王平伝 4-5
出動命令がきた。陳倉に来てから、六日目の朝であった。王平の隊は後方にあり、陳倉城陥落の報せを待っていたのだ。
二千で守っているということだったが、先日そこにもう二千の援軍が入り、四千の兵で籠もっているのだという。句扶が言っていた通り陳倉城はかなりの堅城であり、先鋒の趙統と鄧芝が率いる一万と諸葛亮とその麾下が率いる一万で攻めていたが、まだ落とせずにいた。
魏延も王平と共に後方にあり、全軍で一気に攻めればいいのだと言い、前線に何度もそう伝えているようであったが、相手にされていないようであった。
王平は魏延の意見に賛成だったが、魏延のように意見を主張することは避けていた。諸葛亮は、軍人が意見するということを嫌っているということを知っているからだ。言うことがあったとしても、魏延や句扶の前で愚痴めいたこと言うだけだった。自分は姑息であるという思いが、ないわけではない。軍人は、上の者に忠実であればいい。そう思うことで、王平は自身を納得させていた。
出撃を部下に伝えると、兵達は重たそうに腰を上げ始めた。後方にあっても毎日駆けさせていたため、体が鈍っているわけではない。鈍っているのは、心である。
最初からそうしておけば良かったのだ。口には出さぬが、そう思っている者が少なくないということは、兵の顔を見ればわかった。
昔なら、ここで兵の首を幾つか落として気を引き締めさせていたかもしれない。しかし、そんなことをする気にはなれなかった。兵達が思っていることは、間違いではないと思えたからだ。
王平は八千の漢中軍を率いて現場に到着した。初めて見る陳倉城は、堅牢そのものだった。
「さあ、どうしたものか」
王平は、隣にいる劉敏に向かって呟いた。気負っているのか、劉敏は眉間に皺を寄せて城を睨んでいる。
「あの堀に近づくと、城壁から大量の矢が降ってくるようです。丞相が言うには、全軍で四方から攻めれば、城内の兵は分散して飛んでくる矢は減るだろうとのことです」
「なるほど」
陽が中天に差し掛かろうとした頃、総攻め開始の銅鑼が鳴らされた。王平は、兵に盾を持たせて前進させた。弓矢を手に並んでいる城壁の守兵が、王平のいる所からもよく見えた。兵は堀に丸太を渡して城に迫っていこうとしたが、兵が丸太の上で一列になったところに矢が集中した。矢に当たらずとも、足を滑らせた兵がぼとぼとと堀に落ちていった。堀の底には、上向きになった刃と、虎や狼などの獣が放たれていた。
王平は床几の上でそれを見ながら唸った。一重目の堀には幾つもの丸太がかけられたが、二重目をなかなか越えることができない。三重目に至っては、まだ一兵も渡りきれていない。一度兵を退かせるべきだと思ったが、自分の隊だけが勝手に退くわけにはいかなかった。そんなことをすれば、自分の首が飛んでしまう。王平は途中から、どうやって城を攻略するかということでなく、どうすれば兵の損害を抑えることができるかを考え始めていた。
日が落ち始め、ようやく攻撃中止の合図が出された。損害は、かなりのものになっていた。
兵に兵糧をとらせていると、諸葛亮の報せを持った趙広がやってきた。
「魏延殿が、なかなかの働きをされていました」
つい数年前まで小僧であった趙広は、今やその口調もすっかり軍人のものになっていた。
魏延は決死隊を募って自ら先頭に立ち、堀に入って獣を駆逐し、刃を撤去したのだという。堀の中ならば、城壁から飛んでくる矢に当たることはない。
「さすがは、魏延殿だ」
隣にいた劉敏は、青ざめていた。思っていた以上に、兵が死んだ。その中には、つい昨日まで一緒に駆けていた者もいたのだ。
先ずは、あの三重の堀をどうにかしなければならない。
「丞相からの命令です。兵糧の袋を使い、あの堀を埋めてしまえとのことです」
悪い案ではないと思えた。しかしそれをしてしまえば、かなりの兵糧を消費してしまうことになるだろうと思えた。劉敏はそれに対して、眉をしかめさせていた。
「あの堀を全て埋め尽くせるほどの兵糧が、どこにあるというのですか」
「全て埋めるということではないだろう、劉敏。堀の中に三つか四つ、兵糧の山を作ってそこを足場にする。そういうことではないかな」
趙広は、その通りだと言うように頷いた。
「戦が終われば、兵糧は引き上げます。できる限り早く落とせ、とも言っておられました。城内に一番乗りした者には、莫大な褒美がでるとも」
「よし、劉敏。それを兵達に伝えてきてくれ。できるだけ兵の気持ちを鼓舞するような言い方で伝えるのだ」
