王平伝 6-5
寒空に乾いた赤黒い焚火の木片が、ぱちりと音を立てて弾けた。勝とうが負けようが、戦の星空の下では、焚火は常に同じである。
魏軍の陣を破り、天水一帯を制圧することに成功した。魏延が敵の弱点を見抜いたのがそのきっかけとなったのだった。張郃軍を破った王平が主戦場に駆けつけた時にはもう、蜀軍による掃討戦が始まっていた。これで魏軍はかなり東へと退いたようだ。
焚火を見つめていた王平のところへ、劉敏がやってきた。
「勝ち戦だというのに、あまり嬉しそうではありませんな、王平殿」
劉敏がそう言いながら、焚火の近くに座った。
「戦はまだ終わっていない。浮かれているわけにはいかんさ」
「張郃を討ち取ったのは、お見事でした。丞相と幕僚の方々は大層喜んでいましたよ。この戦の第一戦功は、王平殿であるとも」
「そう言っていたのは誰か当ててやろうか。楊儀殿だろう。この戦の第一戦功は、魏の陣を破った魏延殿だ。楊儀殿にはそれが面白くないのだろう。あの二人は仲が悪いからな」
劉敏が、見透かされたのを恥じるように苦笑した。
「俺は冗談で言っているのではないぞ、劉敏。どちらが第一戦功かという議論が加熱すれば、軍の中に不協和が生まれる。俺と魏延殿との不協和だ。その不協和は、そのまま軍の弱体化へと繋がるのだ。この王平は、戦功第一は魏延殿であると思っていると、お前にはそれを理解しておいてもらわねば困る」
「そこまでお考えでしたか。次に丞相に会う時には、そのように伝えておきましょう」
王平はそれに頷いた。
「木門に残してきた杜棋と蔣斌はどうなった」
張郃戦後、諸葛亮からすぐに主戦場に呼び出された王平は、木門での後処理を劉敏に任せていた。
「杜棋は、腕と腹の骨を数本折っていますが、命に別状はありません。時が経てば回復するでしょう。しかし蔣斌の方は少々厄介なことになりました。幸い大きな怪我はなかったのですが、心に傷を負ったようです。あの時のことを思い出すと、全身が瘧の様に震えるのです。もう、軍人としては使い物にならないかもしれませんな。だから私は、あれを連れてくるのには反対したというのに」
「そうか。二人とも無事だったのなら、とりあえず良しということにしておこう。蔣斌のことは俺がなんとかしてやる。あいつを戦場に連れてきたのは、俺にも責任があるのだからな」
「私はそのような意味で言ったのではありませんよ。あれをあんな目に遭わせてしまったのは、私の責任です。王平殿には、目の前の戦に専念してもらわねば」
「わかっている」
張郃が奇襲をかけてきた時、杜棋の陣が第一の犠牲となった。蔣斌はそこに伝令として赴いていたのだった。張郃軍に踏みつぶされた杜棋の小隊は、散々のものだった。兵の首や腕が飛び、辺りに血の海ができた。初陣であんなものを目の当たりにしてしまえば、心に傷を負うのも仕方がないだろう。あの猛攻を受けて死ななかっただけいい。蔣斌が死んでいれば、蔣琬に会わせる顔がなかった。
「丞相は、今後のことについて何と言っていた」
「魏軍は今回の一戦で、少なくとも二万を失いました。そして瀧関まで退き、体制を立て直すものだろうと仰っていました」
焚火に照らされた地面に、劉敏が木の枝で絵を描きながら説明した。
「蜀軍は二手に分かれ、東進します。二手に分かれるのは実は見せかけで、北側を進む軍は街亭の辺りで南へ向かい、合流した八万の全軍で瀧関を攻撃します。目的は瀧関を抜くことではありません。ここで一兵でも多くの魏兵を倒すのです。長安に籠らせる兵を一万程に抑えることができれば、蜀軍の勝ちです」
「少なくとも二万は減らしたと言っていたな。ならあと五万は減らさなければならんのか。難儀な戦になりそうだな」
「勢いは我が軍にあります。また一つ、丞相から秘計を授けられました」
