王平伝 5-7
襤褸に身を包んでいた。王平らがいる楽城から東北三十里の敵陣内である。
句扶は木の板が先に付いた棒を手繰って人糞の始末をしていた。そういう仕事をする人夫として、魏軍内に紛れ込んだのだ。
左目が潰れていた。王訓が攫われてしまったということに対し、責任を取る形で自ら抉ったのだった。
それは、蜀軍の徴発を拒んだことで粛清されたということにしていた。魏軍の兵卒を騙すには、十分な嘘だった。糞の始末は、誰もが嫌がる仕事である。その兵卒はわずかな銭で、自分の仕事である人糞の始末を命じてきた。自分は運がいい、とその兵卒は笑っていた。
軍内でそういったことを勝手にすることは禁じられているらしく、内密にやれとも言われた。正に願ったり叶ったりだった。
句扶は変相を施し、そこで起居した。寝るのは外の木の下である。この陣営内には、郭奕がいる。顔が割れてはいたが、目を潰しておいたことが良かった。目のない新しい顔で変相をすると、全くの別人になれた。これなら恐らく、王平でも見分けられないだろう。劉敏からもらった蚩尤が模られた眼帯は、懐に忍ばせておいた。
兵力は五万。人糞の始末をしながら、そういうことも調べて手の者を楽城に走らせた。兵糧の動きもできる限り調べた。雇い主である兵卒にさりげなく聞くと、ある程度のことを知ることはできた。そしてその情報を裏付けるため、夜間に動いた。漢中の山中は、自分の庭のようなものである。失くなった左目も、右目があるから問題ない。音と、匂いと、空気の流れがあればいい。むしろ五感は、左目があった時より研ぎ澄まされている。漢中の山中を知らない黒蜘蛛などに、捕らえられるはずもない。
王訓が捕らえられている場所は、ある程度見当を付けた。軍営の後方に立ち並ぶ、将校級の者が使っている小屋の一つである。その小屋だけは黒蜘蛛の警固が厚く、近づくことができなかった。これだけ警固が厚いのは、敵大将の曹真が使っている幕舎以外にない。一つの小屋に施しているその不自然な程の警固の厚さは、そこに王訓がいることを示していた。しかしそれは句扶がそう思うだけで、確証はない。自分が郭奕ならそうすると思うだけだ。もしかしたらそれはそう思わされているだけで、罠かもしれない。
確証を得るまでには、まだ時がかかる。しかしそこまで時をかけても良いものか。王訓を人質に、どのような取引をされるかわからない。王平は、そのことで思いの外悩んでいるのだ。それに、郭奕は男色だった。そのことは、できるだけ考えたくはなかった。一刻でも早く助けだすべきだ、と思うだけだ。機を得るまで耐えて待つことが、自分の戦だ。
句扶は糞を埋めるための穴を掘っていた。毎朝の日課である。本当は下っ端の兵卒がやる仕事だったが、それを句扶がわずかな銭で請け負っていた。穴はただ掘るのではなく、いささか工夫した。この時期のこの地域は、雨がよく降るのである。この陣内に大雨が降れば、その水はこの工夫された穴の糞を攫い、兵卒が起居している場所にどっと流れ込むだろう。それはただ汚いだけでなく、疫病の元になるはずだ。
戦が始まろうとしている。それは兵の動きと、軍営の空気でわかった。軍が動けば、軍営には隙ができる。その隙こそ、王訓奪回の好機となるはずだ。その機は逃すべきではない。
軍営の方々から、騎馬が移動を始めていた。その騎馬達は、夏候の旗の下に集結していた。街亭で見たことのある旗だ、と句扶は思った。
句扶が密かにその騎馬隊を見ていると、五十騎程に守られた、綱で曳かれた檻が姿を現した。
句扶は目を見開いた。王訓。その中にいた。句扶は逸る気持ちを抑え、それを見ていた。助け出そうにも、五十騎の周りには数千の騎馬が集まっている。まだ、我慢だ。恐らくこれが、楽城攻めの先鋒なのだろう。ならばやはり、王訓は何らかの取引に使われようとしているのか。
