王平伝 3-5
成都から、帰還を督促する旨が届くようになった。もうすぐ蜀は魏に対して兵を興すのだという。そのために、帰還してこいというのである。
冗談ではない、と句扶は思った。ここで帰ってしまえば、今まで築いてきた夏候楙との信頼関係が全く無駄なものとなってしまう。戦が始まっても、自分のことは長安に置いておけばいいのだ。そうして蜀迎撃軍の本拠となる長安を、内部から攻撃してやればいい。
句扶は色々と理由を並べ、成都への帰還を拒んだ。長安のことは、俺に任せてくれればいいのだ。
その日も太守府に麻を持っていくと、夏候楙から意外なことを言われた。司馬懿が、句扶に謝罪をしたいのだというのだ。謝罪だけでなく、自分にも麻を売ってほしいとのことであった。夏候楙はその話を、麻を吸いながら嬉しそうに言った。不仲であったがようやく仲直りした、とも言っていた。そんな馬鹿な話があるかと句扶は思った。恐らく夏候楙は司馬懿に言い包められたのであろう。今まで散々に挑発してきた司馬懿が、自分のことを諦めるなどあるはずがない。
句扶は後悔した。自分の後ろ盾は夏候楙という愚昧な男しかなかったのだ。他に何か、自分を守るものを用意しておくべきだった。しかしあまりに多くの情報をここで得ることができるので、それが句扶の判断を鈍らせたのであった。
「司馬懿は何かと忙しい。明日にでも、あいつの屋敷に行ってやってはくれまいか」
夏候楙の口ぶりは、いつもに増して上機嫌である。断ることはできそうになかった。句扶は自分の屋敷に戻り、部下と話し合った。
長安から脱出するか。そう思ったが、長安の城門はすでに司馬懿の手の者によって監視されていると部下が知らせてきた。
正に袋の鼠である。こうなることが何故予測できなかったのか。だがこれは考えようによっては、司馬懿を討つ千載一遇の機会と言えるかもしれない。
句扶は寝台に横たわり、考えた。理由もなく俺のことを殺せば、司馬懿もただではすまないだろう。では司馬懿は、何をもってして俺のことを殺そうとしているのか。それを防ぐためには、どうすればよいか。
決定的な手を見つけられないまま夜が更け、明けた。一睡もすることはできなかった。
約束の時刻が迫っていた。こうなれば、殺されてしまえ。ただ殺されるのではなく、司馬懿を潰せるくらいの最高の死に方をしよう。句扶は腹をくくり、真新しい上等の着物を身につけた。着物の下には、山岳戦で使う短剣を忍ばせた。
日が昇ってくると、司馬懿のもとから迎えがやってきた。どう見てもただの使用人ではない。顔こそにこやかではあるが隙のない男であった。もう逃げられないぞ。そう言われているようであった。
外に出ると長安の街は相変わらず活気に満ちていた。句扶は先導する男と歩きながら、先日見た晒し首を思い出した。俺もあのようになるのか。死ぬことは怖くない。ただ殺される間際になれば、少しは恐怖を感じるのだろうかと思うだけだ。それよりも怖いのは、ただ犬死にしてしまうことである。
高い塀に囲まれた司馬懿の屋敷が見えてきた。賑やかな街並みの中で、そこだけが不気味に静まり返っていた。
「李栄でございます。この度はお招きいただきまして、恐悦至極に存じます」
屋敷内の客間である。周りからは、姿を見せぬ司馬懿の手の者からの視線が痛いほどに伝わってきた。
「こちらから出向くべきところを呼び出してしまい、申し訳ない。私も何かと忙しい身でありましてな」
初めて会った時の鋭い視線とは違う、温かい笑みをもって出迎えてくれた。余裕に溢れた笑みだ、と句扶は思った。
司馬懿の着物は所々が妙に膨らんでいて、その下に甲冑を身に着けていることが目に見えてわかった。そして隣には、護衛の大男がぴったりとついていた。腕が立つ男だということは、一目見てわかった。やはりこの場で司馬懿を討つことは難しそうだ。
句扶は持ってきた木箱を司馬懿の前に差し出した。