「御意」
劉敏が、弾けるように駆けていった。横柄なところがある劉敏だったが、戦が始まると従順になった。自軍の兵が死んでいくことを恐れているのだろう。軍監の仕事を黙々とするだけかと思っていたが、意外とそうでもないようだ。
趙広と二人きりになると、趙広が腰に括りつけた酒の小瓶を差し出してきた。しかし王平はそれを断った。戦中は、兵と同じものを口にするのだと心に決めている。趙広もそれを知っているため、それ以上すすめてくることはなかった。
以前はよく喋っていた趙広だったが、ここ最近はめっきり口数が減っていた。こうして、兵を失い心を痛めていることに気を利かせてくるということもなかったはずだ。
「父に手をかけた者が、城内におります。兄が夜襲を受けた時、兵を指揮していました」
眼と腕が片方ずつしかない男。それは、王平も耳にしている。そして趙兄弟は、その者の首を狙っている。
「気負い過ぎるな。私心に捕らわれてしまえば、敵に隙を突かれるぞ」
「御意」
そんなことはわかっている、という響きはない。無駄なことを言わなくなったのだ。明らかに、趙広の中で何かが変わっていた。もしかしたら、句扶が何かしたのかもしれない。
趙広は、火が燻る熾火にじっと目を落としていた。思い悩んでいるという様子ではない。ただそこにはない、趙広にだけは見えているのであろう何かを見つめ続けていた。
「趙広」
呼びかけると、趙広はふっとこちらに顔を向けた。影に揺れるその横顔は、やはり別人のように感じられた。
「趙統が、危なかったようだな」
「偽りの恭順のため、油断をしておりました。正に闇の中から湧いて出たように、敵に襲われたのです。近くにいた私が駆けつけなければ、兄は王双に討ち取られていたかもしれません」
「王双?」
王平の心がざわついた。何故、お前がその名前を知っている。
「父を討った者の名です。私と兄はこの戦で、何としても父の仇を討たなければなりません」
王平はざわつく心を落ち着かせた。王双は十一年前の定軍山で戦死したはずだった。それは自分で思っていただけで、実は生きていたのか。しかし、同じ名の者がいないわけではない。
「では私は、そろそろ行かねばなりませんので」
もっと何かを聞いておきたいと思ったが、趙広はそう言って立ち上がった。
「わかった」
そう短く答えるのが精一杯だった。
兵がざわつく向こうの闇に、趙広は消えて行った。周りでは方々で火が焚かれ、兵達が束の間の休息を楽しんでいた。
一人になった。目の前の熾火だけが、ぱちぱちと王平に語りかけてくるようだった。俺はこんな所で何をしているのだ。蜀で軍人となり、いずれは洛陽に帰ると心に決めたのではなかったのか。それがいつの間にか、自分は蜀軍の一人としてここにいついてしまっていた。
「王双」
そこにいるのか。王平は城に向かい、声に出して呟いてみた。
王双は目を覚まし、寝台の上から周りの気配を窺った。自室の外ではいつものように、兵達が働いている。王双は安堵し、大きく息を吐いた。まだ、陥落していない。
自室を出た王双は用を足し、食堂へと向かった。そこにはいつものように郝昭がいて、卓には二人分の食事が置かれてあった。
交代の時間である。明るいうちは郝昭が、夜間は王双が城内の指揮を受け持った。交代する前には、必ずこうして飯を共に食い、自分が寝ている間に何があったかを話した。
「意外ともつものだな、郝昭殿。俺は目覚めた時、もう負けてしまっているのではないかといつも不安になる」
王双は出された水を一息で飲みながら言った。冷たい井戸水が、胃の腑に落ちるのが心地良かった。
「俺もだ、王双。起きたら首だけになっていないか、いつも確認している。首だけになったとしても、俺は戦うつもりだがな」
郝昭は自分でそう言って笑い始めた。こうした明るさが郝昭の強みであり、これが兵に力を与えるということもあるのかもしれない。
蜀軍が陳倉に到着して、十日が経過していた。城外から飛んでくる矢に当たって負傷する者はいたが、防戦を継続するには問題ない程度の被害だ。
「長安からの援軍は、まだ望めそうにありませんか」
「城が、隙間なく囲まれている。黒蜘蛛が城外へ出ようと試みているが、上手くいかないらしい。だから詳しくはわからんが、援軍が到着するのは、あと半月後ではないかと俺は見ている」
