王平伝 5-12
漢中からの旅を終え、王訓は蜀の首都である成都に到着していた。
初めて見る成都の街は、洛陽の街と違い、静々としたものだった。
南の暑い地域なので、そこに住む人達も暑苦しいのだろうと何となく思っていたが、そうでもないらしい。
王訓が起居することになったのは、蔣琬という人の屋敷で、その敷地は他と比べて大きなものだった。
その屋敷には自分と齢の近い蔣顕という少年がいて、少し話しただけですぐに仲良くなった。聞くと十三歳だというので、自分より一つ上だということになる。新しい土地での生活に不安はあったが、齢が近い友ができたということが嬉しかった。
成都に来てからしばらくは、蔣顕に成都の街並みを案内してもらっていた。洛陽とは違う人々の暮らしが、王訓の目には新鮮だった。街に建ち並ぶ家々も、人々が喋る言葉も、王訓が知っているものとは微妙に違っていた。
「明日から蔣顕の父御に従って宮中に行けと言われたんだけど、俺は何をやらされるのかな」
数日かけて成都の街を全て見回り終えた帰り道に、王訓は蔣顕に聞いた。
「何だろうな。私は行ったことがないから分からないけど、雑用みたいなことだろうと思う」
蔣顕は、自分のことを俺とは言わず、私と言っていた。はじめはその言い方に微妙なものを感じたが、聞いている内に慣れた。
「蔣顕の父御は、宮中で何をしているんだい」
「それが、よく知らないんだ。ミカドっていう人の近くで仕事をしているとは聞いたことがあるけど、それ以上のことは母上もよくわからないって言ってた」
「父上には、直接聞いたりしないのかい」
「ほとんど家にいないからね。家には私が寝た後に帰ってくるし、起きた時にはもう家を出ているんだ」
「ふうん」
あまり父のことは話したくないのか、蔣琬の話になると蔣顕の言葉数は減った。それ以上、王訓は蔣琬のことを聞くのをやめた。
屋敷に帰ると、夕餉の支度がされていた。卓には、蔣顕が食うものとは違うものが出されていた。ここで出されるものは、王訓の口には辛過ぎるのだ。全てが全てそうというわけではないが、それに気を遣った蔣顕の母が、王訓のために違うものを作ってくれていた。
蔣顕は、その辛いものを何でもないように食べている。よくこんなものが食べられるなと思ったが、それは食べ続けることで慣れるのだと蔣顕は言った。それで少し食べてみようかという気になったが、やはり口には馴染まなかった。
翌朝は早くに起床した。何人かの使用人と蔣琬は既に起きていたが、蔣顕と母御はまだ寝ていた。静かな屋敷内で蔣琬と二人で朝飯を食い、屋敷を出て宮廷へと向かった。その道中、五人の強そうな男達が二人の周りを囲んでいた。この人達は何なのだろうと思ったが、口には出さなかった。後で蔣顕に聞いてみよう、と思った。
門の前に直立する兵士の間を通り、宮中へと入った。大きな建物だった。ここで何をさせられるのだろう、と王訓は不安になった。
蔣琬の執務室に入ると、蔣琬は椅子にどっかりと座り、大きく息を吐いていた。これから仕事だというのに、既に疲れているように見えた。
「成都の生活には慣れたか、王訓」
「はい」
「蔣顕とは仲良くやっているようだな。良いことだ」
蔣琬の手が、王訓の頭をぽんぽんと撫でた。叔父である王双の手はもっと堅かった、と何となく思った。
戸が開き、盆に二つの茶を乗せた若い男が入ってきた。蔣琬が、その男に軽い挨拶をした。
「こいつは、郤正という。ここでのお前の先輩のようなものだ。仲良くやってくれ」
無表情の郤正が、静かに二つの茶を机の上に置いた。齢は、自分より少し上といったところか。
「王訓といいます」
言うと、郤正の顔が少し微笑んだ。微笑むだけで何も言わず、音もなく部屋から出て行った。自分も、あのように振る舞わなければならないのだろうか。
「あの、私はここで何をすればいいのでしょうか」
自然と、自分のことを私と言っていた。
「今のところは、これといったものはない。北で戦が始まれば忙しくなるんだが、今はのんびりとここの空気に慣れてくれ」
そう言われて、ほっとした。自分は、何かができるような人間ではないのだ。
蔣琬が茶を啜ったので、王訓も一口啜った。ほどよく熱いその茶は、美味いものでも、不味いものでもないと思った。
「あの」
「なんだ」
「これから仕事だというのに、もうお疲れのように見えます」