句扶は糞の入った桶を運びながら、一人の人夫になりきることに努めた。
防備は遺漏なく整えられていた。自分の代わりに劉敏が、かなりのところで働いてくれていたのだ。
蜀と魏の大戦である。王平は、蜀の防備一角を任されていた。よく考えると、何故自分が、という思いが込み上げてくる。
句扶の口利きで蜀軍の一員となり、それからは命令を忠実に守って軍人として勤めた。そのお蔭で、人が羨むような出世を果たすこともできた。
しかしそうしてきたのは、いつか王歓のいる洛陽へと帰れることを信じていたからだ。
その王歓は、死んでいた。それも、定軍山での敗戦後、子を産みすぐに死んでいたのだという。自分がしてきたことは何だったのか。それを考えると、空しさしかない。
王歓の兄である王双を自らの手で斬り、その汚れた手の元に息子の王訓がやってきた。王訓は、自分のことを父だと認めてくれていない。当然のことだと思った。その王訓は、開戦前に攫われていた。
心が乱れていた。将がこのようなことで兵の指揮ができるのか。劉敏はそのことを強く心配しているようだった。そして、自分がすべきことまでやっていた。
そんな劉敏の姿を見ても、乱れた心は乱れたままだった。
何のために、自分は戦っているのか。
蜀で過ごしたこの十年間を思い返してみても、少なくともそれは蜀のためではなかったという気がする。漢王室の復興など、自分にとってはどうでもいいことだった。ただそれは、口に出して言ったことはない。
戦っていたのは、家族に会うためだった。そう思っていたはずだったが、それはただ自分が生き長らえるための口実だったのではないかという気がしてくる。
現に、王歓と王双は死に、王訓には嫌われている。にも関わらず、自分は蜀の将として生きていた。
蜀の将軍として楽城は死守しなければならない。しかしそのために、王訓は敵の手の中でどのような目にあっているのか。そのことを考えると、王平の心は割れそうなほどに乱れるのだった。
深夜、劉敏が王平の居室を訪ってきた。
「王平殿、敵が動きました」
王平は、自分を乗せている椅子を劉敏の方に向けた。
「そうか。俺はてっきりまた小言を言われるのかと思った」
劉敏が、強い視線でじっとこちらを見つめていた。その口は、ぐっと引き締められている。以前なら、生意気な態度だと張り飛ばしているところだった。しかし今は、そんな気力すら湧いてこない。
「籠城だ、劉敏。息子が捕らわれているからといって、馬鹿なことをするつもりはない」
心とは、逆のことを言っていた。
「はい、しかし」
劉敏が目線を逸らしながら、言い難そうに言っていた。劉敏の手に、何かが握られている。
「なんなのだ。何を隠している」
王平は、劉敏の手にあったそれを奪うようにして取った。
「矢文です、王平殿。先程、場内に射こまれてきました。非常に申しあげにくいことなのですが」
王平はその文を開いた。そして、自分は字が読めないことに気付いた。
「何と書いてあるのか、正直に言え。嘘をつけば、その首を飛ばす」
読めなくとも、王訓のことが書かれてあるのだろうということは分かった。
「城を出て戦え。さもなくば、王訓の命はないと」
そんなところであろうと思った。
「つまらんことだ」
王平は一笑に付した。心の中は、笑ってはいなかった。
「このような手を使ってくるだろうことは、十分に予想していたことだ。こんなものに乗る程、俺は若くはない」
「籠城でよろしいですか」
王平は一瞬、言葉に詰まった。
「つまらんことは言うなと言っている」
劉敏の目が、じっとことらを見つめている。今、言い澱んだな。そう言われている気がした。
「野戦に出れば、訓が戻ってくるのか。その野戦の結果がどうなろうが、また違う取引に使われるのは、見え透いていることだ」