王双は頬杖をつきながら唸った。難しいところだと思えた。相手を騙し、三重の堀で食い止めながら防戦してきたが、今では郝昭が心血を注いで作った三重の堀も意味をなさなくなってきている。敵は兵糧の袋を足場にして、堀を乗り越えようとしてきているのだ。火矢を使って兵糧の袋を焼き払おうとしたが、いかんせん人手が足りずに上手くいかない。
唸る王双とは対照的に、郝昭は思い悩んでいる様子も見せていない。食欲も衰えるどころか、出されたものをすごい勢いで食っていた。その様子は、兵の目から見ていて頼もしいことだろう。
「王訓は、どうしていますか」
「厨房でよく働いているそうだ。包丁で指を切っていた。それは戦の中での名誉の傷だと言ってやったら、喜んでいたぞ」
「邪魔をしていなければいいのですが」
「邪魔なものか。王訓は兵達の心に潤いを与えてくれている。俺も王訓の顔を見る度、長安にいるこういう若者達を守らねばならんのだと思い直させられる」
王訓の父親が蜀軍にいるのだということは、郝昭には言ってなかった。王訓本人も、そのことは知らない。王訓を長安に置いてくることで、そのことは忘れようと思っていた。このことを知らせたからといってどうなる。知っておかない方がいい、ということもあるのだ。しかしそれは、ただ面倒なことに蓋をしようとしているだけではないか、という後ろめたい気持ちがないわけでもない。
飯を食い終わると、郝昭は自室に戻り、王双は城壁に上った。
闇夜の中に、篝火がいくつも燃えている。それは、既に見慣れた光景になっていた。
歩哨は互いに声をかけ合い警備を怠らず、城壁の下では大壺に入った油が煮続けられている。
王双が見回っていると、郭奕が音も立てずにやってきた。忍びの軍である黒蜘蛛を束ねている男だ。
「蜀軍はやはり、愚か者の集まりだな」
郭奕は気軽に声をかけてきた。以前に似たような仕事をしていたせいか、この男とは妙に気が合った。
「ここに抑えを数千残し、長安に向かえばよいものを。街亭でもそうだったが、敵総大将の諸葛亮とやらは、戦が下手なようだな」
この絶望的な防戦の中でも、郭奕の言葉は冷静そのものだと思えた。
「城内は、大丈夫か」
敵は目の前にいる、見えている蜀兵だけではない。蜀軍にも、黒蜘蛛のような軍はいるのだ。
「その点は心配するな。それに対する備えも、お前の知らないところで万全にしてある」
「外との連絡は、やはり難しいか」
「難しい。蜀軍もその対策はしっかりとしているようだな。大軍をもってこんな小城一つ落とせないくせに、嫌らしい軍だ」
蜀には山岳民族が多い。山岳民族を中心とした蜀軍の忍びの部隊は、昔から強かった。十一年前の定軍山でも、魏軍は蜀の忍びに散々苦しめられたのだ。
「お前の昔の同僚である王平とやらは、なかなか良い用兵をしているぞ」
王双は苦笑して見せるだけで、それについては何も答えなかった。
王平のことは、常に気にかかっていることだった。長い時が経ち、敵同士になったとはいえ、王平のことを憎んでいるわけではない。戦中でさえなければ、今すぐにでも会いに行っていただろう。王訓がどれほどの成長をしたのかも、伝えたかった。しかし、戦である。そういうことは、できるだけ考えないようにしていた。
「ところで王訓は、なかなかうまそうな尻をしていやがったぞ。この戦が終わったら、一晩貸せ」
「馬鹿なことをぬかすな」
王双は右腕を振り上げた。この男は、男色なのだ。捕えた敵兵を慰みものにすることもあるのだと、噂で聞いたことがある。郭奕は、冗談だ、とでも言う風に笑ってみせた。この男も、たまの気まぐれでこんな冗談を言う。
「王双様、敵が」
声が飛び、王双は城外に目をやった。暗闇の中で、たくさんの影が蠢き始めていた。
「鐘を鳴らせ」
王双が怒声を上げると、城内の全ての鐘が打ち鳴らされた。戦が始まってからの、初めての夜襲である。そろそろ夜もくるのではないかということは、郝昭とも話していたことであった。これからは恐らく、昼夜休むことなく攻めてくるだろう。あと半月。郝昭がそう言っていたのを、王双は思い出した。気が遠くなる程の時間だと思えた。郭奕の姿は、気付けば見えなくなっていた。
王の文字が、蜀軍の中の暗闇にはためいていた。負けるものか。王双は口の中で呟いた。盾を前にした蜀兵の大軍が、声を出し合いながら近づいてきている。それはまるで、もぞもぞと動く人ではない何かのように見えた。
防戦では、特に兵に対して何か口うるさく言うことはしなかった。ただ、人が一点に集中し過ぎないよう気をつけた。手薄になる所ができないようにし、兵には間断なく矢の雨を降らせた。
