王平伝 6-6

 張の旗を掲げ馬を走らせた。通り過ぎていく集落には、戦の気配を察して逃げ出したのか、すでに魏軍の徴発に遭った後なのか、人の姿が見えない。蜀軍に残していくものは何もないという、司馬懿の戦略なのかもしれない。

 三千の騎馬で丸一日駆け通し、予定していた瀧関近くの潜伏場所に辿り着いた。王平は気の利く者を選んで張郃軍が来着したという偽情報を持たせた瀧関に向かわせ、自身は数騎を連れて物見にでかけた。

 三千を伏せた林を抜けて緩やかな丘の稜線に立ち、瀧関前に陣取る敵を見渡した。ここに五万程の魏軍がいるはずである。ここから見て取れる魏軍は二万といったところか。五万の内の二万では少ない。残りは近くに埋伏しているのか、それとも諸葛亮が北に出した陽動部隊に数を割いているのか。それは自分の考えるべきことではない。自分がやるべきことは、付近に埋伏がないか調べ上げ、後方から続いてくる諸葛亮の本隊に報せることである。思えば、自分で考えるということが、昔と比べてずいぶんと減ったという気がする。それが悪いと思うわけではない。魏との戦が続き、蜀軍の一武将として働き続け、自分の領分以外のことに頭を巡らせることは時として重大な過ちを呼び寄せるのだということを学んだのだ。張郃に大敗を喫した馬謖は、自分の領分以外のことに手を出そうとし、大きな過ちを犯していて。ここでの自分の領分とは、魏を倒すという大きなものでなく、目の前の二万をどう打ち破るかということだ。それは、見誤ってはならないことである。

 王平は丘を下り、部下の待つ林へと戻った。そして兵に命じて焚火を熾させ、飯の支度をさせた。陣の方々から煙が昇り始める。司馬懿は瀧関からこれを見て、あそこに張郃軍がいると確信し安堵することだろう。

 王平が陣内を見廻っていると、諸葛亮につけられた句扶が姿を現した。格好は同じく張郃軍のもので、左目の眼帯では相変わらず蚩尤が不気味に笑っている。もう、見慣れたものであった。

「兜を深く被って下さい。黒蜘蛛がここを見ている気配があります」

 王平は頷き、兜を深く被り直した。

「魏延殿の先鋒隊が、明日には到着するはずだ。それに合わせてこの騎馬隊はここを離れ、敵の側面を突く。それまでに黒蜘蛛を炙り出しておけ」

「五十の部下を辺りに散らせております。先の魏軍の潰走で、黒蜘蛛の統制にも乱れが出ているようです。一匹残らず捕まえてみせますよ」

 そう言い、句扶は兵の中に紛れていった。この作戦の要は、敵に正体を見破られることなく、奇襲を成功させることだ。それは上手くいきつつある。

 日が落ち始めた頃に、瀧関に向かわせていた部下が戻ってきた。司馬懿からの使者も同行しているのだという。王平はそれには会わず、句扶を呼んだ。

「黒蜘蛛の駆逐を始めてくれ。それと、司馬懿が俺に使者を寄越してきた。ここに本当に張郃軍がいるのかどうか確かめに来たのだろう。あいつらに、瀧関の兵糧庫の詳しい場所を聞き出すのだ」

「帰す必要はないということですね」

「ない。聞き出したら、丞相に早馬だ」

「御意」

 すぐに、司馬懿からの使者が何かを喚き始めるのが聞こえてきた。しかしそれはすぐに消えた。

 聞き出すとはつまり、体に聞けということだった。昔はこういうことに些か抵抗があったが、今となってはこういうことに対する後ろめたさもない。殺すか殺されるかの戦なのだ。

 しばらく時が経ち、句扶が拷問と、周囲の黒蜘蛛の洗い出しが終わったことを告げてきた。王平は瀧関の兵糧庫の位置を頭に入れ、兵をまとめてその場を発した。

 自ら確認した敵の布陣は頭に入っている。それを大きく迂回するように馬を走らせ、敵の側面を突ける所で隊を止めた。かなり大きく迂回したので、既に夜は明けようとしている。

