王平伝 5-17

 五百の部隊が帰ってきた。郭淮は見廻りの最中、馬上にあってその五百を眺めていた。皆が、穏やかな顔で談笑しながら歩いている。

 これと入れ替わりで出した人数は、七百である。人数が増えているのは、後方にある軍市の規模が大きくなっているからだ。

 妙な戦になってきた、と郭淮は思っていた。何日もかけ、長安から西へ八百里の天水まで来たというのに、まだ蜀軍とは一度も干戈を交えていない。互いに陣地に籠り、睨み合っているというだけなのだ。

 いたずらにこちらから攻めかけるのは不利だということは分かる。しかし、軍の姿がこれでいいのか。調練としての駆け足は毎日しているものの、兵はほとんど何もしなくても銭がもらえ、軍市で遊ぶことができるのだ。こんなことで、いざ蜀軍が攻めてきたら、戦になるのか。

 郭淮はこの軍での歩兵総指揮官を任じられていたが、その仕事に華やかさなどなく、ただ嫌な役目を押し付けられただけだと思っていた。この軍市のせいで、軍紀が目に見えて乱れつつあり、郭淮はそれを正すことだけに奔走していた。陣内には、具足姿のまま地べたに座って賭博をしている者もいれば、見張り中に立ち小便をしている者もいる。

 近くで怒声が聞こえた。ふと見ると、歩兵隊長の一人である魏平が、すごい剣幕で座談をしていた兵らを追い散らしていた。

「御苦労、魏平」

 気付いた魏平が気を取り直し、こちらに拱手してきた。

「これは郭淮殿。お恥ずかしいところをお見せしました」

「なんの。今の軍内は、どこも同じようなものよ。お互い骨の折れることだな」

「全くです。遊ぶばかりで戦もせず、これでは兵の士気が落ちるばかりです。総指揮官の司馬懿殿は、何を考えているのか」

 魏平はかなり苛ついているようだった。無理もない。戦をするのが軍人の仕事だというのに、実際は兵らの風紀を正すための見廻りばかりをさせられているのだ。蜀の大軍がすぐ目前に陣取っているという緊張感も、その苛つきを助長させているのかもしれない。

「いつまでも見廻りばかり。全く我らは、何をしにここに来ているのか分かりません」

「愚痴ったところで仕方あるまい。魏平も、気晴らしに軍市に行ってみたらどうだ。見廻りくらいなら、部下に任せていてもいいだろう」

「郭淮殿までそう言われるのですか。俺は、あんな所には行きません。俺は戦をするためにここにいるのですから」

 軍市に行かないのは、戦をしようとしない司馬懿への反感もあるのだろう。文官である司馬懿から施しを受けるようで、軍市を使うのに抵抗があるという、魏平のような武官は少なくない。戦を知らない文官が、という侮蔑のような思いが、どの武官にも少なからずあるのだ。

 軍市から帰ってきた兵の一団が、またやってきた。端々に女の話をする声が聞こえたが、二人の姿を認めるとさすがに静かになって通り過ぎて行った。その間ずっと、魏平は腕を組んだままじっと兵らの方を睨みつけていた。

「これはもう、軍ではない。大所帯で道楽の旅に来ているようなものだ」

 魏平が吐き捨てるようにして言った。

「郭淮殿は、あの軍市には行かれましたか」

「まさか。あれに反感を持っている部下がいるというのに、俺が率先して行くはずがないだろう」

「それはそうだ。愚問でありました」

 軍規が緩むのはいただけないが、何かのきっかけがあれば行ってみてもいいかと思ったりはする。それは歩兵の総隊長として口に出しては言えないことだ。

これだけの大軍同士が対峙し膠着してしまうと、そうそう簡単にぶつかり合いが起こるということはない。こうして対峙が続けば、兵のぶつかり合いというよりも、互いの指揮官の謀略による知恵比べになってくるはずだった。司馬懿は兵の先頭に立って野戦をするような指揮官ではないが、知恵比べの勝負となると、張郃も含めた全ての武官よりも優秀だという気がする。そういう形の戦になれば、自分はここで昼寝でもしていればいいのだ。

