王平伝 4-12
初春の冷たい山中の空気が、肌にひりついた。
趙広は五百の隠密部隊を率い、天水から東へ五十里の所に伏せていた。二つの山に挟まれた、伏兵には最適な地である。魏軍の本隊から分かれた五千の騎馬が、もうすぐここを通るはずだ。
趙広は諸葛亮から渡された黒い石を、手の上で転がしていた。不思議な石である。鉄製の短剣に近づけると、それはぴたりと貼り付いた。この石は磁鉄鉱といい、漢中の西方で多く産出されるのだという。
趙広は五百を二十五人の一組に分け、その一組ずつに小分けした磁鉄鉱の袋を与え、狭隘に沿って二十の部隊を配置した。近くには、強行してきた王平の一万が潜んでいる。それは王平からの狼煙で確認することができた。敵が近くにいるために、伝令を出すことは控えられていた。
「敵の五千が近づいてきました」
部下が、小声でそれを伝えてきた。趙広は、それに無言で頷いた。
一つ、甲高い鳥の鳴き声が山中を走った。趙広の口から発せられた、戦闘開始の合図である。
諸葛亮から与えられた、初の単独の任務だった。それを思うと、趙広の血は腹の底から滾ってきた。
見えた。夏の旗を掲げた、魏軍騎馬隊の先頭である。それが見えると、腹の底の血は不思議と収まってきた。
夏の旗が、目の前を通り過ぎて行った。まだだ。趙広は自分に言い聞かせるように呟いた。俺が欲しいのは、お前のような雑魚の首ではない。
騎馬隊が中軍に差し掛かった。戴と、魏の旗。五千を率いる大将である。頃合いを見計らい、趙広が右手を上げた。一つ、銅鑼が鳴らされ、それを皮切りに山中のいたるところから銅鑼の音が続いた。眼下の馬蹄に負けないほどの轟音である。敵騎馬隊に衝撃が走るのが、はっきりと見て取れた。
「やれ」
趙広は、轟音に負けぬ大音声を上げた。山中の崖から一斉に投げられた袋は中空で開き、大量の磁鉄鉱が敵騎馬隊の頭上に散らばった。具足に、馬甲に、その黒い石は貼りついていった。五千の中軍から、左右に混乱が伝播していく。
狭隘の向こう側から、喚声が上がった。二つに分かれた王平の一万が地から湧くように現れ、狭隘の地を塞いだ。
趙広の五百は弓をつがえ、山中から矢の雨を降らせた。敵騎馬隊が、面白いように馬から落ちていく。塞いだ隘路の両端で、戦闘が始まった。敵は血路を開くためまとまりを得ようとしていたが、十人、二十人とまとまった所に趙広隊の矢が集中した。それでできあがりかけたまとまりは、蜘蛛の子を散らすようにまたばらけた。
戴の旗の下に集まろうとしているまとまりはさすがに頑強で、磁鉄鉱を使った攪乱ももう効果がないようだった。
百ほどのまとまりが、百三十、百五十と増えていく。そこに矢が集中したが、敵は小さく円陣を組み、四方からの矢を盾で防いでいた。
趙広は走りながら懐に忍ばせた硫黄の玉を取り出し、火を点けた。すぐに煙があがり、それを円陣の中に投げ込んだ。大きな発火にはならないが、小さな火柱が上がり、敵は動揺した。後ろから部下が同じように硫黄の玉を投げ、ぼっと幾つかの火が上がった。
敵円陣に突っ込んだ。後ろからは、二十五人の部下が追ってきている。敵の目は降ってくる矢を警戒していて、下には向けられてはいない。
馬の足。目の前で、それを払った。落馬した兵は、速やかに殺した。部下も、それに続いている。別の方向から、他の二十五人が殺到してきた。それで二百になろうとしていた円陣は崩れた。
趙広は馬の足をかいくぐりながら、戴の旗を目指した。十騎ほどに守られながら、その男はその場を脱しようとしていた。
待て。趙広は思わず声に出していた。こちらは足で、向こうは馬だ。追い付けるはずもなく、敵将はその場から駆けて出して行った。隘路から抜け出そうとする戴の旗に、また敵が集まり始めた。進みながら百と少しが集まったところで、王平の作る戟の壁がそれを遮った。敵将は逡巡することもなく、王平の軍勢に突っ込んだ。五千と百のぶつかりあいである。敵将は戴の旗と共に、あっけなく蜀兵の波の中に消えて行った。
