王平伝 8-13

 漢中で五日過ごした。

 戦を終えたばかりでゆっくりとしたいところだったが、王平は報告のため成都へと行かなければならなかった。王平軍の参謀である劉敏は、既に本隊と共に成都に向かっている。

 遠征から帰ってきた漢中軍の配置と調練は杜棋に任せ、王平は供もつけずに漢中の街を出た。旅装は特別なものでなく、普通の旅人にしか見えないものを身に着けた。

 目立たない格好で発ったのにはわけがあった。王平は街道をしばらく行き、人目のつかなくなったところで道をはずれ、樹木が生い茂る山中へと入って進んだ。

 山に迎え入れられるように、金属を打つ微かな音が聞こえてきた。

 そして頭上から黒い影が落ちてきた。

「普通に声をかけろ、句扶」

 身を起こした句扶がにやりと笑っていた。

「言われていた通りにしておきました、兄者」

「悪いな。嫌いな男のために働かせてしまって」

「嫌いなのではありません。少し合わなかったというだけです。これから我らとは関係のない所で生きていくというのなら、どういう感情も湧きません」

 半日程、黒蜘蛛のいない平和な山中を、句扶と気楽に言葉を交わしながら進んだ。

「あそこです」

 少し開けた日当たりの良い場所に出た。そこには小さな幕舎が一つ張られていて、その周りには鹿の腿や蛇の皮を剥いたものが吊るして干されてあった。二人の気配を察したのか、中から男が出てきた。

「新しい住処の居心地はどうですか、魏延殿」

「悪くはない。ここには楊儀のような者はいないからな。一人きりで少し寂しいという気はするが」

 魏延が二人を幕舎の中に請じ入れた。具足は着けていないが、幕舎の中にはまだ少し戦の匂いが残っているという気がした。

「俺が生きていることは、ばれていないだろうな」

「大丈夫です。魏延殿は死んだことになっています」

「そうか、死んでいるか」

 言って魏延は大笑した。

「俺は運が良い。散々に戦って、最後は楊儀に負けてしまったが、その末にこんな良い地を得ることができたのだからな」

「こんな所で不自由はあると思いますが」

「そんなことはお前の心配することではないぞ、王平。人には、多少の不自由があった方が幸福なのだ。不自由なものを消そうとするから争いが起きる。楊儀にとっての俺は、間違いなく不自由だった」

「しがらみが無いということは、良いことだと思います」

「しがらみが不自由と言っているのではない。軍にいた時の俺とお前の間にも、少なからずしがらみはあった。だがそれは俺と楊儀の関係とは質の違うものだったはずだ」

「確かに」

「おかしなものに対しては、おかしいと言わねばならん。それは男の仕事だ。そう言われることを不自由だと言って遠ざけて、おかしなものがまかり通るようになればどうなる。おかしなものが世に常態化し、男がそのおかしなものと戦うことを止めれば、その世は生きにくいものになってしまうだろう」

「蜀は既に生きにくい世になってしまっていますか?」

「お前らや、蔣琬や費禕が戦わなければそうなるだろう。負けてここに追い込まれた俺が偉そうに言えることではないが」

「魏延殿は戦われていました。そのせいで憎まれていました。しかしそういう人間が必要だというのはわかります」

「それが戦うということだ。楊儀のような男は、俺のことを感情的で怒りっぽい奴だと思っていたことだろう。そう思われるのにも耐えなければならん。それには何の得もないのだ。しかし誰かがその得の無い戦いをしなければならん。蜀という囲いを抜けたからこそ言えることなのだが」

 難しい話のようだが、よくわかった。馬謖には嫌な思いをさせられた。楊儀とは険悪にはならなかったが、やはり嫌な思いはしてきた。

「嫌な思いは我慢すべきだと思っていました。しかし我慢することでおかしくなってしまうものもあるのだと、今はわかります。魏との戦に負け、その敗因を考えることで、それがわかるようになりました」

「誰かが言っていることがおかしなことだとわかっていても、得なことがなければ我慢する。それが人というものだ。我慢を解いて戦おうとすれば、こいつは我慢のできない者だと言われて馬鹿にされるからな。しかしそれは、我慢のできない幼い奴だと非難しているのではなく、自分の我儘を通そうとするためにそう言っているのだ。それでも男は戦う気概を捨ててはならん。句扶なんかはそれがよくわかっているのではないか」

