王平伝 3-4

 蟻が、目下で列を作って何かを運んでいた。昔はそんなことを気にすることなどなかったが、最近はこんなものをじっと見ているとのが妙に楽しかったりする。

「おい、おっさん」

 頭上から声がした。見上げると、髪から汗を滴らせた男が数人、こちらを睨み付けている。

「なんだ。今日の調練はもう終わりだ。さっさと帰って体を休ませておけ」

 またか。王双はそう思っただけで顔色も変えず、また足元に目を移した。男の足が、蟻の列を踏み潰した。

「片腕のくせして、偉そうなことばかり言うんだな。俺は俺の剣技を使って欲しくて入隊したんだ。それを馬のように走らすだけとはどういうことだ。俺等は家畜じゃないんだぞ」

「走れない者は、戦場で先ず死んでいく。何度同じことを言わせるのだ。分かったら、さっさと帰って明日に備えろ」

 ひゅっ、という音と共に、王双の前髪がはらりと落ちた。眉間に剣の切っ先を突き付けられている。

「明日は、お前の指示は受けん。どうしても言うことを聞かせたいのなら、俺と勝負して勝ってみろ。俺が勝てば、俺は俺のやり方でやらせてもらう」

 王双は大きく息をつき、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がった王双の巨体が、男を二歩三歩と下がらせた。

「俺が隻腕だから、言うことを聞けんのか」

 男の顔に、明らかに不安の色が過った。威勢こそはいいが本気では言っていないのだろう。

「俺より強ければ、言うことを聞いてやると言っているんだ」

「それが分かった時は、もう遅いぞ」

 これで何度目であろうか。なめられるのは、隻腕だからということだけではないのであろう。妹が死んでから、鬱々とした日々を過ごしてきた。こういった奴らの反感を買うのは、自分のそんな暗い性格にもあるのだ。ならばこういう問題は、自分の手で片付けなければならない。

 王双は右手で剣を抜き、途中までしかない左腕を前に突き出し、半身に構えた。

 男が緊張の色を深めていく。後ろに付き従っている数人は二人を中心にして後ずさり、周りからは王双隊の兵が野次馬となって集まってきた。

「お前ら、手出しは無用ぞ」

 王双は右足を半歩下げ、間合いを取った。右手に剣を逆手に持って腰に付け、刀身は王双の尻から尾が生えたように後ろに向けられている。そして意識を、目の前の首に集中させた。

「なんだその構えは。剣は前に出さないと、相手に当たら」

 一歩。その瞬間、王双の剣が閃いた。男の首は前半分がぱっくり割れて大量の血が噴き出し、そのまま口をぱくぱくさせながら後ろに倒れた。しばらく痙攣していたその体は、やがて動かなくなった。男に付いてきていた数人は何が起こったのかもわからず、茫然としていた。本当に殺すとは思っていなかったのであろう。

「おい、お前ら」

 その数人が、体をびくっとさせた。その中の一人が、腰を砕けさせて失禁した。

「片付けておけ」

 それだけ言い残し、その場を離れた。

 このような新兵は容赦なく殺した。こういった見せしめをすることで、他の新兵は従順となるのだ。今となっては、こうしてたまに見せる王双の剣技を楽しみにしている兵も少なくない。他の隊では、隊長の身が危険に晒されているというのにそれを部下が見物するなどありえない。だが王双は、こういった場合には部下に一切の手出しをさせなかった。強さを見せつけることで兵を手懐ける。これは王双の知恵であった。

 妹の死後、王双はしばらく途方に暮れていた。軍に戻ろうと思ったのは、残された甥、王訓を育てようと決めたからだ。昔の隊長殿と妹の間に生まれた、大切な子である。自分だけ先に死ぬわけにはいかなかった。

 王双が自宅に帰ると、いつものように夕餉の支度がされていた。王訓が生まれてきた時に手伝ってくれたお婆が家事をしてくれているのだ。王双は身寄りのないこのお婆に、軍人としての稼ぎを一切任せていた。

 夕餉の準備ができると、奥から王訓が顔を見せた。もうすぐ十才になろうかという王訓は陰々鬱々としている自分とは違い、明朗闊達に育ってくれた。これはいつも軍営に詰めている自分に代わって訓の面倒を見てくれるお婆のお蔭であった。これは、感謝してもし尽せることではなかった。

王双は軍務の稼ぎで書を買い、お婆に頼んで王訓に文字を覚えさせ、多少なりの学問をさせた。訓はお婆に懐ききっていて、よく学び、そしてよく食った。お婆も訓を育てることを、残り少ない命の生き甲斐だと言ってくれる。王双は時に、お前の父親がどれだけ勇敢であったかという話をしたが、軍人にはなってもらいたくないと思っていた。書を買い学問をさせるのも、訓には軍人以外の道を歩んでもらいたいからである。この子には、自分達と同じような人生を歩むことなど絶対にさせたくなかった。

 目の前に温かい粥と野菜を茹でたものが並べられた。自分が訓にしてやれることは、こうして粥と野菜と、少しの書物を買う金を稼いできてやることくらいだ。ならばそれに全力を注ぐことが、今は亡き二人のためにしてやれることなのである。

