王平伝 4-13
日が暮れはじめていた。王平は追撃中止の命令出し、原野に張った幕舎の中で部下から報告を受けていた。
戦自体は快勝といっていい。兵の損失はほとんど出さず、敵五千を壊滅させることができたのだ。しかし王平は、次々に入ってくる報告に不満を感じていた。それは、趙広と劉敏から上げられてくるものに対してだ。
王平は全軍に兵糧をとらせる前に、趙広と劉敏の二人を自分の幕舎に来るよう伝えた。
天水城の付近では、諸葛亮が率いる蜀軍本隊が郭淮の一万五千を打ち破っていた。二万の歩兵が天水の南から攻め寄せ、夜陰に乗じて敵の後方に回った軽騎一万が挟撃をかけた。軽騎一万が敵後方に回れたのは、王平の一万が敵の退路を断とうという囮の動きを見せたからだ。漢中から一万を率いて戦場に向かったことが敵に知られなかったのは、漢中を敵の間諜の目から守る句扶の働きがあったからと言っていい。
渭水北岸にいた一万は羌軍の一万だと思い込まされていた郭淮は、見事に諸葛亮の策に嵌っていた。
五千の騎馬が先鋒として、天水城から迎撃に出た。そしてすぐに、歩兵の一万五千がそれに続いた。それが分かると王平はすぐに一万の足を止め、次の報告を待った。趙広が選んだ埋伏地が伝えられてくるのに、それほど時はかからなかった。東へ進んでいた王平の一万は、北へと急行した。そして一万を二つにわけ、片方の五千は劉敏に指揮させ予定された場所に埋伏した。
一万の大軍である。埋伏をしようと敵の斥候に知られてしまう危険はあったが、そうはならなかった。それほどに、敵は焦っていたのだ。
趙広の潜む隘路の地から、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。趙広からの合図である。王平は即座に兵を動かした。隘路の片方を塞ぎ、もう片方を劉敏が塞いだという報告を受けた時、まだ敵は混乱を収束しきれずにいた。
詳しくは聞かされていなかったが、趙広が何か奇策をもっていたようだ。その効果はてきめんだったのだろう。あとは隘路から逃げようとする魏軍を討ち果たす、簡単な仕事だった。
王平は少し高くなった丘に陣取り、全体の戦況を見渡した。昔から遠目は利くので、隘路の混乱はそこからでもよく見えた。
戴の旗の下に、百数十が集まろうとしていた。あれが騎馬五千を率いる、戴陵という将であろう。他にも混乱の中でまとまろうとする集団が幾つかあったが、それは趙広が上手く散らしていた。
戴陵がまとめとうとしている集団の近くに、二つの陰が現れた。趙広が戴陵の首を狙っていることがはっきりとわかった。
馬鹿が。王平は床几に腰を下ろしながら呟いた。直接攻撃をかけなくても、こちらに追い込んでくるだけでいいのだ。
戴陵は趙広を振り切り、二百ほどを小さくまとめて駆けだした。そして隘路の出口に待ち構えた戟の壁に突っ込み、消えていった。
「入ります」
王平が卓の上で目を閉じながら今日の戦を振り返っていると、趙広と劉敏が肩を並べて入ってきた。その顔には、勝ったという気持ちが浮かんでいる。それが、王平には気に喰わなかった。
「二人とも、損害の報告をしろ」
「もう、部下にさせたはずですが」
言った劉敏を、王平は張り倒した。
「死者が五十六名、負傷者が二百十一名で、計二百六十七の損害でした」
張り倒された劉敏が、素早く直立しながら言った。損害は、敵が血路を開こうと突っ込んできた時に出たのがほとんどだったという。血路を開いたのは、あの夏侯覇だ。
「あれだけ優勢な状況で、それだけの損害を出し、しかも敵将を逃したか」
言われて、劉敏はうなだれた。片方の隘路を担った王平の五千からは、いささかの負傷兵を出したが、死者は三名しか出していない。夏侯覇の逆落としが強烈だったのだろうが、地形をよく見ていればそれに対する備えはできたはずだ。劉敏もそれがわかっているのか、ただ黙ってうなだれている。
「次、趙広」
言われた趙広の目が、一瞬泳いだ。
「死者、九名。負傷者、五名。計十四名です」
口籠り気味の趙広の頬を、王平は張った。さすがに、劉敏のように倒れはしない。
「死者が九。負傷者が七。計十六。お前からの伝令は、そう言っていた。違うか」
「申し訳ありません」
趙広が小さく、呟くようにして言った。
「死者の九名は、敵の大将を討とうとした時だな。二人もそこで負傷している。この十一名は、損害となる必要はあったのか」
「討てる機だと見ました。討てるのなら、少しの損害は仕方の無いことだと思います」
言った趙広の頬を、また張った。
「しかし、討てなかった。お前は無駄に部下を殺したのだ。初めから、敵の大将は俺の方に追い込んでおけばよかったのだ」
「はい」
そこで初めて趙広は俯いた。目にはまだ、不満の色が残っている。
「勝ったなどと浮かれるな。何が駄目であったか、帰ってよく考えるんだ。まだまだ、戦は続くのだからな」
言うと、二人は退出していった。そこで初めて、兵に兵糧を摂らせろという指示を出した。
王平は卓に着き、部下を呼んで諸葛亮に宛てる報告書を作り始めた。王平は字が読めないので、口頭で言ったことを部下が書いていく。鹵獲した馬は、二千を超えている。趙広と劉敏の二人を叱りはしたが、数字だけ見るとその損害は大したものではない。大勝と言っていいと思えた。
自分は苛ついているのかもしれない。いや、実際に苛ついているのだろう。漢中に残してきた難しいことがそうさせているのだろうと、報告書を作りながらぼんやりと思った。
明早朝は、日の出と共に進発である。難しいことが待っている漢中に帰らなければならない。それを思うと、王平の気は重くなった。
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