「魏延殿の先鋒隊が、ここから十里に近づいています」

 斥候が報せてきた。魏延の率いる精鋭だけあり、さすがに早い。これなら空が白くなる前に攻撃を始められそうだ。敵の陣容を報せる早馬も、魏延を通じて諸葛亮の本隊に向かっているはずである。あとの自分の仕事は、目の前の敵を撃破することだ。

 魏延の隊が目に見えるところにまで辿り着き、布陣を始めた。それはまるで一つの生き物のように広がり、しかしまとまりを失うことなく、見事な鶴翼を形作っていった。

 王平がそれを関心しながら眺めていると、魏延からの伝令がやってきた。

「申し上げます。早く敵に突っ込んで陣を崩せ、とのことです」

「なんだと。他には何も言ってはいなかったか」

「それだけです」

 士気も兵力もこちらが勝っているうえ、敵兵は関から出てきているのだ。魏延は何をそんなに焦っているのか。

「わかった。魏延殿には了解したと伝えておいてくれ」

 それに頷いた伝令が駆け戻っていった。

 王平は魏延に対して不快感を覚えたが、王平は兵をまとめて出撃する準備を整えた。勝ち戦を前にして功を焦っているのだろうか。ここは周到に準備をし、長安の攻城戦に備えて兵の被害をできるだけ抑えておくべきではないのか。

 王平は片手を上げ、三千の騎馬の先頭で駆け始めた。

 まだうっすらとした朝日に浮かんだ敵陣が見えてきた。昨日の陣容とは少し違い、自分が向かう先とは反対側の構えが厚くなっている。移動する前の自分の軍に備えているのだということはすぐにわかった。これなら容易く崩せる。

 敵陣が近づいてくる。敵兵がこちらに気付いたが、張郃軍の旗と具足を見て歓声を上げ始めた。やはり魏軍の中では、張郃の存在は大きかったのだろう。しかし残念ながら、俺は張郃ではない。

 敵兵の表情がわかるくらいまで近づいたところで、王平は駆け足だった馬を疾駆させた。魏軍兵士の顔がさっと青ざめるのがわかった。

 敵陣の一番脆そうなところを目がけて突っ込んだ。歓声が一気に悲鳴に変わり、辺りを包み始めた。敵を斬りつつ陣を完全に断ち割ったところで、後方から魏延の先鋒隊が鶴翼のまま走りこんできた。混乱した二万の魏軍が絵に描いた様に包み込まれていく。

 こうなれば、騎馬隊の役目は終わりである。あとは歩兵に任せておけばいい。

 王平は小高い丘に登り、蜀軍の攻勢を見守った。どこかに加勢がいるか思ったが、その必要はないほどに蜀軍は魏軍を押しに押している。そしてすぐに魏軍の潰走が始まった。

 それを眺めていた王平のところに、一際大きな黒い馬に乗った魏延がやってきた。

「こんなところで何をやっている、王平。早く瀧関の兵糧庫を制圧するんだ」

「突然何を。敵の兵糧庫は、関の向こう側にあるのですぞ。先ずはあの関を抜かねば」

「間道を探せばいいだけの話だ。とにかく急げ。俺が先導する」

「危険です、魏延殿。魏軍はどこに兵を伏せているかわかりません。それに、あの歩兵の指揮はどうするのです」

「劉敏と趙統も来ている。あとはあいつらに任せておけばいい。文句を並べていないで俺についてこい」

 それに言い返す間もなく魏延が駆けだしたので、王平もやむなく部下と共にそれに続いた。

 関の脇に連なる山に入り、馬がやっと通れる程の道なき道を進んだ。途中で足を踏み外して落馬する者も出始めたが、魏延はそれに脇目も振らずに進んだ。

 かなりの時をかけて山を抜けた時には、既に日は中天を越えていた。

 情報通りの所に魏軍の兵糧庫はあった。しかしそこには既に火がかけられていて、油まで注がれているのか、火は轟々と天に向かって燃え盛っていた。それを前にして、魏延が茫然自失としている。