「蜀軍の本陣がある祁山は、俺がいた場所なんです。俺があそこを守っていたというのに、蜀軍が来るなり退がってこいと言ったのは、あの新司令官なんですよ」

「その言い方は不敬だぞ。口を慎め」

 言われて魏平は嫌な顔をしながらも、頭を下げた。

 この戦が始まる前まで、魏平は祁山にあって武都に駐屯する蜀軍の監視をしていたのだ。それが蜀軍の侵攻が確定的になると、すぐにそこから立ち退くように命じられたのだった。命じたのは、司馬懿である。

 八万の軍勢が展開するには、天水の周辺が守り易く、補給のことを考えても適当だった。祁山にまで兵を置くとなると、そこだけが突出し過ぎる形になってしまうのだ。戦を前にして兵を後退させるのは決して縁起の良いことではないが、司馬懿がそれを躊躇した気配はない。なかなかの英断だ、と郭淮は密かに思っていた。魏平はそれを理解しているのかいないのか、ただ自分が後退させられたということに対して感情的になっているようだった。

 そうして話していると、伝令がやってきた。司馬懿からの使者で、本営に来いという。

 魏平と二人して本営の幕舎に行くと、他の所で歩兵を指揮している費瑶もそこに呼ばれていた。

 三人で幕舎の中に入ると、司馬懿の補佐をしている辛毗が現れ、目の前に座った。

「各々方、陣内の様子はいかがでしょうか」

 座った三人を前にして、辛毗が下手に出ながら言った。文官のこういう態度は、魏平のような男が一番嫌うところであろう。

「どうもこうも、戦がなければ士気が落ちるばかりです。蜀軍が陣取るあの祁山には、いつ攻め込むのですか」

 魏平が意気盛んに言った。

「あそこを守っていた魏平殿のお気持ちは分かりますが、祁山に攻め込む予定は今のところありません」

 下手に出ながらも、辛毗はきっぱりとした口調で言った。魏平は、あからさまに不満な顔をして見せている。

まだ何か言いたそうにする魏平を抑えるようにして、郭淮は口を開いた。

「守ることが上策なのはわかりますが、このままでは兵の士気は緩んだままです。このことについて、司令官はどうお考えなのですか」

「戦に逸ってもらわれては困るのです。八万の軍勢でここを守っていれば、蜀軍は動けません。これは、こちらの諜報による情報からも確かです。多少兵の士気が緩んでも、この形成を維持することが、総指揮官の今のところの方針です」

「戦に逸る者を上手くたしなめ、その上で士気をある程度維持させておくというのが、当面の我らの仕事だということですな」

 費瑶が言った。費瑶は、魏平ほどに今の状態に不満を持っていないようだ。辛毗はその言葉に深く頷いた。

「今はまだ動きません。しかし、司令官はこちらから攻める作戦を考案中です。まだ詳しくは明かせませんが、その時は張郃殿の騎馬隊に働いてもらうことになるだろう、ということだけ言っておきます。その作戦の如何により、歩兵を率いるあなた方にも働いてもらうということになるでしょう」

 俯いて話を聞いていた魏平が、ちらりと辛毗に目を向けた。

「軍人が戦をできないということに不満を持つのは、当然のことです。しかしそれも、今だけのこと。今しばらく、お堪えください」

「わかりました」

 魏平が呟くようにして言った。攻めの作戦を考えていると聞いて、一応納得したのだろう。

「それまでの間、これを暇潰しの慰めにでもお使いください」

 三人の前に、銀の袋が置かれた。魏平がそれを見て、身を乗り出した。

「これは受け取れません。我々はまだ、軍人として働いてもいないのですぞ」

「この陣地を守っておいでです。蜀軍がこれ以上進めずにいるのは、あなた方の働きのおかげなのです」

「しかし」

 辛毗がさらに銀の袋を押し出し、費瑶が恭しく銀の袋を懐に入れたので、郭淮も同じようにした。それを見て、魏平も渋々という感じでそれを受け取った。

「私からの話はこれまでです。歩兵の総指揮をしておられる郭淮殿はお残りください。司令官から話があるそうです」

 二人が出ていき、郭淮だけがそこに残った。そして辛毗に導かれ、奥に連なる大きな幕舎に入った。

「おう、郭淮。まあ座れ」

 言い草に少し不快なものを感じたが、促されるまま郭淮は腰をおろした。本当なら、ここには張郃が座っていることになっていたのだろう。それをどういう術を使ったのか、この男がここに座っていた。この言い草が張郃なら、不快なものなど全くなかったはずだ。

