王平伝 3-7

 雲が厚く空気が身を切るほどに寒い中、王平は調練場の櫓に立って続々と成都からやってくる兵の行列を眺めていた。いよいよ、魏攻めが始まる。全ての兵士が駐屯地に収容されると、諸将が集められて軍議が開かれた。中央に諸葛亮が、その右隣に馬謖が侍り、左には蜀軍総帥である趙雲が座っている。

蜀軍は十万の兵をもって北へと進攻すると公表していたが、その実の兵力は六万程度であった。魏の兵力は二十万だと言われていたが、これも誇称した数であることは句扶の諜報によってわかっていた。長安を中心とした涼州の兵力がおよそ七万、洛陽からの援軍が五万、そして西方の羌からも五万が駆り出されるという情報が入っている。

「司馬懿が、失脚した」

 おお、というどよめきが、一同から上がった。長安太守夏候楙からは疎まれていた司馬懿であったが、蜀内での彼の評価は高かった。これは句扶が送ってくる情報を元にした評価であった。句扶がいかに良い仕事をしたかということを、王平はこの場で初めて認識した。

 そして魏延や王平ら武官が気にしていた、どの経路から北上するのかという発表である。

「我々は、斜谷道より攻め入る」

 子午道は険しい近道で、箕谷道は楽な回り道である。その中間の斜谷道を取るのは順当である、と王平には思えた。隣にいる魏延は、子午道論者であった。

「丞相」

 案の定、魏延は立ち上がって王平にいつも言っていたことを論じ始めた。やめておけばいいのに。王平は隣にいながらそう思った。諸葛亮も彼なりに考え抜き、斜谷道を選んだのだ。そうそう簡単に意見を変えないだろう。

「魏延」

 しつこく論じ立てる魏延に、趙雲の大音声が放たれた。魏延の大きな体が縮こまった。この男でもこのようになることがあるのか。

「貴様はこれから国を上げての大事業をしようというのに、我が軍の秩序を乱そうというのか」

 白い髪と髭を豊かな、しかしながら衣服の上からでも筋骨が隆々としていることがわかる趙雲が、魏延のことを叱りつけた。魏延は蛇に睨まれた蛙のようになって座った。

 そして、細かい部署が発表された。王平は魏延と共に、諸葛亮率いる本隊に属することとなった。趙雲と鄧芝は、別働隊を率いて遊軍になるのだという。

 発表が終わり、諸将は解散となった。あとは進発の日が来るまで、成都から来た兵を交えて調練に明け暮れることとなる。

 軍議が終わって調練場へと足を運ぼうとした魏延と王平のところへ、一人の文官がやってきた。文官嫌いの魏延は露骨に嫌な顔をした。ただでさえ、先程の一件で機嫌が悪かったのだ。

「なんだ」

「趙雲将軍がお呼びです。すぐに向かわれるよう」

「だから、何の用だと聞いている」

 多分、趙統と趙広のことについてだろうと王平は思った。魏延もそのことは分かっているであろうが、こういう時の魏延は意地が悪い。

「何だと言われましても、私は呼んで来いと言われただけで」

「言われたことしかできないのが文官だ。俺らはこれからお前らの言葉に従い、お前らの代わりに戦場で命を張るのだ。そのことを、よくよく心得ておけ」

 そう言い残し、魏延は肩を怒らせながら歩いていった。そんな魏延の姿を見て、その文官は閉口していた。

「すいません、悪い人ではないのですが」

 閉口するその文官を気の毒に思い、王平は声をかけた。

「これだけの人数がいるのだ。ああいう者がいるのも、仕方のないことなのかな」

「それでも、軍人が全てああいった人なわけではありません」

 王平は慰めるように言った。

「私は王平といいます。あなた様は」

「私は楊儀という」

「これから長い戦陣になるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 そこでようやく、楊儀と名乗った男は笑みを見せた。