「どういうことですか、魏延殿。このような強行軍に、どのような意味があったというのですか」

「どうもこうもあるか。戦は終わりだ。漢中に帰る支度をしろ、王平」

 魏延はそれだけ言い、ぷいとそっぽを向いて行ってしまった。

 瀧関は蜀軍によって既に制圧されていた。王平は手勢を率いて瀧関に入った。こんなことなら、わざわざ間道を縫ってまでの強行軍などしなくてよかったのだ。

 王平は城壁から火が燃え盛る兵糧庫をじっと見つめている劉敏を見つけた。その劉敏は、何故か悲痛な面持ちをして佇んでいる。魏延にしろ劉敏にしろ、何か様子がおかしい。

「おい、劉敏。勝ったというのに、どうしてそんな顔をしている」

 声をかけられた劉敏がはっとして王平に顔を向けた。そして、何か言い難そうにしている。

「魏延殿が、戦は終わったと言っていた。何があったちいうのだ。まさか、丞相が暗殺されたとでも言うのではあるまいな」

「違います。蜀軍には、もう兵糧がないのです。我々は、これ以上先に進むことができません」

 歯を食い縛る劉敏の目から涙が零れ、左頬の大きな傷跡を伝って落ちた。

「どういうことだ。魏軍の二万を散らしたのだぞ。それに長安まではもう一息ではないか」

「王平殿が張郃軍に偽装し出発された後に、漢中の李厳殿から書簡が届けられたのです。蜀の民が窮乏しているため、兵糧は送らないと。瀧関に蓄えられた兵糧を奪えればまだ望みはありましたが、それも断たれてしまいました」

 王平はしばらくの間、劉敏が何を言っているのかわからなかった。戦に勝ち、いよいよ長安に手が届こうかというのに、後方の味方からそれを阻止されることなどあるのか。

「馬鹿なことを言うな。そんなことがあってなるものか」

 王平は思わず大声を発した。魏延が焦っていたのは、つまりこういうことだったのか。天水に続き瀧関でも快勝し、魏軍の兵力を大幅に減らした。蜀軍は勝っているのだ。しかし長安を攻略するまで、それは本当の勝ちとは言えない。その本当の勝ちは、もうそこににまできているのだ。

「ここまで来て撤退はないだろう。何か手はないのか。諦めることで、考えることを止めるな、劉敏。考えろ。何か、何かまだ手は残されているはずだ」

「羌族に使者を送り、羊が手に入らないかと丞相は模索しておられます。しかし羌には既に魏の手が入っているようで、あまり期待はできません。それに羊が手に入ったとしても、八万の兵力では何日ももちません」

「俺が長安に走ってやる。あそこの兵糧庫を押さえれば、まだ戦えるではないか。すぐに早馬を出して丞相から許可をもらってこい」

「なりません。長安の兵糧は、城壁の中ではありませんか。王平殿の騎馬隊だけで、どうしようというのですか」

「がたがたと言い訳をぬかすな」

 王平は拳を振り上げ、劉敏の左頬に叩き込んだ。

「ここまでどれほどの犠牲が出たと思っている。今回の戦だけではない。今までの全ての戦は、この時のためにあったのではないのか」

「ここまでなのです、王平殿。私を殴ることで気が済むなら、いくらでも殴って下さい」

 殴られた劉敏は地に尻をつけたまま、赤い、しかし済んだ目で、怒りの色もなく王平を見つめていた。王平はそれから目を逸らし、ただ唇を噛んだ。

 漢中から手勢を率い、ここまでやってきたのは何のためだったのか。張郃を討ち取り、その軍の具足を身に着け戦に向かっていた自分は、まるで道化のようではないか。自分だけではない。魏延も、句扶も、劉敏も、身を粉にして強大な魏に立ち向かったのは、一体何のためだったのか。たった一人の愚かな判断が、全てを無に帰してしまった。こんなことがあっていいものなのか。

 王平は鼻の奥が熱くなるのを感じ、目を瞑った。これを悔しいと言わずして何と言おうか。自分たちは戦に負けて撤退するのではなく、味方の愚かな判断によって撤退するのだ。

「撤退だ、劉敏。漢中に帰るぞ」

 王平は吐き捨てるようにして言った。劉敏は立ち上がり、軍人らしい大きな声で返事をした。

 自分だけではないのだ。他の武官らも、兵らも、そして丞相も、そうなのだ。王平は湧き上がる怒りを胸の中で抑え、自分のそう言い聞かせた。

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