王平伝 9-4
楊儀が屋敷から姿を消していた。手の者に調べさせると、李厳と会った日の翌朝に蔣琬の部下がやってきて、そのままどこかに連れて行かれたのだという。それ以上のことを楊儀の屋敷にいる者から聞き出そうとしても、固く口を閉ざしている。
蔣琬下ろしの画策は密かに進められていると黄皓から聞かされていたが、政庁での権力争いは思っていたより大きなものになっているのかもしれない。そう思っても、成都の郊外に平民として暮らしている李厳には、全てのことはわからない。
楊儀が連行される前夜に、費禕が楊儀の屋敷を訪ねていたことがわかった。その費禕は、連行されることなく普通に過ごしていた。やはり費禕は、始めから蔣琬派として動いていたのかもしれない。
捕らえられた楊儀のことはもうどうでもいい。政権転覆を狙っていたことが発覚し、自分もそれに加担していたことを知られれば、いつ蚩尤軍を差し向けられるかわからない。身を守るためには成都から離れ雲隠れしてしまうのが一番だが、それはできない。大赦が控えているのだ。大赦が為された時にどこにも姿が無いとなれば、蜀の高官として復帰することができなくなる。
黄皓に大赦を急げと督促したが、もう少し待てという返事が来るばかりだった。重臣である来敏と董允が大赦に反対して、議論を重ねているのだという。宦官など当てにするものではないが、平民から脱するには黄皓を頼らざるを得ないのだ。
黄皓から渡された銭で、肉と女を買った。人を雇って情報を収集するための銭だったが、蚩尤軍に監視されている可能性がある今は、手の者を動かすべきではない。欲に耽ることで蔣琬の目を誤魔化し、大赦を待つための時間稼ぎに注力すべきだ。いくら蔣琬でも、何の罪もない堕落した毎日を送る一人の平民を、敢えて殺すことはしないだろう。
使っていた三人の手の者に情報収集を止めさせ、使いとして市場に肉と女を買いに行かせ、噂話があれば耳に入れるよう命じた。黄皓から銭と一緒に送られてくる麻を吸い、安い肉と大して美しくもない女で日を過ごした。
李厳を捕縛しようという者が家にやってくることはなかった。このまま自堕落に過ごして大赦を待つだけでいい。もし金と麻の出どころを聞かれることがあれば、江州の息子からの仕送りだと答えればいい。それで何の問題もない。
楊儀が連行されてから十日が過ぎた。その間に楊儀からの連絡はない。李厳はさすがに気になってきて、手の者にそれを調べてくるよう命じた。
「楊儀殿は、漢嘉郡に流されるようです」
流刑とはただごとではなかった。やはり蔣琬は裏で楊儀が何をしていたか知っていたのだ。その余波が自分のところにも来そうなものだが、何の音沙汰もないのが逆に不気味だった。
「罪状は何だと言っていた」
「そこまでは探れていません。これ以上探れば、確実に怪しまれます」
「そうかい」
使えない、という言葉を李厳は飲みこんだ。怪しまれないようにやれと言ったのは自分なのだ。
「もう一つ、噂話があります。楊儀殿が流刑になったのと同時に、李厳という人が処断されたのだと」
「なに、李厳だと」
ここでの自分の名は李平だった。この手の者は、目の前にいるのが本物の李厳だということを知らない。何か空恐ろしいものを感じ、李厳はそれ以上のことを聞けなかった。不安になると、体が肉と女を欲し始めた。
「いつものように、市場に行って肉と女を買ってこい。他に余計なことはするなよ」
言って手の者にいつもより少ない銭を支払った。満足な情報でなければ、こうして銭の量でそれを伝えた。李厳が背を向け横になると、手の者は静かにそこから出て行った。
それにしても、李厳が処断されたとはどういうことなのか。誰か別の者と間違えて噂が広がっているのかもしれない。そうだとしたら、処断されたのは費禕かもしれない。費禕が蔣琬派でなく本当に楊儀に加担していたとすれば、それは考えられることだ。
虫が家の周りで鳴き始めた。夜になっても、市場に行かせた手の者は帰ってこなかった。少ない報酬に腹を立てたのだろうか。だが気にすることはない。人を使っていれば、こういうことは少なくない。銭はあるのだから他の者を雇えばいいだけのことだ。
麻を吸って眠り、朝を迎えた。使用人の老婆に聞いたが、やはり手の者は戻っていなかった。それは忘れることにして、老婆に肉を焼かせて麻を吸った。大赦が為されるまでは、新しい者は雇わず、こうして静かにしておけばいい。