「こちらこそよろしく。さあ、趙雲将軍がお待ちだ」

 王平は頷き、魏延の後を追った。

趙雲は簡素な椅子に座って腕を組み、二人を待っていた。その身辺に華美さはなく、王平はふと魏の猛将張郃のことを思い出した。

「おお、よく来てくれた」

 趙雲は立ち上がって二人を迎え入れてくれた。軍の総帥といえど、意外と謙虚なところがあるのだと王平は思った。

「息子たちのことは聞いている。二人共、感謝しているぞ」

 王平が平伏しようとすると、趙雲はそれを気さくに止めてくれた。

「聞いているって、まだ会いに行ってやってないんですかい」

 魏延が言った。

「私も軍を統べる者として、色々と忙しいからな。なかなかそうもいかんのだ」

 先程の会議で魏延は趙雲に怒鳴られはしたが、二人の間にそれほどの堅苦しさはなかった。なるほどこういうところに蜀軍の強さというのはあるのかもしれない。

「なんなら、今からでも二人を連れてきましょうか」

 魏延がそう言ったが、趙雲は首を横に振った。

「成都の将兵は、家族を残してここに来ている。私だけ特別なことをするわけにはいかない」

「そういうものですか。あいつらかなり頑張っていますよ。ちょっとくらい会ってやってもいいと思いますがね」

 趙雲はそれにほほ笑みをもって返した。王平はそれだけで、この将軍に好意を持ち始めていた。

「それよりもな、もっと大事な話だ」

 趙雲は卓の上に地図を広げた。

「さっき、丞相は斜谷道に兵を進めると言ったろ」

 二人は頷いた。

「あれはな、敵の眼を欺くための嘘だ。今日の丞相の言葉は、何らかの形となって長安へと届くだろう。しかし蜀本隊は、箕谷道を進む」

「一番遠い道ですね」

 魏延はその言葉に皮肉をこめたが、趙雲に睨まれてしゅんとなった。

「私と鄧芝殿は、本当に斜谷道を進む。だがこれは陽動だ。今回の出兵で、南安、天水、安定の三郡を得る。そして、羌族を味方につけて長安を窺う」

 羌という民族は、長らく洛陽政府から虐げられていた。蜀は漢皇室を受け継ぐ政府だと公称していたが、羌に蜀を恨む理由などどこにもないはずだ。そんな羌族の感情を利用し、味方を増やそうという策である。

「この策が成れば、長安へと援軍に駆り出されるはずだった羌の軍勢が、そっくりこちらの兵力となるのだ」

 なるほど、と王平は顎に手を当てながら思った。

「長安攻めはその後ということになるだろう。私がしっかりと魏の本隊を引き付けておくから、君達は大船に乗った気分で戦ってこい。わかったか」

「御意」

 二人は、拱手してそれに答えた。そして、そこから退出した。

「やはりこれは文官の戦だな」

 自分の軍営へと戻りながら、魏延がぼそりと言った。

「兵力うんぬんがなんだ。戦は、数字でやるんじゃねえんだ。長安の備えが整う前に俺が手塩にかけた兵達と一丸になって攻め立てれば、長安の兵は蜘蛛の子を散らすように四散するだろうさ」

 魏延の意見はわからないでもなかった。いい考えであるかもしれないとも思える。だが自分らは、命令を遂行する軍人として軍内にいるのだ。

「私は、上の者に従うだけです。もしかしたら、趙雲殿もその作戦に不満がありながら我慢しているのかもしれませんし」

「けっ、お前までそう言うかよ」

 言って、魏延は困ったような顔をした。

「しかし、そうだな。俺らは軍人だ。俺も王平のことを見習うか」

 正直なところ、王平にとっては作戦のことなどどうでもよかった。王平にとって大事なことは、早く洛陽へと帰ることである。しかしそんなことは、軍内では決して口にすることはできない。

「よっしゃ、大戦が始まるぞ。思い切り暴れてやるか、王平」

「御意」

 二人が軍営へ戻ると、兵たちの気合いの入った声が王平らを迎えた。

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