「司馬懿様にお近づきになれるとは、商人である私にとって最高の喜びでございます」
句扶は平伏して言った。
「もうよいであろう、李栄。いや、句扶」
やはり全てはばれていた。それも自分の名まで知られているとは、やはりこの男はただ者ではない。刺し違えてでも、ここで殺しておくべきだ。しかし、隣の護衛が一分の隙も見せてこない。
「はて、句扶とは何のことでしょう」
句扶はとぼけた。とぼけ通すことだけが、句扶のできる唯一の抵抗であった。
「お前はよくやったよ。私からの挑発にも、よく耐えた。もう楽になりたいであろう」
「挑発とは何のことかよくわかりませんが、前から司馬懿様には麻のことで睨まれていたことは存じております。しかしこうしてここに招かれるようになろうとは、私は幸せな商人でございます」
句扶は頭を下げたまま言った。
「ふん、まだ言うか。それより句扶、私の下で働いてみないか。お前ほどの者なら、高禄で召し抱えてやってもよい。蜀の情報を私の元へと持ってくるのだ。働きによっては、官位を得ることも夢ではないぞ」
ふざけるな。句扶は心の中で呟いた。裏切るくらいなら、ここで殺されてしまった方がましだ。有能とはいえ所詮はこの男も卓の上で働く文官なのである。身を切らせながら働く男の気持ちなど、わからないのであろう。
「長安政府に召し抱えられる商人になれということでございましたら断る理由はございません。私の持ち得る蜀の情報とは、彼の地の物価くらいしかありませんが、それでよろしければ」
「痴れたことを、全く強情な奴なのだな」
司馬懿の口調から緊張の色が薄れていることを、句扶ははっきりと感じた。既に勝ったつもりでいるのであろう。
「本日は、麻の取引にということで参りました。この箱の中身を御覧下さいませ」
「あくまで商人ということを貫き通すか。ますます気に入ったぞ、句扶。よかろう、では箱を開けてみよ」
言われて句扶は、木箱の紐を解いて箱を開けて見せた。下げた頭の上で、司馬懿の顔が歪んだのが見てとるように分かった。箱の中には麻でなく、犀の角と象牙を一本ずつ入れておいたのだ。
「ふむ、そうきたか」
司馬懿が腕を組み、大きく唸った。
「ここでお前を捕えれば、俺の名は失墜するな」
箱の中身を間違えただけで一商人を捕縛した。世はそう取るであろう。そして夏候楙は、それに激怒するに違いない。
「お前のことだ、ここで俺がお前を殺すことも想定して、手を打ってあるのだろうな」
句扶は部下に、自分が死んだら長安の隅々にまで流言をまくように指示していた。長安の富商である李栄が理不尽に殺されたとなれば、それは長安の市場に深く影響することであろう。
「これは司馬懿様、私としたことが持ってくる箱を間違えてしまいました。すぐに自宅に戻り麻を持って参りますので、どうかご容赦を」
句扶は全力で慌てふためく商人を演じた。苦しい策だとは思っていたが、意外と効果があるようであった。やはりこの男は、こんなことで躓くことを肯んじない、自尊心の強い男なのだ。
「これは一本取られたな」
司馬懿は声を上げて笑った。この男も、こんな風に笑ったりするのか。
「よかろう、では帰って麻を持って来い。その時にお前がどう出るか。とくと見させてもらうぞ」
そう言い残し、司馬懿は奥へと入っていった。司馬懿の手の者五人に囲まれて屋敷を出た。そしてその周りには、姿を見せない者が何人も潜んでいる気配があった。
自宅に戻ると、家を空けている間に来客があったことを使用人が伝えてきた。間者としての部下ではなく、長安で雇った市井の者である。来客のことなど構っている暇はなかった。どうすればこの場を切り抜けることができるのか、屈強な男に囲まれながら考えに考えた。
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