王平伝 3-2

 南蛮制圧戦が始まった。久しぶりの成都を満喫する間もなく、諸葛亮幕下の補佐官として南征軍に随行することとなった。成都から南へと続く街道は思っていた以上に整備されていた。軍を通すためでなく、南蛮から蜀へと物資を運ぶための、この戦後を見据えた上での整備であることは見ていてよく分かった。この辺りの仕事はさすがは諸葛亮だと認めざるをえない、と楊儀は思った。

 元々は荊州で傅羣という男の下で働いていた。己の保身に全てをかけて生きているような、つまらない男であった。劉備が南荊州で台頭し関羽が襄陽の太守となると、その元へと走った。裏がなく実直であり、見ていて惚れ惚れする男。それが関羽であった。しかし度が過ぎる実直さは時に自分の首を絞めるということを楊儀はよく知っていた。恐らく、関羽自身もそのことは分かっていたのであろう。このような男には自分のような智謀の士が必要なのだ。これは、関羽自身の口からも言われたことであった。それが単純に嬉しく、つまらない者ばかりがはびこるこの世で関羽のような男の下で働くことができた自分は運が良いのだと思えた。

益州を制圧した劉備のところへ使者として派遣された。元は傭兵稼業をしていた男の国である。大した国ではないだろうと思っていたが、意外にも成都の治安はよく住人は活気に満ち、劉備の下には優秀な文官が数多く仕えていることが分かった。その文官の中には、自分と同郷の荊州人も少なくない。元傭兵部隊の頭に何故これほどの人が集まるのか、その疑問は実際に劉備と会うことで解けた。彼は関羽と同じ、いやそれ以上の男であったのだ。劉備は荊州からの使者である自分を使者としてではなく一人の荊州人として迎えてくれ、自分の言葉をよく聞いてくれた。関羽からの言葉を伝えればすぐ荊州に帰るつもりであったが、使者としての仕事を終えた後も何かと劉備に呼び出され、軍事や国政についての意見を聞かれた。その聞き方には決して尊大さはなく、むしろ謙虚さがあり、本気でこの男は一国を作ろうとしているのだなという気概がありありと伝わってきた。そして劉備に気に入られたのか、そのまま成都に留まり文官の仕事をするよう命じられた。関羽の下での仕事ができなくなるというのが多少名残惜しくはあったが、楊儀は成都で働くことを受け入れた。この新興国の中で自分の力を存分に発揮してみたかった。

 そこで、劉巴という男と対立した。政庁内での、法に関する意見の食い違いのためである。劉巴は自分よりもかなり年上で蜀の文官としての大先輩であったが、楊儀は構わず意見した。劉備は自分の能力を買ってくれたのだ。他の者から何か言われて簡単に意見を変えていては、その恩に報いることができないと思った。その想いは文官の元締めである諸葛亮にもぶつけたが、それを理解してもらえることはなかった。そして、弘農という田舎の太守となるよう命じられた。諸葛亮からは切々と地方を治める大切さを説かれたが、自分は左遷させられるのだということはよく分かっていた。楊儀は眼を閉じ、悔しさを噛みしめながら弘農太守の印状を受け取った。組織の中では、力のない者はこうやってふるい落とされていくのだ。

 蜀の中心から離れた弘農で、楊儀は数年を過ごした。その間に荊州は呉に奪われ関羽は死に、劉備も死んだ。そして自分と対立した劉巴も老齢のため死んだ。楊儀が中央へと呼び戻されたのは、こうした中であった。

 与えられた仕事は、南征軍の中での兵糧の管理と部隊編成の補佐をすることであった。攻撃部隊の頂点には馬謖がいて、その下に張休、李盛、黄襲という部将がついている。そして別働隊である他の二軍が東から回り込むように攻め込んでいく、総勢四万の軍である。これらの部隊に成都から送られてくる限られた兵糧を分配するのが自分の主な仕事である。大して難しい仕事でなく、むしろ自分に適した仕事であった。数日間だけ諸葛亮と共に働くとその仕事ぶりを評価されたのか、蜀軍本隊の兵糧の一切を任されるようになった。この戦はその後の対魏戦に備えた実戦演習と思えと馬謖は豪語していた。三十をいくつか越えているが、まだどこかものの考え方に幼さを残している男であった。

 南へと進む蜀軍は負けなしの快進撃を続けた。越嶲で高定という豪族を破り、別働二軍も勝利を重ねて残すは雲南の豪族である孟獲を残すのみとなった。馬謖らの攻撃部隊長はこの連勝を喜んでいたが、楊儀はそんな彼らを冷やかな眼で見ていた。勝てて当然なのである。そもそも戦の仕方からして違うのだ。中華の歴史は、戦乱の歴史である。その中で培われた戦略や戦術に、こんな辺境の者たちが敵うはずがないのだ。そう言って若い将軍たちを諌めようかと思ったが、やめた。馬謖という男は、諸葛亮の言葉ならともかく、他の者が言うことを聞くような男ではないと思えたからだ。下手なことを言ってしまえば、自分の首が飛ぶかもしれない。軍とは、そういう厳しい場である。

 楊儀は雲南へと攻め込む直前の兵糧配分について話をするため、馬謖の幕舎へと向かった。衛兵に話を通して幕舎の中に入ると、そこには嗅ぎ慣れない臭いが漂っていた。麻の臭いである。奥から上半身裸で、眼をうつろにさせた馬謖がのっそりと出てきた。

