王平伝 5-3
武都、陰平を攻略してから一年が経っていた。漢中の兵力は日を増す毎に増え、永安からは李厳の率いる二万も漢中に入った。呉との国境は、今のところ問題ないようだ。
増えた二万は武都へと回され、諸葛亮が直々に屯田の指示をしている。蔣琬からの書簡によると、三度続けた戦によって、蜀の財政はかなり困窮しているようだ。それを補うための屯田である。
漢中の王平は、調練の毎日だった。二年の間に、三度も大軍を動かしていた。その内、二回は負けた。三度目の戦には勝ちはしたが、しばらく蜀軍は動けそうもない。成都では、反戦の声がかなり大きくなっているらしい。しばらく動けない分、調練だった。
魏軍が攻め込んでくることを想定しての城は、完成していた。漢中の街から東方に築かれたその城は、楽城と名付けられた。子午道からの敵を迎え撃つための城だ。街の西には漢城という城も築かれ、これは大規模な兵糧集積場となっていた。
漢中の北には秦嶺山脈があり、西には武都、陰平がある。蜀の防御は盤石であると思えた。
井戸の前で、調練を終えた兵が列をなしていた。冬が終わり、調練が辛い時期になろうとしている。漢中の夏は、湿気が多くて蒸し暑い。その列を横目に、王平は軍営を後にした。
黄襲の飯屋だった。ここに、自分の息子がいる。できだけここには来ないようにしていたが、句扶に呼び出されたのだった。
王訓とは、漢中に連れて帰って以来、会っていなかった。一度、会おうとしたが、拒絶された。仕方のないことだと思った。妻を死なせ、王双を死なせたのは、自分なのだ。
「兄者」
飯屋の前で二の足を踏んでいると、後ろから声をかけられた。
「句扶、驚かせるな」
「王訓は今、厨房で働いていますよ。こっそり入りましょう」
王平は鼻を一つふんと鳴らし、歩き始めた。
戸を開けると、やはり気後れしてしまう。こちらに気付いた黄襲の妻が、こちらに笑顔を投げかけてくれている。店は繁盛していた。
「さあ、こちらへ」
王平の脇をすり抜けた句扶が先導した。王平は足音を立てぬように歩いていた。店は調練を終えた兵や町民の喧騒さで溢れているが、山中の戦場を進むようにゆっくりと歩を進めた。
奥の個室である。ここだけは、普通の客だと入ることができない。
中では趙広が待っていた。王平を認めると、静かに頭を下げた。王平は、それに頷いて答えた。
「この壁の向こうで、王訓は皿を洗っております」
隣に座った句扶が囁いた。
「いらぬことを」
言いながらも、気になった。壁の向こう側から、厨房で働く者の声と音が微かに伝わってくる。
「私が率いる丞相の護衛部隊は、天禄隊と名乗ることとなりました」
趙広に言われ、はっとして顔を上げた。
天禄とは、辟邪と対をなす神獣の名である。洛陽を守るため、王平はかつて率いていた自分の隊に辟邪の名を冠していた。大事なものを守れなかった隊の名だ。そう思ったが、口には出さなかった。
「王平様がかつて率いておられた隊の名にあやかってみました。句扶様の忍びの軍は、蚩尤軍です。どちらも私が考えました」
趙広が得意気に言った。
「名など、どうでもいいのだ。そういうところは、お前はまだまだ子供だな」
句扶がつまらなさそうに言った。
「しかし、丞相は良い名だと言っておられました」
「丞相の傍に羌族の男がいたな。名は何といったか」
「姜維殿のことですか」
「そいつだ。あれは、どういう男なのだ」
「形としては私の上官ということになりますが、何かを言ってくるということはありません。多分、羌族を懐柔するために近くに置いているのだと思います」
「おい、お前はいつから多分でものを言うようになったのだ」
句扶が叱るような口調で言った。見ていると、兄の弟のような関係である。同じ世界で生きる者同士、分かり合えるものが多くあるのだろう。
しばらく雑談していると、雑務を終えた劉敏が入ってきた。そして、酒と料理が運ばれてきた。
赤い香草で焼かれた羊の肉と、野草がたっぷり入った汁が卓に並べられた。王平は料理よりも、運んでくる者の方へ目をやっていた。運んでくる者は、幸いというべきか、王訓ではなくいずれも下働きの女だ。
王訓のことを聞いてみようか。ふとそう思ったが、やめておいた。
「王平様、これは旨いですよ」
「うむ、じゃあ食うか」
王平が箸を付けると、趙広もそれに続いた。
「やはりお前は子供だ。食い意地を張るなど、忍び失格だな」
句扶に言われ、趙広は首を竦めた。戦場では一人前でも、こういうところではまだ若い。
口の中に入れた羊の肉は下で触っただけでほぐれ、油が広がった。そしてじわりと赤い香草の辛みが舌を突く。その辛みが、さらなる食欲をそそり立てた。
「軍議の日程は決まったか、劉敏」
「はい、五日後です。漢中の政庁にて行われます」
初めて会ったときは青瓢箪のように見えた劉敏だったが、前回の戦からすっかり軍人の顔をするようになっていた。自分の指揮で兵を死なせてしまったことが、かなり堪えたようだ。
武芸は空きしだったが、軍学はあった。今では調練を任せてもそつなくこなし、独自の工夫を凝らしたりもしている。築き上げた楽城の縄張りも、悪いものではなかった。
「戦はいつになりそうなのだ」
「夏だろうというのが、丞相の予測です。長安と上庸の東に兵糧が集められています」
「おい、それは俺が調べあげたことではないか。自分の手柄のように言うな」
句扶に言われ、劉敏はしゅんとなった。