劉敏がにやりとしながら言った。
「ほう、聞かせてみろ」
「敵の司令官司馬懿に、張郃は生きていると信じ込ませるのです。瀧関の近くに張郃軍が伏せていると思わせて、魏軍を瀧関から引き出し野戦に持ち込みます。数で勝る蜀軍は、魏軍を散々に打ち破ることができるでしょう。その張郃軍に偽装するのは、王平軍騎馬隊です」
「面白い。丞相は俺に張郃になれと言っているか。上手くいけば二万は減らせるな」
「三万です、王平殿。そうすれば、魏軍は三万以下にまで減ります。そして瀧関から魏軍を追撃し、一万以下にまで減らそうというのが丞相のお考えです」
「大軍同士で対峙している時はどうなることやらと思ったが、蜀軍が勝てる見込みは出てきたようだな。進発は明早朝ということでいいか」
「はい。張郃軍となる王平殿の騎馬隊に、先ず進発してもらいます。本隊の歩兵たちには明日丸一日、魏軍の残した軍市で遊ばせるようです」
「遊ばせるだと。俺の前では、略奪だとはっきり言えばいい」
「まあ、そうなんですが」
長らく陣に籠っていたのだ。兵にはこういった息抜きも必要であった。それが良いとか悪いとか言うつもりはない。戦とは、そういうものなのだ。兵に略奪を許そうが、丞相にはしっかりと兵を統率してもらい、計画通りに作戦を遂行してもらえればそれでいい。
三年前、王双をこの手で斬った時、王双は長安にいる自分の女には手を出さないでくれと言っていた。そのことは忘れてはいない。魏軍を撃破し長安に入ることがあれば、その約束だけは守らなければならない。
闇夜の中、王平軍に輜重が運ばれてきた。
「なんだあれは」
「張郃軍から奪った具足と軍旗です。王平軍騎馬隊には、これで偽装してもらいます。夜中による運び込みは、機密のためです」
「敵だった将の具足を身に着けるのか。あまり気持ちの良いものではないな」
「そう言わずに」
運ばれてきた張郃の具足は、綺麗なものではなく、あらゆる所が傷つき、繕い直されていた。張郃が前線で戦い続けた勇将であった証だ。後方でふんぞり返っているだけの将の具足ほど、綺麗なものである。
王平はその具足を手に取り、しばらく目を瞑った。具足が示している通り、張郃は優れた将であった。洛陽で王双と共に山岳部隊を育てていた時、初めて負けの味を教えてくれたのが、張郃であった。あの経験は、自分にとって決して小さなものではなかった。まさかこの将を、自分の手で討ち取ることがあるなど、考えたこともなかった。
「どうされましたか、王平殿」
「昔のことを考えていた。俺がここまで軍人として生きてこられたのは、この人のお蔭だったという気がする。俺が騎馬隊を動かす時、常に意識していたのがこの人だった」
「定軍山での戦の時は、魏軍での上官だったんですよね」
「そうだ。私利の無い人であった。こういう人が散っていくのも、戦の持つ一つの空しさであるな」
「王平殿」
虚空の闇を見つめながら言う王平に、劉敏が心配そうな目を向けてきた。
「心配するな、劉敏。情に流されるほど若くはない。ただこの具足は大事に保管しておいてくれないか。似たようなものなら、他に探せばあるだろう」
「そういうことなら、わかりました」
王平の周りに、小隊長格の者が一人、二人と集まってきた。明日からの作戦を伝えるためだ。
劉敏が小隊長を纏めて作戦が伝えられ、それぞれの小隊に張郃軍の具足が配られ始めた。王平は張郃の具足を手に、自分の幕舎へと帰った。王平軍の陣は静まりかえっている。大詰めを迎えた戦を前にして、この軍は最上の状態にあると言っていい。
張郃の具足を椅子の上に座らせるようにして置いた。それを前にした王平の心は、静かな軍中にあって、様々なもののために思い昂ぶった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?