趙広は舌打ちをした。自分が奪れた首だったが、逃した。そう思ったのは束の間で、趙広はすぐに部下をまとめ、山中に上げた。戴の旗に突っ込んだ五十は、三十九になっていた。敵将の首を奪れたとなればそれは少ないものだと思えたのだろうが、逃してしまったのだ。
趙広は三十九名の部下を並ばせ、一人ずつに平手打ちを喰らわせた。
不意の出来事だった。
郭淮からの帰還命令で、天水城に急いで引き返していた最中である。両側の山中から銅鑼の轟音が鳴り響き、夏侯覇は棹立ちになろうとする馬を必死に抑えつけた。
どれほどの敵だ。先ず、考えたのはそれだった。音はすごいが、それほどの兵力はない。この山中に、何千もの兵を潜ませるのは難しいと思えた。
「落ち着け。このまま進軍するぞ」
兵をまとめようとしているところに、大量の黒い石が降ってきた。その石は具足と馬甲に貼り付き、まとまろうとしていた兵がまた混乱し始めた。
これは、磁鉄鉱だ。幼い頃、太学で習ったのを思い出した。しかし兵達に、そんな知識はない。未知なものを目の当りにした兵達は、大きな恐怖に包まれていた。
「こんなものは、子供騙しだ。俺の旗に付いてこい。この隘路を抜けるぞ」
その声で、周りの兵はいくらか落ち着きを取り戻したようだった。しかし後方の混乱は、目を覆いたくなるほどのものだ。
夏侯覇は馬腹を蹴った。七百ほどの部下がそれに続いた。敵。隘路の出口に立ち塞がった。道は緩やかな下り坂なので、逆落としをかける格好となった。しかし、並べられた戟。どれほどの兵が抜けられるのか。小さくまとまった七百が、敵の前衛にぶつかった。次々と味方は戟に突かれ、落馬した者はめった刺しにされていた。前衛を抜けた夏侯覇は剣を掲げ、逆落としの勢いのまま敵中を駆けた。敵兵力はどれほどか、考える余裕などない。とにかく、敵はたくさんいる。
叫び、剣を振る。全てがゆっくりしたものに見えた。何故、ゆっくりなのだ。速くここから抜け出せ。苛立った夏侯覇は、何度も激しく馬腹を蹴った。
抜けた。周りを見てみると、七百は五十ほどに減っていた。近くには、夏の旗もない。敵中を抜けてくる後続の者は、蜀軍騎馬隊に追い立てられていた。走れ。馬が潰れるまで、走れ。追い立てられ、突き落とされている味方に、構っている暇などなかった。
馬の揺れが、いつもと違うものになった。それでも夏侯覇は、馬腹を蹴り続けた。
空。そこに向かって飛んでいた。地にぶつかることで、馬が潰れたのだと分かった。また、空。今度は、二人の部下に両脇を抱えられていた。
しばらく進んだ森の茂みに深く入り、ようやくそこで落ち着くことができた。もう、敵の追手はないようだ。
「何人いる」
木の幹に体を預けながら、消え入るような声で聞いた。
「二十三人です」
天水で与えられた兵は、千だった。それが、二十三人。かっと、鼻の奥が熱くなった。悔しい。そう思うと、剣の柄に手をかけていた。
「いけません」
部下の数人に、体を抑えつけられた。抑えつけられながら、夏侯覇は目を閉じた。千人が、二十三人。溢れてくるものは、止めようもなくひたひたと流れ落ちていた。
「離せ。もう死のうだなんて思わねえよ」
部下が、心配そうな顔をしながら夏侯覇の体から離れた。
左脇に、小さな黒い石が付いていた。こんなもの。夏侯覇はそれを右手で取り、地に叩きつけた。部下が、竹筒に入った水を差し出してきた。一口飲むと、それは体に染み込んでいった。悔しい。湧いてくる感情は、そればかりであった。
見渡すと、二十三人の部下がそれぞれ悲愴な顔をしていた。泣いている者もいるし、深い傷を負って呆然としている者もいる。馬は、十八頭いた。
「帰るぞ、長安に。歩くのが困難な者は、馬に乗せろ。できるだけ、間道を進むのだ」
指示を出すと、部下の顔に幾らか力が戻ったように見えた。