「何の用だ、楊儀」

 馬謖は面倒臭そうに床几に腰を下ろしながら言った。

「兵糧分配の最終確認に参りました。先に連絡を入れておいたはずですが」

「ああ、そう言えばそうであったな」

 馬謖は嫌な顔で言った。

 その時、奥から物音がして何も身に着けていない女の姿が見えた。色の浅黒い、一目見て南蛮の出だとわかる、まだ幼い女だ。

「中に入っていろ」

 そう言われ、女は奥に身を隠した。こいつは何をやっているのだ。楊儀の体の芯から黒々としたものが湧きあがってきた。

「今の女は、誰ですか」

 思わず楊儀は口にしていた。

「何のことだ、楊儀」

「丞相の前で南蛮攻めは南蛮人の信を得ることだとおっしゃったのは馬謖殿ではありませんか。それをこんな、略奪のようなまねを」

 言い終わる前に馬謖は立ち上がり、その太い二本の腕が楊儀を突き飛ばし、尻餅をつかせた。

「誰が略奪をしたのだ。言ってみろ」

「では、あの娘は」

 今度は左肩に蹴りが飛んできた。突然の暴行に成す術もなく、楊儀はその場に突っ伏した。

「この前まで地方に飛ばされていたお前が、俺の軍に難癖をつけようと言うのか。もう一度言ってみろ、どこの軍が略奪を働いたというのだ」

 確かにこの南征中に蜀軍が略奪をしたという話は聞かない。それが蜀軍の魅力であり、楊儀がここで真剣に働ける一つの理由である。だが、あの幼い娘は何なのだ。軍を統轄する者が、麻を吸いながらこのような行いをして良いというのか。そう言ってやりたかった。しかし言えば、首が飛ぶ。

「あの娘はな、自ら望んでここに来ている。当然、その対価は払ってやっている。何も問題はないであろう。よそで何かおかしな噂でも流してみろ、楊儀。その時はどうなるか、知りたければ試してみるがいい」

 感情の高ぶっているこの男に、もう何を言っても無駄だと悟った。楊儀は馬謖の気を鎮めるために、わざとおびえるような仕草をして見せた。

「兵糧のことは、黄襲にでも話しておけ。お前はな、楊儀」

 急に馬謖の声が優しくなり、その大きな手が楊儀の肩に置かれた。

「少し力み過ぎているのだ。中央に戻されていきり立つのは分かるが、何も心配することはない。蜀軍は強い」

 その口調は、まるで自分が強いと信じきっているようであった。

「このまま何も問題なく、南蛮は平定されるであろう。だからお前も少しは楽しんで帰れ。よかったら、俺が好みの女でも手配してやろう」

 馬謖の熱い息が、楊儀の耳元で囁いた。楊儀は一応、それに頷いて見せた。

「では、兵糧のことは黄襲殿にお伝えしておきます」

 立ち上がりながら、震える唇でそう言った。馬謖はつまらなそうな顔をしながらも、楊儀の衣服についた埃を払って見せた。

「それでいい。話は後でしっかり聞いておこう。それで良いか」

 そう言われ、うやうやしく拝礼した。こんな場所からは、早く離れてしまいたかった。

「突き飛ばして悪かった。力み過ぎているのは、俺の方かもしれないな」

 と言いながら、馬謖は笑った。わざとらしい笑みだったが、楊儀もそれに合わせて笑ってみせた。

「それでは、失礼させて頂きます」

「待て」

 出て行こうとすると、引き止められた。

「もう一度言うが、あの女は自らの意志でここに来たのだ。それを決して忘れるな」

 馬謖の笑っていた顔が、さっと冷たくなった。楊儀はもう一度恭しく拝礼し、その場を後にした。

 黄襲は自分と同じくらいの年齢で分別もあり、兵糧分配の説明をするとよく聞いてくれた。軍の強さとは馬謖のような男にあるのではなく、こういう篤実な男にあるのだ。話が終わると、すぐに自分の幕舎へと戻った。

 なぜあのような男が国の要職に就けられているのか、楊儀は不満に思った。しかしそういった不可解なことが起こるのが、組織であった。傭兵部隊の時ならまだしも、一国という大きさまでになると、ああいった男を使わなければいけなくなる事情も出てくるのであろう。仕方のないことなのだ。楊儀は自分にそう言い聞かせ、納得しようと努めた。

 今日のことは、丞相に言上すべきであろうか。楊儀は寝台に身を横にして考えた。さっき見た女のことが明るみに出て馬謖が罰されることとなれば、蜀軍の進攻は停滞するであろう。もし諸葛亮がそれを嫌えば、獄に落とされてしまうのは自分かもしれないのだ。下手をすれば、さっき言われた通り殺されてしまうかもしれない。楊儀は南征直前に行われた蜀軍演習の噂を思い出した。王平が勝ち馬謖が負けたが、それを諸葛亮が引き分けとして裁いたという噂だ。その噂が真実なのであれば、自分は口を噤んでいるべきであろう。諸葛亮の馬謖への溺愛が、時として屈折した愛情に見えるのは自分だけなのだろうか。

「くそったれ」

 楊儀はそう呟き、寝返りをうった。すると、さっき蹴られた左肩に痛みが走り、舌打ちをして右に寝返りをうちなおした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?