「恐れながら、その言葉を聞きたかったのです。徹底して籠城すれば、この城はまず陥ちません」
王平の目から見ても、それは疑いのないところであった。
「句扶が帰ってこないな。敵情視察などと言って、訓の居所を探っているのだろう」
「御見逸れをいたしました。本人からは、黙っておけと言われていたのですが」
「心配はしていない。あいつは殺しても死なない、そういう男だ」
句扶なら、自らの命を懸けて王訓の奪回を試みるだろう。攫われた責任を感じて、自分の目玉を抉り出すような男なのだ。
「卑怯なのかな、俺は。自分がすべきことを、句扶に丸投げしてしまっている」
「ここは、句扶殿を信じましょう。句扶殿なら、きっと王訓を取り戻してくれるはずです」
「直接しごかれたお前がそう言うのだ。間違いはないだろう」
言って、二人は軽く笑った。やはり、心から笑うことはできなかった。
朝になり城外に出てみると、目の前に魏軍の騎馬隊が展開していた。楽城の前を流れる河を挟んだ、左手に秦嶺山脈の山麓がそびえる原野である。
敵の軍中に、夏候の旗が見えた。夏候栄の兄である夏候覇が率いる一軍だ。またこいつか、と王平は思った。野戦に出れば、軽く捻ってやれる自信はある。
しかし、籠城である。夏候覇という敗将を前に出し、自分を侮らせようとしているのかもしれない
敵軍の後方に、檻が一つあった。何だと思い、王平は目を凝らした。王訓。この距離からだと米粒程にしか見えないが、それは確かに王訓だった。
王平は、自分の血が逆流するのを感じた。
「見てはなりません」
隣で同じく見ていた劉敏が、王平の手を引きながら言った。王平は、その手を振り払った。
「ここは私に任せて、王平殿は中へ」
「・・・わかった」
劉敏の言うことに素直に従った。王訓のことで平静を保てなくなるのは、どうしようもないことだった。
王平は城内の軍営にある自室に入った。ここで報告だけを受け、それに対する指示を出す。それも、一つの戦の形だ。外のことは、劉敏に任せておけばいい。
王平はそこでしばらくじっとしていた。目を閉じ、乱れた心を整えることだけに努めた。
外で戦いが始まる気配は、いつまで経っても伝わってこなかった。この城の防備を見て、二の足を踏んでいるのだろう。陳倉城に到着したばかりの丞相がそうだった、と王平は思った。
伝令が入ってきた。王平は、静かに目を開いてそちらを見た。
「敵軍から、このようなものが城内に届けられました」
始まったかと思ったが、そうではないらしい。伝令の手には、小さな木箱があった。
王平は伝令からそれを受け取り、開いた。
血塗られた手。まだ若い男の左手だった。
全身の毛という毛が逆立った。王平は自室から飛び出すようにして出た。
「俺の馬を曳け。全騎馬隊は、出動準備。浮き橋をすぐに出せ」
大声で命じていた。城内が、俄かに慌ただしくなった。劉敏が何か言いながら走ってきたが、それは押しのけた。もう、他に何も考えることなどできなかった。
雨がぽつりと降ってきた。
夏候覇は馬上にありながら、鼻の頭を指先で少し拭った。
敵が籠る楽城が目の前にあり、その手前に原野が広がっている。
騎馬隊の展開が終わったと部下が伝えてきた。予想していたよりも、早く終わったと思った。指揮がきちんと行き届いているという証拠である。もう、初陣を迎えたばかりの青二才ではないのだ。
この戦の指揮官である曹真からの命令は、敵が出てくるまで待機ということだった。
本当に出てくるのか、ということは考えなかった。出てくるというのだから、出てくるのだろう。自分がすべきことは、故を考えることではなく、敵を討ち果たすことなのだ。
騎馬隊の後方に、檻が曳かれてきた。中にはまだ容貌に幼さを残した男が入れられていた。敵が出てくることとその檻は、何か関係があるのかもしれないと思った。詳しいことは、何も聞かされてはいなかった。