言われた蔣琬が、一つ苦笑した。失礼なことを聞いてしまったのだろうか。
「私はな、家にいると息が詰まってしまうのだ。そんなところに気が付くとは、なかなか良い目を持っているではないか」
褒められて、王訓は少しはにかんだ。しかし自分の家だというのに、息が詰まることなどあるのか。
「お前の父はいいな。こんな小さな部屋に押し込められることなく、外で兵と共に駆け回っているのだからな」
「普段の父のことは、あまり知りません」
「漢中では、黄襲殿の飯屋にいたらしいな。父のいる軍営には遊びに行ったりしなかったのか」
「特に、行く理由もなかったので」
言って、王訓は俯いた。その顔を、蔣琬が覗き込むようにして見てきた。
「父のことが、嫌いか」
王訓は答えに詰まった。昔は嫌いであったが、今は少し違うという気がする。しかし好きかと聞かれれば、そうでもないという気もする。
「王平殿のところに、私の上の息子が行っている。蔣斌というんだがな、蔣斌は、王平殿のことを嫌っているかな」
「そんなことはないと思います」
即答していた。父のことは好きにはなれないが、部下には慕われているのだ。
そんな王訓を見て、蔣琬は低く笑っていた。
「少し、お前の父の話でもするか」
蔣琬が自ら小さな腰かけを持ってきたので、王訓は黙ってそこに腰かけた。
魏軍を撃退したことで静謐を得ていた成都の宮中が、また慌ただしくなり始めていた。
予期していたことではあったが、また諸葛亮が北に兵を向けると言い始めたのだ。第一回の北伐が始まる前夜、まだ成都にいた諸葛亮は魏を討ち果たすまで帰らないと、帝に上奏していた。それはもう、四年も前のことである。はじめは諸葛亮の気概に心を打たれて涙を流していた廷臣達も、もう倦み始めているのだ。
仕方のないことだ、と董允は思った。これだけの時と財力を注ぎ込んでも、蜀軍は長安を奪るどころか、漢中からほとんど前進できずにいるのだ。もうこの辺りにしておこうという意見が出るのは、当然のことである。戦を続けることで、蜀国内はかなり疲弊しているのだ。南方の異民族達の間でも、相当の不満が出ているようである。
「お前は昔、戦場で功を立てたいと勇んで言っていたな、蔣琬」
もう一通りの仕事を終えた夕刻の、蔣琬の執務室である。この男も、体裁としては諸葛亮からの任務を着々とこなしているが、心の中で戦を止めてもらいたいと思っているだろうことは明白であった。
「言ったさ。だからと言って、この戦で俺が戦場に立てるわけではないだろう」
「いや、行けばいい。俺が今度、丞相に言上してみるさ。ここの仕事は、もう俺に任せておけ」
「ふん。そんなことをしても、大人しく成都で補給をやっていろと言われるだけさ。そんなことは、お前も分かっているはずだ。それにお前が兵站をやれば、誰が戦に反対する廷臣達を抑えておくのだ」
蔣琬がぶっきらぼうに言った。着実に仕事をこなすといっても、この男も倦んでいた。最近は新しい従者を得たらしく、仕事の合間にはその従者と他愛もない話をしていることが多かった。
「あの新しい従者はどうした。名を何と言ったか」
「王訓のことか。あいつはもう屋敷に帰したよ。もう、子供は寝る時間だ」
そう言う蔣琬はほとんど家に帰らず、ここに寝泊まりすることが多かった。家族と上手くいっていないのだという噂を耳にしたことがあるが、蔣琬の口から直接そういう話を聞いたことはない。
「漢中に、王平将軍がいるだろう。あの子はな、王平殿の息子なのだよ」
「ほう、それは初耳だ。ここで色々と学ばせろということか」
「そうだ、董允。俺は兵站の仕事もやり、未来の蜀を背負う若者を育てるという仕事もしているのだ。働き者だろう」
「お前のことを、働き者じゃないとは言っていないさ」
蔣琬が、皮肉っぽく笑っていた。
傍らの机には、戦に関する書類が山積みされてある。一日の仕事は終わったといっても、まだまだやらなければならないことはたくさんあるのだ。
「そういえば、お前の従者はどうした。俺はあいつが近くにいると、息が詰まる思いがする」
「郤正のことか。あいつは今、ちょっと仕事に出かけさせている」
諸葛亮から付けられた従者だった。まだ年若く十六で、その若さに伴う純真さが、諸葛亮の言いつけをよく守る忠実さとなっていた。
「そのことなんだがな、蔣琬」
