に入った。ここから先はもう、蜀軍に奪らせるわけにはいかない。

「全輜重を城内に収容しました」

 夏侯覇が報告に来た。本営にした、天水城の軍営内である。郭淮は卓上に置かれた地図を睨みながら、それに軽く返事をした。

 郭淮はこの若い将校のことが、あまり好きではなかった。何人かいる若い将校の一人だが、夏侯覇だけは何かにつけて遠慮なくものを言ってくるからだ。張郃にかわいがられている思い上がり者、という思いが先に立ってしまうのだ。

「武都に、二万。その後方に後詰の一万ですか。野戦にはなりそうでしょうか」

 夏侯覇が卓上の地図を覗きこむようにして言った。郭淮は、眉をしかめた。

「わからん。蜀軍の出方次第だな。北西には、羌族の一万も出てきている」

 出過ぎている。そう言いそうになるのを抑えながら、郭淮は答えた。

「野戦になれば、是非私に先鋒を仰せ下さい」

「相手の出方次第だと言っている。あまり気負うな。お前の働き場があれば、存分に働かせてやる」

「はい」

 夏侯覇は一礼して退出していった。

 郭淮は頭を切り替え、様々な戦の想定を始めた。

 北西の羌軍一万は、先ず問題ないと思っていい。ほんの二年前まで魏に従っていた者達で、戦の帰趨でどちらにでも転ぶような軍である。その中には、郭淮の知己も少なからずいた。その者らに、密使を飛ばした。羌軍の中にあって密かに魏軍に協力すれば、それなりの物を与えるということを、密書に認めた。

 北西の羌軍を無視できるとなれば、敵は武都に駐屯する蜀軍のみである。天水で防備を固めていれば、蜀はいたずらに軍費を消耗することになるだろう。それは魏軍も同じだが、軍費の豊かさが違った。蜀は、貧乏な国なのだ。干戈を交えることなく蜀を消耗させることも、取るべき戦の一つである。

 両軍が対峙し始めて、一月が経過した、蜀軍は武都の二万と後詰の一万を動かすことなく、北西の羌軍一万もまた動かなかった。郭淮も天水の二万を動かすことはしなかった。ただ、絶えず斥候を出してその場の状況は把握していた。

 本営の郭淮の居室に、夏侯覇が入ってきた。

「なんだ。野戦はまだやらんぞ」

 郭淮は夏侯覇の顔を睨み据えながら言った。長い滞陣が続けば、野戦をやりたがる者は出てくる。夏侯覇もその一人だと、郭淮は思っていた。

「いや、そういうことではないのですが」

 いきなり釘を刺された夏侯覇は、困った顔をしながら言った。

「このようなものが、城内にまかれていました」

 夏侯覇の手にある木片には、郭淮に対する誹謗が書かれてあった。城に籠ったまま動かないのは、腰抜けだ。魏軍の精鋭は、玉無しによって指揮されている。そんなことがずらずらと書かれてあった。

「こんなつまらんものを、わざわざ見せに来たのか」

 郭淮は卓を蹴り飛ばして立ち上がった。しかし夏侯覇は、微塵もたじろがない。流石にそこは胆の据わった軍人かと、郭淮はまだ自分の冷静な部分で思った。

「落ち着き下さい。私は野戦をしたいと思っていますが、今はまだその時ではないとも思っております。城から出て散々に破られた蜀の愚将のことを、私は忘れておりません」

 この若者の、こういう物言いも気に入らなかった。

「この手の中傷は、実は十日程前からありました。郭淮殿の耳に入れることもないだろうと思い無視していましたが、段々と看過できなくなって参りました」

 郭淮は大きく息をつき、腕を組んで椅子に座り直した。夏侯覇のような若者に諌められている自分に対しても、苛立った。

「これは、敵の計略だ」

「私も、そう思います」

「お前の意見など聞いてはいない」

「申し訳ありません」

 郭淮は、もう一つ息をついた。

「よく知らせてくれた。もう行っていいぞ」

 夏侯覇は直立したまま一礼し、退出して行った。

 蹴り飛ばした卓を元の位置に戻し、地図を広げた。

 天水城内に、蜀の隠密部隊が入り込んでいる気配はあった。恐らく、元々いた天水の守兵か人夫に紛れ込んでいたのだろう。

 今回の従軍に、黒蜘蛛は連れてきていない。郭淮はそのことを少し悔やんだ。曹真からは連れて行けと散々言われていたのだが、それは不要だと固辞した。黒蜘蛛を束ねている郭奕は、郭淮の親類である。自分の親類が男色であるということを、生理的に受け付けることができなかった。

 しかし、ものは考えようである。魏軍二万を城からおびき出すことが敵の計略ならば、それを逆手に取って破る策を立てればいいというだけのことだ。郭淮はその策を、地図を前にして考えた。敵の計略さえ見破ることができれば、相手に痛撃を与えてやることができるかもしれない。

 従者を呼び、南への斥候を三倍に増やすように命じた。蜀軍が野戦を誘ってきている。これからは、敵のどんな小さな動きも見逃すことはできない。

 郭淮は、ふと居室の隅に目をやった。夏侯覇が持ってきた、誹謗中傷の木片。こんなものに苛立つ自分を冷静に見つめ直し、苦笑した。張郃なら、その通りだと言って笑い飛ばしていたところだろうと思えた。この木片を持ってきた者が夏侯覇でなく他の者なら、こんなに苛立つこともなかったろうという気もする。

 敵は、何を狙っているのか。郭淮は椅子に座り直し、そのことだけを考えるのに集中した。

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