「私は、自分の好きなようにやっているだけです」

 句扶が顔を俯かせた。嫌そうな顔はしていない。唐突に褒められ、むず痒く思っているのだろう。

「戦え、王平。男は戦わなければならんのだ。それで負けたら、お前もここで暮らせばいい」

「それは良いという気がします。ところで、一つお願いがあるのですが」

「なんだ」

「蔣斌をここに連れてきたいのです。あいつはこのままでは駄目になってしまいます。一度、俗世から離してこういう所に住まわせてみればと思うのです」

「それはいいな。しかし高官の息子だとなれば問題ではないか。俺は罪人として死んだことになっているのだからな」

「私と句扶だけで話し合ったことなのでまだはっきりとは言えませんが、蔣琬なら理解してくれるはずです」

 まだ物事の道理がわからない若者を、蔣琬の長子だからという理由だけで戦をさせてしまった。もっと育てるべきだった。いや、育ててきたが、育て方に間違いがあったのだと今にして思う。それで戦中に罪を犯したからといって、蔣斌だけに責めを負わせるわけにはいかない。劉敏も、蔣斌には過度に期待してしまったと後悔していた。蔣斌はただそれに応えようとしてきただけだった。しかし誰かの期待に応えようというのは、言い換えてしまえば、誰かに甘えているということなのだ。劉敏は厳しく接することで、蔣斌に従順さという甘えを強要してきた。その甘えを先ず消してやるべきだったのだ。

「あのままだと、蔣斌もつまらない文官になってしまうという気がします」

「ならここに連れてくればいい。飯を調達して喰らい、糞をして寝る。全て自分の力だけでやる。それは大変なことだが、楽しいことだ。そして大事なことでもある」

「私もそう思います。今の蔣斌にとって必要なことであると」

 それからしばらく北での戦の話をし、王平と句扶はそこを後にした。帰り際に、兵糧用の乾飯を少し置いていった。最高にまずくて美味いものだと言って、魏延は喜んでくれた。

 寄り道をした分、急いで南に馬を走らせ成都に向かった。沿道の田畑で男たちが野良仕事をしているのが見えた。北の戦場に兵として行った者もこの中に少なくないのだろう。皆が、生き生きとして働いていた。

 成都に到着した。ここにも自分の屋敷があるが、帰ってきたという気持ちはない。自分の住処は漢中にある。成都の小さな屋敷は、王訓が数人の使用人と共に使っているはずだ。

 政庁に上り、蔣琬に面会を求めた。待たされるかと思ったが、すぐに迎えがきた。迎えに来たのは王訓だった。

「大義でございました、句扶様、王平将軍」

「王平将軍だと。父上と呼べ」

 句扶が言った。言われて王訓は怯み、父上と言い直した。威圧的に言ったわけではないが、王訓は句扶を畏れているところがあった。

「大きくなった。歳は十六になったか」

「蔣琬様の下で色々と学んでおります」

「十六といえば、お前の御父上が山岳部隊に入った頃だ。お前は戦の無い場所でひ弱になっていないだろうな」

「私も戦っていたのです、句扶様。その戦いがなければ、前線の兵は腹を空かせていました」

「ふん、口だけは達者になったようだな」

 王訓はそれに苦笑で返した。

 王双が目の前で死に、心を壊しかけた王訓を立ち直らせたのが、句扶だった。それで王訓は頭が上がらないのだ。

 王訓と句扶がまだ言い合っている。句扶はそれで間を持たせてくれているのだろうが、それには甘えることにした。そして王双のことを思い出した。王双につけられた額の傷が痛むことはもうなくなっていた。男は戦い続けるべきだと魏延は言っていたが、王双は間違いなく戦っていた。王訓を自分の所に届けてくれた。そこには、王双の欲を満たすための得は何もなかったはずだ。しかしやり遂げ、死んでいった。その王双の首を落としたのは自分だった。趙統がやろうとしていたのに割って入り、首を落としたのだ。何故自分で、と聞かれても上手く答えられそうもない。ただあの時は、自分がすべきだと思ったのだ。それを見た王訓は、父である自分を激しく憎んだ。