何か汚いことをやっている、という気がした。しかし、それは気にしないことにした。命を懸けた戦なのだ。無駄な思いに捕らわれてしまえば、その分だけ死が近づく。
降ってきた雨は、気にすべきことだった。晴れた日と同じように馬を駆けさせると、馬が濡れた草で足を滑らせることがあるのだ。それは、張郃から教わったことであった。秦嶺山脈から南のこの地域では、雨がよく降るのだ。
濡れた草地での調練は積んできた。しかし、実戦では初めてである。想定していなかったことが起こるというのは、常に心に置いておかなければならない。それも、張郃から学んだことだ。街亭では、蜀軍が城から出てきてこようとは思いもしなかったのだ。
城が、動き始めた。城の前を流れる河に、浮き橋が架けられ始めた。やはりそれは、自分の中で想定していなかったことだ。戦における想定などは、そもそも意味のないことなのかもしれない。
王の旗。三里程離れた城の門から姿を現した。俺を二回殺した男。その思いは、拭っても拭いきれないものだった。それは悪いものではない、と曹真は言っていた。
夏候覇は逸る気持ちを抑えた。本当は、今すぐにでもあの男の首を奪りに行きたいのだ。
時をかけ、王平の騎馬隊が城から出て展開を始めた。数は、四千。自分が率いる先鋒騎馬隊と、ほぼ同数だ。
「前進」
夏候覇は手を上げ、強かに言った。その言葉が、小隊長の口を伝って全軍に伝わっていく。
自分は落ち着いている。そう言い聞かせた。敵の全容は見えているし、その周囲の地形も見えている。街亭の時は、そうはいかなかった。
少しずつ、馬足を上げた。周りには、二千の騎馬が自分を囲んでいる。そして左右のやや後方に、二つの千騎が続いてきている。
右手に山麓、左に原野。夏候覇は左の千騎を少し押し出し、右の千騎をやや下げた。こちらに向かってきている王平の四千騎が二つに割れた。右に三千。左に千。王平は、どっちだ。
敵は全体的に左へ走っている。思った通り、右の狭い空間を嫌った動きだ。殴り合おう。そう言われているようでもあった。
自軍の左翼に向かってきた敵の千騎が、不意に曲がって大きく横腹を見せた。騎射が左翼を襲った。街亭ではこれで、指揮していた騎馬隊が大いに乱れた。
厚く備えておいた馬甲がそれを弾いていたが、それでも射抜かれた兵がぱらぱらと落馬している。夏候覇は、左に馬首を向けた。後ろからは、右翼にいた千騎が追従してきている。
乱れかけた左翼に突っ込もうとしていた敵の千騎が反転し、夏候覇の突撃をいなした。馬足は、馬甲が厚い分だけこちらが遅い。
右の敵三千騎が、こちらに横腹を見せていた。矢。飛んできたそれを、剣で叩き落とした。
「怯むな」
馬上を容赦なく吹き付けてくる風の中で、夏候覇は叫んだ。矢は時を与えなければ、連続して飛んでくることはないのだ。夏候覇は馬腹を蹴った。強くなり始めた雨が、夏候覇の顔を激しく打ち始めた。
夏候覇を先頭とする二千騎が、勢いよく敵の三千にぶつかった。敵と味方が入り乱れる。乱戦になる前に、敵から離れた。離れたところに追従していた千が突っ込み、敵を断ち割った。三百騎は倒したか。こちらも、百五十程の被害が出ている。夏候覇は敵との距離を取り、二つの騎馬隊を一つにまとめた。
敵の二千七百が追ってきていた。速い。夏候覇はすかさず反転を命じた。こちらに勢いがつく前に、敵の騎馬が突っ込んできた。夏候覇はその先頭に目を見開いた。王平。その目はこちらに向けられていた。また会ったな。目が、そう言っていた。
夏候覇の体の底が、かっと熱くなった。望むところだ。俺は、お前を殺しにこの戦場に来たのだ。剣と剣が交差し、火花が散った。
王平の騎馬二千七百は本気でぶつかってこず、こちらの騎馬隊の皮膚を掠め取るようにして離れていった。馬甲の防御力が、敵の突撃を跳ね返したとも見えた。