「お前には、やってもらいたい任務がある。ここから西に向かい、羌族どもを懐柔してもらいたい」

 郭淮は長らく長安に勤め、羌との関わりがあった。西へ行けば、自分の顔を知っている主立った者は少なくない。

「羌と蜀の結び付きは、まだ続いているのですか」

「同盟と言えるような強いものはない。戦ばかりして散財している蜀には、羌に払ってやれるだけのものがないのだ。しかし不測の事態は避けねばならん。こちらから多少の財物をくれてやれば、羌が我らに敵対する理由はなくなるだろう」

 不測の事態と言われたことが、少し引っ掛かった。二年前の戦で、郭淮は蜀軍に散々蹴散らされたのだった。その時の敗因は、羌の動きをきちんと把握しておかなかったからだと言っていい。引っ掛かりはしたが、皮肉を言っているような響きはなかったので、郭淮はそれを自分の中で押し殺した。

「では、明朝に発とうと思います」

「そうしてくれ。援軍を乞うようなことはしなくていい。羌中で静謐を保っておくだけで、それなりの物が手に入ると思わせてくれれば、それで十分だ」

「武都に蜀軍の大々的な拠点を築かせてしまったのは、私の責任ですからね。使者として行きますが、戦に臨むつもりで行きます」

 司馬懿はそれに何も答えず、ただ虚無的な笑みを見せただけだった。

 郭淮は自分の陣地に戻ると、張郃に護衛の騎馬小隊を出してもらうよう、使者を出した。快諾の旨は、すぐに返ってきた。

 そうしている内に、日が暮れた。

 魏平からの申し合わせがあり、夕餉は郭淮の幕舎で、費瑶と三人でとることにした。

「司令官には何を言われたのですか、郭淮殿」

 饅頭と羊肉を焼いたものが並べられた卓を前にして、魏平が言った。軍市が近くにあるので、多少良いものが食えるのだ。

「西に行ってくることになった。羌族がこの戦に介入してきたらややこしいことになるこらな。それに手を打っておこうということだ」

「郭淮殿は、羌に顔が広いですからね」

 少し塩を付けた肉片を口に放り込みながら、魏平が言った。まだわだかまりのような不満はあるようだ。

「お前ら、貰った銀は何に使うんだ。司馬懿殿が期待しているように、軍市に行くのか」

「私らは、軍市で羊を一頭買うことにしました。それを陣内で丸焼きにして、兵に食わせ力を付けさせようかと」

 費瑶が言った。

「それはいいいな。俺もそうするか」

「こんな良いものを食えるのは、平時だけでいいんですよ。戦時は質素なものを食うから、敵に打ち勝って良いものを奪おうとする。兵ってのは、そうやって力を出すもんでしょう。それを、あの司令官は全くわかっちゃいない」

「そういうお前も、兵に肉を食わせてやるのだろう」

「他の隊が良い思いをして、俺の隊だけそうじゃないっていうんじゃ、兵が不満を持ってしまいますからね。俺ら将校にそういう気を遣わせるってのは、やはりあの文官が戦を知らないっていう証だ」

「口が過ぎるぞ、魏平。どこで誰が聞いているのかわからんというのに」

 費瑶がたしなめるようにして言った。

「前の蜀攻めで、あの文官は蜀軍に散々負けたっていう話じゃないか。張郃殿が司令官の方がよかったって、俺は本気で思うよ」

「そのへんにしておけ、魏平」

 郭淮が強めに言うと、魏平はさすがに悪びれた様子で黙った。

 費瑶が言うように、どこで誰が聞いているかわからないのだ。その誰かとは、魏軍の忍びである黒蜘蛛のことである。その黒蜘蛛は、司馬懿の直属として、この戦場で働いている。ここにいる自分らも、黒蜘蛛の監視の対象に入っていると思った方がいい。