 夕餉が終わって訓が寝ると、王双はその日のことをお婆から聞いた。

「いつも悪いな、ばあさん」

「悪いだなんて、私は毎日を楽しんでるよ。あの子も日に日に育ってくれてる。私の老後にこんな楽しみがあっただなんて、思ってもみなかったよ」

 王双には、こんなことを言ってくれるお婆の存在がありがたかった。

「それよりあんたもそろそろ妻帯したらどうだい。私がもっと若けりゃあんたに抱かせてやってもいいけど、こんなばばあじゃそうもいかないだろうしね」

 陽気な老婆であった。この陽気さが、塞ぎがちだった王双の気持ちに潤いを与え続けてくれた。

「俺は片腕だ。女は気味悪がって誰も近寄ってきやしねえよ。確かに婆さんがもっと若かったら良かったんだがな」

「片腕が無いからって何だい。そんなことで男の価値が決まるだなんて、私は思わないよ。私はね、本気であんたたちのことを思って言ってるのよ。あんたが子でも作れば、それが訓にとってどれだけ良いことか。あんたは分かってないのよ。そしてそれは、何よりあんたのためにもなることなのよ」

このことは、今までお婆に何度も言われていたことだった。その都度王双は、適当なことを言って話をはぐらかした。

隊長殿と歓は、自分に子供を残して逝ったのだ。ならば、自分はその子のためだけに働けばいい。自分だけが家庭を持ち幸せになるのは、おかしな話ではないか。それに自分は軍人である。いつどこに駆り出され、王平のように二度と帰らぬ人にならぬとも限らない。そう考えると、王双は自分が子を生すことに怖れのようなものを感じるのであった。

ごほっ、とお婆が咳をした。普通の咳ではなく、何かが絡むような嫌な音がする咳だ。ここのところ、お婆がこういう咳をする回数が増えてきている気がする。

「あたしはもう、長くはないかもね」

 言っても、暗くはない。お婆はこういう時も努めて明るい表情でいる。

「何を言ってやがるんだ、ばあさん。あんたはまだまだ元気じゃねえか」

「いいや、自分の体のことは自分が一番分かるさね。あたしが逝く前に、早く妻帯なさい。じゃないと、あたしは逝くに逝けないよ」

「けっ、そんなこと言われりゃ、余計に妻帯できねえよ」

 そう言う王双を、お婆はからからと笑った。王双は不安だった。このお婆には、まだまだ訓の近くにいて欲しい。

 西方では、戦の気配が漂い始めていた。その空気はこの洛陽軍営内にも色濃く伝播してくる。またあの地に行くことになるかもしれない。そう思うと、王双の気持ちは重くなった。

 お婆の容態が悪くなってきていた。咳と共に、おかしな色をした痰が出るようになったのだ。それでもお婆は心配する王双と王訓をよそに、まだ体は動くからといって働いてくれた。

「おい、訓」

 非番の日、王双は訓をこっそりと呼び出して言った。

「はい、叔父上」

「俺が軍営に行っている時、ばあさんはどんな感じだ」

「最近は、あまり元気がないように見えます」

 言って、訓は俯いた。賢い子であった。そう言っただけで、この子は自分が何を言いたいか分かったようだ。王双はそれに黙って頷き、まだ小さな訓の頭を優しく撫でた。

「お婆様は、死んでしまわれるのですか」

 訓が、小さな目を赤らめて言った。小さいが、力強い目だ。これなら、死んだ隊長殿と妹は喜んでくれるだろうと思えた。

「はっきり言おう。ばあさんは、もうじき死ぬ。しかしこれは、例えば太陽が昇って沈むことと同じことなのだ。生きていくものは、それを受け入れなければならん」

 大切な二人を失った時、王双自身が何度も自分に言い聞かせたことであった。

「いいか、訓。ばあさんが死ぬ時、決して泣き顔を見せてはならん。笑顔で見送ってやるのだ。これは叔父上との約束だ、よいか」

「はい」

この子も近頃のお婆の様子を見て不安だったのであろう。訓が王双の大きな太腿に抱きついた。王双は、その小さな背中を片腕で摩ってやった。

数か月後、お婆は痩せ細り、しかしながら幸福そうな顔をしながら逝った。最後を看取った二人であったが、訓は最後まで泣かなかった。そしてお婆の顔から生の色が消えると、糸が切れたように泣き崩れた。よくここまで育ててくれた。その感謝の想いと共に、王双はお婆の遺骸を手厚く葬った。

洛陽の兵に西下の命令が下ったのは、それからすぐであった。王双は悩んだ末に、訓も連れて行くことにした。訓を軍の中に入れることにためらいはあったが、まだ幼いこの子を洛陽に一人残していくわけにはいかない。王双は訓に自分の身の回りの世話をさせるという名目で従軍の許可を取ろうと、上司である張郃に願い出た。許可はすぐに下りた。厳しい将軍であるが、こういうことには融通が利く良い上司である。

王双は訓を伴い、馬上にあって軍列と共に洛陽城門を出た。二匹の辟邪。そこには十年前と変わらず、二つの木偶がどこかを眺めていた。

あの時と同じ風景であったが、王双の気持ちは違った。何故蜀は、この国に攻めてくるのだ。戦いがあるからこそ、訓は父母を失った。ならば、俺は一人でも多くの敵を殺してやる。頃し尽せば、戦は終わる。対蜀戦の一部隊を率いる王双は、十年前のあの時とは違い、全身に闘志を漲らせていた。

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