「あの、父上」

 何度か呼ばれたのに気付き、王平ははっとなった。

「何を考えておられました」

「これからの漢中の防衛についてだ」

 王双のことだと言えず、王平は誤魔化した。

「それで、何だ」

「蔣斌殿のことですが、戦場から戻ってからずっと塞ぎ込んでいます。会いに行って何があったのかと聞いても何も喋ってくれません」

「蔣斌は塞ぎ込んできるか。それには考えがあるから、俺に任せておけ」

「私には何もしてくれなかったのにですか」

「王訓、その口を捩じ切ってやろうか」

 句扶が言い、王訓が俯いた。王平はただ鼻白んだ。

 丞相府の蔣琬がいる執務室に二人で入った。蔣琬から労いの言葉がかけられ、茶が出された。

「申し訳ありません、蔣琬様。力及ばず、敗戦となってしまいました」

「何だその言葉遣いは、王平。つまらんことは気にせず、昔のままでいいのだ」

「一国の宰相となった。少しは気にするだろう」

「大勢の前では、悪いがそうしてくれ。こういう場では昔のままでいい。むしろそうしてくれ」

「わかったよ」

 王平は微笑んだ。

 それからしばらく、北伐のことと、これからの蜀がどうなるかについて話した。王平は今まで通り、北の要として漢中軍を率いる。少し違うのは、軍政を担当するのに呉懿という老いた軍人が漢中に赴任し、王平はその下で軍を率いるのだという。軍政なら劉敏にやらせればいいと王平は言ったが、どうも人事はそう簡単に決められるものではないらしい。

「楊儀殿はどうなる」

 王平は敢えて聞いてみた。蔣琬は察しているようだった。

「成都の軍を三つに分ける。楊儀殿にはその第二軍の軍師をやってもらうことにした」

「軍の力を利用されないか」

「楊儀殿の上には指揮官として鄧芝殿が就く。間違いはおこらないはずだ」

 悪くいない、と王平は思った。まだ若い頃に、鄧芝には世話になったことがある。反逆などとはほど遠い人物だ。

「さぞ文句を言われていることだろう」

「文句を言われるだけならいいんだがな」

「魏延殿は言っていたよ。戦うとは、ああいう者の言葉に屈しないことだと」

「費禕も同じことを言っていた。同じことを考えているのだな。最前線に行っていたお前らが羨ましいという気がするよ」

「その魏延殿のことだが、お前に言っておかなければならんことがある。ここだけの話だ」

 言って王平が前に屈むと、蔣琬も額を寄せてきた。

「何だ」

「魏延殿は死んではいない。死んだと見せかけて、山中に逃した」

「なんと」

「だが心配はするな。魏延殿はもう山から下りてこない。死んだことにしておけばいい」

「魏延殿が死んだのは忍びないと思っていた。しかし、死んだことにしておけばいいのなら、何故わざわざ俺に言った」

「蔣斌のことがあるからだ」

 蔣琬は顔をしかめた。塞ぎ込む息子に何かしてやりたいが、何もできずにいるのだろう。

「あれと魏延殿に、何の関係があるのだ」

「蔣斌を魏延殿に預けてみないか。俺はそれが一番いいと思う」

 蔣琬が難しい顔をしながら腕を組んだ。死んだはずの謀反人に一国の宰相が子を預けるとなれば、悩まないはずがない。

「他に良い手はないのだろう」

「楊儀殿が、蔣斌の罪を俺に向けようと画策している。それに宦官の勢力が同調しようとしているのだ」

「文句を言うだけではないとはそのことか。なら尚更丁度良いではないか。自分の長子を庶民に落とすことで、自分の公平さを世に示してやればいい。李厳は命令違反を犯すことで庶民に落とされたのだからな」

「そう簡単に言うがな」

「落としたら、後は任せてくれればいいのだ。俺は王訓のことで、お前に感謝しているよ」

 王平は蔣琬をじっと見つめた。蔣琬が先に耐えられなくなり目を逸らした。

「父である俺が、蔣斌を庶民に落とすのか」

「一時だけだ。お前の気持ちは、俺の口から蔣斌に伝える。多少の苦しみはあるだろうが、それで蔣斌は今よりずっと成長する」

「少し考えさせてくれ」

 蔣琬が頭を抱えていた。

 王平は屋敷に戻り、休みを貰った王訓と過ごした。その間、句扶は政庁を守る蔣琬の手の者と何か話し合っていたようだ。

 三日して、蔣琬が蔣斌を放逐することを決定したと伝えてきた。王訓はそれに強く反発したが、句扶に一喝されて黙った。

 漢中に戻るため、来た時と同じように変装をして供も付けずに成都の城郭を出た。また人目を忍んだのは、蔣斌と合流するためだ。

 五里程行くと、粗末なものを着た蔣斌が句扶の手の者と待っていた。蔣斌はかなり気を落としているように見えた。父から捨てられたと思っているのだ。

「王平様」

 何も聞かされていなかったのか、変装を解いた王平を見て蔣斌が驚いていた。

「行くぞ、蔣斌」

「行くってどこへ。私は庶民に落とされたんですよ」

「いいから黙ってついてこい。それから一つ言っておく。お前の父は、お前のことを捨てていない。だから俺がここにいる」

「しかし」

 まだ何か言いたそうだったが王平は無視して先に進んだ。蔣斌は後ろからついてきている。句扶が王訓にしたことを、今度は自分がするのだ。

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