味方は、二千五百に減っていた。敵も、同じくらいだろう。
騎射で乱されていた左翼が態勢を整え、こちらに合流しようとしていた。その孤立した左翼に、一つにまとまった王平の騎馬隊が向かっていた。夏候覇もそちらに馬を走らせた。後ろを取れる。その代わり、孤立した左翼にはかなりの被害が出るだろうと思えた。
「突っ込め」
夏候覇は叫んだ。
王平の首。目は、それだけを追っていた。降ってくる雨が、熱い。いや、熱いのは、俺の体か。
孤立した味方に向かった敵が、ぶつかる直前で不意に二つに割れ、反転した。そしてその二つの騎馬隊は、夏候覇の両側から騎射を放ってきた。味方がばたばたと倒れていく。
夏候覇は歯噛みした。後ろを取れると思ったが、そこをするりと抜けられた。
夏候覇は孤立していた騎馬と合流し、二つに分かれた片方の、山麓側に走った敵の半数を追った。敵のもう半数は、後ろから迫ってきている。目の前の敵は、ぐんぐんと離れていった。
ある程度離れたところで、追われていた方の敵騎馬が反転を始めた。後ろからも、敵。挟撃を受ける格好となった。
「そこだ」
思わず口に出していた。
山麓の茂みから、喚声と共に、魏軍の歩兵が湧くようにして現れた。山麓側に走った敵が、にわかに浮き足立つのが分かった。ここが勝負所だ。夏候覇は馬腹を蹴りに蹴った。
逆に挟撃を受ける形となった敵騎馬隊が、歩兵の矢を受けばたばたと倒れていった。そこに、一丸となった夏候覇の騎馬が突っ込んだ。
敵が算を乱し始めた。
王平はどこだ。夏候覇は二百だけを小さくまとめ、そこから離れた。潰走を始めた敵の追撃は、他の者達に任せておけばいい。夏候覇は目を左右に走らせた。百程にまとまった塊が、乱戦を抜け出ようとしていた。
あそこだ。夏候覇はそちらに馬首を向けた。
俺を二度殺した男がそこにいた。お前の首を奪るまでは、俺は死んでも死にきれないのだ。
強くなってきた雨が、夏候覇の目を打った。しかしその目は、かっと見開いたままだった。周りを百弱に減らした王平が、死地を抜け出た。
逃がすか。夏候覇は馬の尻に剣を突き刺した。
馬足が上がる。左には、割れた片方の敵騎馬隊が迫ってきていた。あそこに逃げ込まれるわけにはいかない。王平。その背中が近づいてきた。届く。夏候覇は馬上で剣を掲げた。
目の前に迫った王平が、不意に左に折れた。振り返った王平と、目が合った。その顔は、にやりと笑っていた。
体の中の熱いものが火を噴いた。殺す。夏候覇も馬首を左へ向けた。
ふっと、体が軽くなった。そして強い衝撃が体を打った。口に泥が入り、馬から落ちたのだと分かった。滑ったのだ。目の前でもがく馬を見て、それに気が付いた。馬は立ち上がろうとしていたが、無様にもがいているだけだった。力を使い果たしたのだ。
王平は既に馬群に紛れ、城の方へと駆け去っていた。夏候覇は膝立ちになり、地を叩いた。
雄叫びを上げた。もう一歩で、届いたのだ。しかし、届かなかった。
全身を打つ雨が、この上なく煩わしかった。
戸が勢いよく開けられた。
「俺の装束を持て」
入ってくるなり、王平は鋭く怒鳴るようにして小者に言った。小者が、それに気圧されるようにして走り出した。
「王平殿」
劉敏を無視して行こうとする王平の後ろから声をかけた。
「小言は後にしろ」
楽城に属する騎兵の半数が壊滅していた。魏軍の挑発に乗り、伏兵に遭って散々に打ち崩されたのだ。これが諸葛亮の耳に入れば、どんな叱りを受けるかわからない。
「少し落ち着きなされ」
興奮しながら行こうとする王平の体からは既に具足が解かれていた。雨と泥で汚れた軍袍が、王平の行く廊下を濡らしている。
小者が黒装束を持ってやってきた。王平は兵の目を気にすることもなく、軍袍を脱いで素早くそれに着替えた。
「雨だ、劉敏」