真剣な顔をして見せたので、それを汲み取った蔣琬も姿勢を正して真剣な顔をしてきた。
「句扶という男を知っているか」
「知っている。闇の軍である、蚩尤軍を束ねている者だな」
「郤正は、その句扶が丞相の命により選んだのだ」
「ほう」
顔を怪訝なものにさせた蔣琬が、身を乗り出してきた。
「あれも、蚩尤軍の一員だったということか。そう言われれば、音を立てないあいつの歩き方にも合点がいく」
「黙っていたことは、謝る。お前にこれを言ったのは、あいつにそろそろ仕事をさせろと丞相から命じられたからだ」
「仕事だと。物騒な臭いしかしないな」
そう言う蔣琬の顔に、驚きの色は無かった。もしかしたら、蔣琬は郤正の正体に薄々気付いていたのかもしれない。
「お前が今、一番大変だと感じている仕事を挙げてみろ」
「そんなもの、たくさんあるさ。例えば、これから始まる戦のために送る、半年分の兵糧のこととか」
「それだ」
漢中防衛戦で、武都の屯田地が荒らされていた。麦秋を迎える前のまだ青い麦が、魏軍の騎馬隊にことごとく踏み潰されたのだった。その穴埋めをするために、南方の地域で大規模な徴発が行われたのは、つい先日のことだった。
それに声を上げて反対しているのは、黄皓という宦官だった。帝の近くに侍り、諸葛亮の意に反することを色々と吹き込んでいるという気配があった。そして密かに、漢中にいる誰かと書簡のやり取りをしているということを、郤正が調べ上げていた。その誰かとは恐らく、李厳であろうと、董允は見ていた。
「あいつの仕事とは、暗殺か」
董允が静かに頷いた。
これまでも自分達の知らないところで、暗殺が行われていたという気配はあった。蜀建国の当初、その新体制に反対する者の何人かが、不審な死を遂げていた。
「黄皓殿を殺すか。気が重いな。俺の仕事に反対されるのは困るが、徴発に反対するということ自体は間違っているとは思えない」
「標的は、黄皓ではない。黄皓に近い者を一人殺すことで、恫喝する。いくらなんでもあいつを殺せば、丞相のことを信頼している陛下ですらそれに反発の意を示されるかもしれない」
蔣琬は知らないようだが、黄皓は日々増大する反戦派の声に乗り、自分の地位を上げようとしていた。少なくとも、董允の目からはそう見えた。北伐を続けるためには先ず、黄皓の首根っこを押さえておくことだった。
「恐い男になったな、董允。俺は臆病者だから、そんな仕事は到底できそうもない」
「そう言うな、蔣琬。俺も好んでそんなことをするわけではないんだ。所詮、俺達は、自分の意思を持ってはいけない人間なんだからな」
「俺達だと。俺のことを、勝手にその中に入れるなよ」
言われて、この暗殺に蔣琬のことも巻き込もうとしていた自分に気付き、董允は苦笑した。確かにこのような暗い仕事は、自分ひとりの責任でやればいい。
「自分の意思を持ってはいけないという点では、その通りだとは思うがな。お前は分かっているかもしれんが、俺は戦を止めてもらいたいと思っているよ」
自分が考えていることに気付いたのか、蔣琬が取り繕うようにして言った。
不意に戸が叩かれる音がして、二人はそちらに目をやった。
戸を開けた郤正が、静かにこちらに頭を下げていた。
「終わったようだな」
董允が言うと、郤正は頷いた。
「じゃあ俺は行くぞ、蔣琬」
姿勢を正した蔣琬も、同じように頷いた。蔣琬は、必要以上に郤正のことを畏れていた。それはまだ年若な郤正に対する畏れではなく、諸葛亮に対する畏れである。
董允は郤正を伴い退室した。斜め後方から付いてくる郤正の歩調に音は無く、本当に付いて来ているのかどうか疑わしくなる程だった。
董允は少し振り返り、郤正の顔をちらりと見てみた。一仕事を終えたというのに、いつもと同じ顔をした郤正の顔がそこにはあった。
蔣琬は、自分のことを臆病者と言っていた。郤正を預けられた時、何故、と思ったものだ。蔣琬は諸葛亮の第一の弟子のようなものであり、郤正を預けるのなら蔣琬であろうと思ったのだ。しかしこうして暗殺を終えてきた郤正と何でもないように歩いていると、その理由が分かるような気がした。
諸葛亮は自分の中にある、自分でも気付かなかった冷酷さに気付いていたのかもしれない、と董允は歩きながら思った。
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