句扶はどうやら、劉敏のことがあまり好きではないらしい。文官あがりが、という思いがあるのかもしれない。
「それよりも句扶殿、おめでとうございます」
俯いていた劉敏が、口元に笑みを浮かべて言った。句扶がぎくりという顔をした。
「何のことだ、劉敏」
王平が言った。
「子ができたと、丞相から聞きました」
「なんだと。何故俺にだまっていた。相手は誰なのだ」
「囲っていた遊妓です」
句扶が嫌そうな顔で言った。
「そうか。俺らが北で戦をしていた時、お前もここで戦をしていたのだな」
肉に食らいついていた趙広が吹き出した。そこに句扶の拳が飛んだ。
「丞相は何故そんなことまで知っているのだ」
「漢中の妓楼は、全て国で管理されています。それで、どこかで知ったのでしょう」
「悪趣味なことだ」
句扶が吐き捨てるように言った。
「そう言うな、句扶。男か、女か」
「男です。名は、安と名付けました」
「そうかそうか。まあ飲め、句扶」
言いながら王平は、嫌そうな顔をする句扶の杯に酒を注いだ。仕方なさそうに、句扶はその杯を呷った。
「そんなことより趙広、あの話をしろ。大事な話だ」
「それよりも大事な話などあるのか」
珍しく取り乱す句扶を見て、王平は笑いながら言った。
「かなりの数の黒蜘蛛が、漢中に入り込んでいます」
趙広が言い、その場の空気が少し張りつめたものになった。
「そなたらで対処できない程か」
劉敏が言った。
「なんとか対処はしている。戦が近付いているのだ。魏も本腰を入れてきたということだな」
句扶はもう、平静を取り戻していた。
「黒蜘蛛の頭領、郭奕も直々に来ているという気配があります。これからは、暗殺に注意しなければなりません」
「そうか」
王平が、何でもないことのように言った。そんなことで心を乱す程、若くはない。腕っぷしもまだまだ落ちてはいない。命を狙われたとしても、返り討ちにしてやればいいのだ。しかし隣では、劉敏が緊張の色を露わにしていた。
「俺や趙広や兄者はいい。劉敏。お前は少し鍛え直した方が良いのではないか。何なら、俺が付き合うが」
「いや、私はそういうことは不向きでして。それよりも、私には軍学の方で」
「軍学では、暗殺から身を守ることはできんぞ」
劉敏が青ざめている。王平は、ただそれをにやにやとして見ていた。
「兄者、いかがでしょう。劉敏殿は今や漢中軍に欠かせぬ御方。少し御貸し願えませんか」
句扶が皮肉っぽく言った。
「いいだろう。劉敏、行ってこい。自分の身くらいは自分で守れるようになっておいた方がいい。これは本気で言っていることだ」
「・・・わかりました」
劉敏が観念したように言った。
「心配するな、劉敏。無茶はせんよ」
句扶がにやりとしながら言った。
趙広は腹が満ちたのか、酒を舐めるようにして飲んでいる。
「では早速行くか。忍びがどういうものか、先ずは知っておくことだ。これから夜の警備だから、それに付いて来い」
「今からですか」
「そうだ。つべこべ言わずに付いて来い」
句扶が劉敏を引き摺るようにして出て行った。趙広も王平に一礼し、それに付いて行った。
個室に残された王平は、一人で酒を啜った。意地悪そうに言っていた句扶だが、教えるべきことはきちんと教えるのだろう。それに心配はなかった。
壁の向こうでは、喧騒さが薄れてきていた。しかしそこに、王訓はいる。王平はそれを背中で感じながら、酒を啜った。
人が来る気配がした。黄襲が、静かに戸を開けて入ってきた。
「句扶殿が、心配されておりますぞ」
黄襲が、厳かに座りながら言った。
王訓の話をしろということなのだろう。句扶はああ見えて、こんな気の遣い方ができる男だった。
「今日の肉は、格別だった」
そんな話をしたいのではない。分かってはいるが、そんなことを言っていた。
「北から羊の肉を仕入れるようになりました。寒さの中で育った羊は、脂が乗って旨いのです」
黄襲がにこやかに、話を合わせた。王平は黄襲に酒を注いでやった。
「俺がここにいるということは、訓は知っているのか」
少し間を置いてそう言った。
「いいえ、知りません。その方がいいと思いましたので。句扶殿とは、帰り際に少し言葉を交わしていたようですが」
「そうか。句扶はよく喋るようになった。昔のあいつは、ほとんどものを喋らなかったものだ」
「そうですか」
言いたいことはそんなことではない。
黄襲はただにこやかにしていた。そしてたまに、酒を啜った。
「訓は、元気にしているか」
また間を置き、そう言った。
「元気にしております。よく働きもします。最近は、妻が買ってきた書物を読んだりもしています」
「そうか」
聞きたいことは、山ほどあるはずだった。しかし、言葉が出てこない。元気だと聞けたことで、山ほどあった他のものはどうでもよくなったという気がする。
「また来るよ」
そう言って、王平は銀の入った袋を卓に置いた。
「王平殿、これは無用のものです」
黄襲が慌てるようにして言った。
「いや、いいんだ。取っておいてくれ」
王平はそう言い残し、逃げるようにしてそこから出た。
店を出る前に、厨房の方を少し覗いてみた。皿を洗う王訓の横顔があった。王平はそれをしばらく見つめていた。
ふと、王訓がこちらに目を向けた。咄嗟に王平は身を隠した。まだ、会えない。ならいつ会えるのか、それは分からない。それは自分から知ろうとすべきことではないという気がする。
十数人の団体が、支払いを済ませて店から出ようとしていた。王平は、それに紛れて店を後にした。