 その黒蜘蛛を統べているのは、郭淮の親類の郭奕であった。郭奕は男色であるため、郭淮はそのことを人に言ったことがほとんどない。

「張郃殿の騎馬隊を使った作戦を考えていると言っていましたが、それはどういうものなんでしょうかね」

 費瑶が肉に手を付けながら、話題を変えた。

「普通に考えれば、敵陣の奥深くに送り込み、糧道を断つといったところか」

「郭淮殿が前にそれをやってのけた作戦ですよね」

「やったが、あれは張郃殿の働きあってのことだ。張郃殿は自ら蜀軍の前に立ち、囮となったことで成功した。俺がやった仕事だとは、なかなか言い難い」

「張郃殿の騎馬隊を後方に放ち、蜀軍の目を逸らすために我らが動く。そんなところでしょうか」

「そんなところだろうな。街亭では張郃殿が囮となったが、今度は俺らがその役目をやるのだ。作戦の直前になれば、兵たちに性根を入れ直させるために、軍市利用を一時的にでも禁じておくべきかもしれんな」

「一時的にではなく、永久に禁じてしまえばいいんですよ、そんなものは」

「それでも軍市のおかげで長安は潤い、民は喜んでいるようだぞ。商人は洛陽とか、もっと遠くから出稼ぎに来ている者もいると聞いた。軍市は悪いことばかりではないようだぞ」

「お前は武官のくせに、文官のようなことを言いやがるな、費瑶。俺らは民を喜ばせるために戦をしているんじゃねえ。蜀軍を倒すためにやってるんだ」

「その蜀軍を倒すのも、民のためだと思えばいい。戦をやることで長安が富み、民の協力が得られるようになれば、魏軍はもっと強くなるだろうさ」

「馬鹿なことを言う。前線で血を流すのは俺らであって、商人じゃねえ。その前線に立つ俺らが浮かれて惰弱になったんじゃ、元も子もないだろう」

「それはそうだが」

「張郃殿が総指揮官なら、軍市を設けるなんてことはなかったろう。そんなものに頼ることなく、力で蜀軍を捻じ伏せていただろうな」

 郭淮は魏平の言葉を聞きながら、ふと張郃の心情を思い浮かべた。軍の指揮能力でいえば、魏軍第一。いや、この大陸で第一と言っても過言ではないかもしれない。その指揮卓抜とした将軍が、司馬懿という文官の下に甘んじている。それを張郃は、今の今まで不満だと感じたことは、一度でも無かったのだろうか。

「張郃殿は今のままでいいのだ。あの方は、現場で騎馬隊を自由に指揮してこそ力を出せるのだと、自身でも言っておられる。軍の頂点など煩わしいことばかりで御免だと、笑っておられたよ」

 自分の感情とは真逆のことを言っていた。軍の主立つ者の一人として、軍の秩序を乱すようなことは、間違っても言ってはならない。

「ふうん。そんなものですかね」

 郭淮も魏平のように、張郃が総司令官であることを望んでいたが、それは口に出すべきことではない。軍内にいらぬ噂が流れれば、それは蜀軍の利することとなるのだ。蜀軍にも黒蜘蛛のような忍びの部隊がいて、どのような離間をかけてくるかわからない。

「もうすぐ戦ができる。それがわかっただけでもいいではないか。作戦の開始は恐らく、俺が羌から帰ってきてからだろう」

「そうであれば、それまで兵がだれないようにしておかなければな、魏平」

 費瑶が魏平を励ますように言った。魏平が仕方なしという風に笑みを向けて、それに答えた。

 早朝、外が白み始めた頃に郭淮は起きだし、騎馬隊の待つ営舎に向かった。張郃に出してもらった百騎は、既に騎乗で整列して待っていた。この統率の高さは、さすがは張郃麾下と言ったところである。

 この足の速い騎馬隊で行けば、帰ってこられるのは早くて六日といったところか。そして帰ってくれば、戦だ。

 郭淮は朝日を背にして、西へと向かって馬を駆けさせた。

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