麻を吸い、肉を喰らって夜を迎えた。女も欲しかったが、それは我慢した。眠った。眠ったとわかったのは、目が覚めたからだ。それも轡をされて手足が縛られ、暗いものに詰められたまま何かに揺られている。暗い中で揺られながら、誰が自分を拉致するのかと考えた。話の通じない金目当ての賊ならまずい。蚩尤軍なら、話が通じるという点でまだ希望が持てる。
やがて揺れが止まり、土の上に放り出されて轡が解かれた。周りには岩と草しかなく、そこを照らす月明かりを背に眼帯をした男が立っていた。
「こんなことをして何だというのだ、句扶」
蚩尤軍であったことにとりあえず安堵した。
「李厳殿の手を貰います」
突飛なことを言って心を乱そうとしている。李厳はそう思い、口車に乗せられないよう、間を置いて言葉を選んだ。家の周りと同じ虫の音が響いていた。
「俺の手で何をしようというのだ」
「黄皓に送り付けるのです。それで、あの鼠は静かになります」
句扶の部下が手枷を解いた。そして腕に、刃が当てられた。
「わかった、句扶。俺と黄皓が繋がっていたことは認める。だから」
刃が振り下ろされた。自分の左手が別の物のように体から離れ、李厳は絶叫した。
「残念です、李厳殿。李厳は処断されたという噂を聞いた時に、成都から抜け出しておくべきでした」
「確かに俺の手の者がそう言っていた。あれはお前が吹き込んだのか」
ということは、魏延がただの猟師だったと言っていたのも、句扶の差し金だったということか。楊儀が言っていたように、拷問をしてでも聞き出しておくべきだった。それをしなかったため、こんな目に会うことになってしまった。
「軍の兵糧を止めたり、黄皓や楊儀と組んで国を乱そうとしたり、あなたはどうしようもない人だ。言葉で言ってわからないのなら、消えてもらうしかありませんな」
句扶が短い剣を懐から取り出した。このままでは殺されてしまう。今はそれを回避する方法を考えるべきだった。
「大赦が近いのか。だから、俺を殺そうというのか」
「そうです」
句扶はあっさりと答えた。
「殺すことはない。俺のこの右手もくれてやる。そうなれば、大赦で許されても高官に復帰することはできなくなる」
句扶の細い右目が見つめてきた。その隣の眼帯が、きらりと月の光を照り返してきた。
「そこまでして生き長らえたいか」
「そうだ。悪いか」
せめて大赦までは死ねない。腕を失ってでも、命まで失うわけにはいかない。
「だめだ、ここで死ね」
「そんな」
「そこまでして生き延びようとしてどうする。欲に耽り、尊厳まで捨てて生きるだけなら、獣と同じではないか」
「お前の考え方と、俺の考え方は違うのだ」
句扶が右手を上げ、強かに下ろした。それで李厳の右手も切り落とされた。痛みで転げそうになったが、句扶の部下に体を押さえつけられた。
「これでもまだ、生きたいと思うか」
「生きたい」
痛みは、いずれ収まる。血も止まる。そして大赦が為されれば、息子のいる江州に行って庇護してもらえばいい。
「ならば草と岩しかないここで、一人で生き延びてみろ」
体が解放された。そして蚩尤軍が姿を消した。殺されはしなかったが、助かったと思ったのは束の間だった。両腕から血が流れ続けている。止血をしようにも、腕がないためできなかった。口で止めようと思ったが、口は一つしかない。李厳は立ち上がった。草と岩しかないこの場にいても仕方がないと思い、走った。血を失っているためかすぐに息が切れ、足がもつれて転んでしまい、反射的に腕の傷口で体を庇った。気を失いそうなくらいの激痛が走り、転げ回った。
句扶を前にしても、腕を落とされても、どこかで自分は死なないと思っていた。何も無い地で独りになり、初めて死を意識した。その死は、もう間近に迫っていた。何故ここまで迫るまで、気付くことができなかったのか。
もう何もできないと思い、李厳は仰向けになった。目からも血が流れていた。いや、これは涙か。
鳥の鳴き声が近づいてきた。死ねば、あの鳥に食われてしまうのだろうと何となく思った。李厳は句扶の名を呼び、子供のように謝った。何度も叫んで謝ったが、誰からの返事もなかった。月との間に吹く風が、一段と寒くなってきた。
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