使い過ぎて壊れてしまう弩は少なくなかったが、城内には武器も、油も、兵糧も、まだまだ潤沢にあった。本当にこんなに必要なのかというほどの物量を、郝昭は運び込んでいたのだ。
昼夜間断無く攻められるようになってから、王双はほとんど眠っていなかった。それは郝昭や他の兵達も同じで、疲労で倒れる者もこれから出始めるだろう。
郝昭が予想している援軍到着日までもつかどうか、微妙なところであった。このまま倒れる者が増えれば、手薄となったところから破られてこの城は落ちるだろう。捕えられて殺されるくらいなら、戦って死ぬ。それは、ここにいる誰もが思っていることだった。
兵に力を出させるため、郝昭は普段の食事以外にも、希望する者がいれば、いつでも飯が食えるようにした。厨房では常に火が炊かれ、酒も自由に飲むことができた。そうなったからといって、城内の風紀が乱れるということはなかった。兵の一人一人が、ここを守ろうと心に決めている証であった。
厨房で働く者は、飯の椀を持って一休みしている兵に配って歩くこともあった。飯は空腹を満たすだけでなく、体を中から温めることもできるのだ。これで寒空の下で兵が体調を壊すということをかなり防ぐことができるだろう。こういうことにも気配りができる郝昭は、やはり名将であると思えた。
王訓が、木の板に飯の入った椀を乗せて兵に配っているのが見えた。ふと王双と目が会い、辞宜をした。それは他の兵達と同じ挙措だと思えた。
「あれは、誰が仕込んだのだ」
王双は昔の部下であった三人と腰を下ろして一息ついていた。何れも、長安の宿で共に酒を飲んだ者たちである。
「俺が、教えました」
王生が言った。
「さすがは王双殿の甥だ。まだ子供だってのに、一人の兵として扱われたがっていました。だから、こういう時はこうするのだと、教えてあげたんですよ」
「余計なことを」
そうは言ったが、王双の顔が笑っていたため、王生ら三人もにやにやとしていた。
「眠くなったりして戦うことが苦しくなった時、王訓の顔を思い出すんですよ。俺がここで倒れてしまえば、あいつも殺されてしまうんだって、自分に言い聞かせるんです」
「分かる。ああいう若い者のために戦っていると考えると、不思議と力が出る」
王双はそれを聞きながら、黙って一椀の酒を飲み干した。王訓が陳倉城に来た時はさすがに戸惑ったが、意外と悪いことではなかったのかもしれない。
王訓の父が、蜀軍の中にいる。王訓が陳倉城に来てから、これは誰かに伝えておくべきあと思い始めていた。自分が死ねば、それを知る者はこの世からいなくなってしまうのだ。それは、王訓から大事なものを奪ってしまうということではないか。
「お前らは、何も心配することはない。あいつのことなら、大丈夫だ。例え蜀の兵に捕えられたとしても、酷い目に合わされることはないだろう」
三人が顔をこちらに向けた。どの顔も、測りかねるという顔をしている。
「そりゃあ、王双殿の指揮でこの城を守っているんですから、大丈夫じゃないわけないですよね」
「いや、そういう意味じゃねえんだ」
言って王双は、座り直して三人に顔を近づけた。
「王訓の父親と俺は昔、同じ部隊にいた。父親の名は王平といい、王平が隊長で、俺がその副官だった」
突然の話に対し、三人は神妙な顔をさせた。
「俺達は十一年前、定軍山で蜀軍と戦い、敗れた。俺が左腕を失ったのはその時で、王平はそこで死んだと思っていた」
王双は目を瞑った。この三人に、自分の気持ちがどれくらい伝わるだろうかと考えた。瞼の向こうで、三人がこちらを見つめていた。自分の気持ちなど伝える必要などないのかもしれない。大事なことは、こいつらが王訓のことを知っておくということだ。王双はそう思い直し、目を開けた。
「その王平が、この戦場の敵陣にいるのだ。兵を率いて、王の旗を掲げ、この城を攻めている」
「そういうことでしたか」
「もし俺が死ねば、このことを知る者は誰もいなくなってしまう。だから、話しておこうと思った」
三人は驚いた様子もない。いや、心の中では何かを感じてくれているのだろう。軍人は、それを表に出さないものなのだ。
「俺はいざとなれば、王訓を父親の元に返そうと思う。それは俺の妹でもあった、死んだ王訓の母親の願いでもあるのだ」
「返すったって、どうするんですか。まさか王訓を連れて敵陣に乗り込むわけにはいきませんよね」
王双はそれに対しては何も答えず、静かに微笑んで見せた。ただ自分の片目は潰れているので、ちゃんと笑えているかどうか不安だった。