「そんな話はしておりません」
「この雨は、いつまで続くと思う」
「いつまでって、それは」
城内に入る前、空は黒く澱んでいた。かなり強い雨が降ってきたのだ。この時期の漢中では、珍しくない天候だった。
「雨はしばらく続きましょう。これは、我らに有利をもたらしてくれるはずです」
「そうだ。俺もそう思う。俺は冷静だ。違うか」
矢継ぎ早に言う王平は、とても冷静だとは思えなかった。
「雨に紛れて敵陣に乗り込もうというおつもりですか」
「その通りだ。おい何をしている。とっとと俺の武器も持って来い」
王平が叫ぶとまた小者が走り出した。
「お待ち下さい。作戦も立てぬまま乗り込むなど、正気の沙汰とは思えません。それに、この城をどうするおつもりですか」
「この城は、お前に任す。作戦は、向こうで句扶と合流してから考える」
王平の全身から、怒気が発されていた。それに圧倒されそうになりながらも、劉敏は腹に力を籠めて耐えた。
「帰ってくる馬上で、俺は自らを罵倒した。こんなことで訓を助けられるはずもなかったとな。初戦を制した敵の気持ちは今、緩んでいる。雨に紛れる好機ではないか」
「それは、そうかもしれませんが」
「お前は、俺が冷静さを欠いていると思っているのだろう。逆だ。一戦交えてきて、頭はすっきりした。ここが勝負所なのだ」
蜀軍にとっての勝ちとは、魏軍をこれ以上前に進ませないということだった。しかし王平のそれとは、別なところにあるのだ。
「この城の指揮は、お前で十分だ」
小者が箱を持って走ってきた。王平はその中に入ってある短い剣を奪うようにして掴み取った。
「あ、王平殿」
次の言葉を探している内に、王平は消えるようにして行ってしまった。
劉敏は大きな溜め息をついた。この城の防備は、王平が言うように問題はない。雨が降り続けば、城の前を流れる河の水量は増し、防御力は高まるのだ。そこまで考えて、この城は築かれていた。
恐いのは、黒蜘蛛による城内の攪乱である。敵から城内に届けられた手が入った箱は、自分を通すことなく王平のもとに届いたのだという。この中に、少なからず黒蜘蛛が紛れ込んでいるということだ。自分はそれだけに注意を払っておけばいい。
劉敏は、兵の気に緩みはないか見ながら城内を歩いた。兵は皆、漢中軍の兵で、どの顔も一度は目にしたことがあった。その中に、以前から黒蜘蛛が紛れていたということなのだろう。それは、仕方のないことだった。詳しくは知らされていないが、句扶の蚩尤軍の幾らかも、敵兵の中に紛れ込んでいるのだ。
王平の言っていたことは、或いは正しいのかもしれない、と劉敏は歩きながら思った。こう雨が降ってしまえば、戦どころではなくなってしまう。蜀軍は周囲の天険を利用して、粛々とこの城を守ればいいだけなのだ。敵も恐らく、蜀から仕掛けてくることはないと思っていることだろう。そこに隙を見出そうというのは、悪い考えではない。
それに敵陣に乗り込んでいるのは、蚩尤の名を冠するに相応しい句扶だ。劉敏は句扶の強さを、その体を以て知っていた。それに王平も、句扶に負けない程に強い。王訓という青年を助け出すだけでなく、敵将の首の一つや二つもついでに持って帰ってくるのではないかと思わされるところもある。
城壁の上では、兵らが盛んに声を上げている。今のところに異常はないし、兵の士気に衰えはない。しかし兵の体を濡らす雨が続き、敵が攻めてこないとなれば、兵の士気に緩みが出てくるであろうことは十分に予想できた。黒蜘蛛が仕掛けてくるのは、そういう緩みを見せた時だろう。
兵の士気を保ち、城内の異常を見逃さないこと。この二つが、今の自分がすべきことだ。
「この城は、俺の城だ」
城頭に立ち、劉敏は呟いた。雨の向こうで、魏軍がわらわらと蠢いている。劉敏は、左頬の傷跡に手をやりながら、それをじっと見ていた。