王平伝 8-6

 蜀軍の雑兵には友好的に接しろと、部下には下知してあった。細い船橋を渡り、徐々に五丈原側へと帰って行く蜀兵の手助けをしている魏軍の兵は、兵卒の具足を身に着けた黒蜘蛛だ。三万の将である孟琰は、波風を立てたくないと思っているのか、大人しく魏軍の言うことに従って兵をまとめている。つまらない生き方をしてきた男なのだろうと、郭奕は何となく思った。

 兵の格好をした黒蜘蛛と、蜀の兵が方々で雑談している。中には笑い合っている者もいる。今までは、魏軍の兵を蛇蝎のように思っていただろう蜀の兵は、意外とそうでなかったと思い始めているはずだ。妄想していたものと現実に懸隔があれば、それが大きい分だけ、蜀兵に与える印象は強いものとして残るだろう。

 そこに、諸葛亮を批判する言葉を吹き込んだ。蜀軍は漢の復興を大義として戦っているのに、諸葛亮は漢の帝が既にこの世にいないことを隠している。傷付かなくていい者、死ぬ必要のなかった者が、無駄に戦場に立たされていたのだと、総司令官である司馬懿自身が三万の前で演説した。蜀兵三万の中に動揺が走ったのが、目に見えてわかった。

 司馬懿は兵や民の持つ愚かさをよく知る男だった。論拠のない妄想や、一時の感情により絵空事を思い描き、あろうことかそれが現実のものだと盲信する。そしてそれを他人に押しつけることも平気でやる。

 司馬懿は蜀兵三万に一つの絵空事を与えた。自分の上に立つ蜀軍首脳陣は悪人だという絵空事だ。三万が五丈原に戻れば、他の二万にもこの話は伝わり、蜀軍内の諸葛亮に対する不信感は強まるだろう。その下地は、辛毗が蜀軍本営の幕舎で叫び、それが噂話となることで整えられていた。

 面白い戦だった。兵力に兵力をぶつける、今までの戦とは全く違った形で司馬懿は勝とうとしている。その勝ちを決するのは、弓隊や騎馬隊でなく、忍びである黒蜘蛛なのだ。攻めるのは、兵の肉体でなく、心なのだ。

 魏軍本陣にある郭奕の幕舎に、渭水北岸に配していた部下が戻ってきた。

「羌軍の二万は、帰還する気配を見せてはいますが、まだ動いてはおりません」

 自分にだけぎりぎり聞こえる声で部下が言った。郭奕が小さく頷くと、すぐに姿を消した。

 郭奕は幕舎を出て、武功水へと向かった。諸葛亮と三度目の面会をする辛毗が、出発の準備を整えていた。

「羌軍はやはり帰らぬようです、辛毗殿」

 話しかけられて郭奕だと気付いた辛毗が、体をびくりとさせた。

「仕方のないことだ。羌軍が消えてから三万を帰すべきだったが、蚩尤軍が戻って来る前にやっておきたかった。司令官は、羌軍が居座ろうとも気にするなと言っていた」

 武功で魏軍と蜀軍が向き合ってから、半年が経とうとしていた。その間に羌軍は一度も戦に参加しておらず、もらえるものだけは両軍から受け取っていた。放っておいても害はないと司馬懿は判断しているのだろう。

「この面会で策が成功するかどうかが決まる。今までの全ての戦の帰趨がかかっているのだ」

 郭奕は頷いた。頷いたからといって郭奕はただ辛毗の近くにいるだけで、何か口を出すことはない。ふと見ると、辛毗の指先が震えていた。見られたのに気付いたのか、辛毗はその手を後ろで組んで隠した。緊張しているのだろう。だからこそ、こういうわかりきったことを口にしてしまう。

 使者団を乗せた船が武功水を渡り始めた。その傍らの船橋には、まだ蜀兵の列が続いている。こうして渡河を長引かせることによって、黒蜘蛛が蜀兵の中に流言を撒く時を作っているのだ。

「司令官への贈り物が何であったか聞いたか、郭奕殿」

 誰も何も喋らぬ船の上で、辛毗が呟くようにして言った。

「いえ、聞いていません」

 黒蜘蛛の指揮で、それどころではなかった。

「女の服だ。自ら攻めようとせず、殻に閉じこもったままの魏軍司令官は、男ではないと」

 馬鹿なことだと思った。しかし少し考えて、諸葛亮が何を狙っていたかに行きつき、郭奕は口に手を当てた。これが魏軍の兵の口端に上ればどうなるのか。

「同じことを狙っていたのだ、諸葛亮も。蚩尤軍がここにいれば、魏軍内に流言を撒かれていただろう。魏軍司令官は、女の服を贈られても何もやり返せぬ男だと」

「私も、それを狙っていたのだろうと思います」

 魏軍の中には、司馬懿は軽々しく動かない司令官だという定評がある。それは裏を返せば、自ら攻めることのできない臆病な男だという評価でもある。諸葛亮の狙った流言は決して小さくない効果を発揮したことだろう。

「馬鹿馬鹿しいことだが、分かり易いことだ。これは雑兵の頭でも理解できる。だからこそ、効果があがる。司令官はその分かり易さを恐れておられた」

「羌軍の帰還を待たなかったのは、それが理由ですか」

「それも理由の一つだ。何にしろ、蚩尤軍が戻る前にできる限りのことをしておきたいということだ」

 司馬懿が黒蜘蛛を進んで使うように、諸葛亮も蚩尤軍を頼っている。その蚩尤軍を一時的にでもこの戦場から消した司馬懿の策は非凡だった。この非凡さは雑兵には理解されないものだろう。雑兵は常に目に見えて分かり易いものを好む。女の服を贈った諸葛亮も、そのことはよくわかっているのだろう。

 船が対岸に着いた。

 前と同じ道を歩いた。小高い台地になった五丈原の坂に、様々な罠が仕掛けられている気配があった。この五丈原は、城のようなものだ。五万がこの台地に拠れば、十万の兵力でも攻めきるのは難しいだろう。軍学の定石で言えば、城攻めには相手の三倍の兵力が必要なのだ。

 諸葛亮は女の服を司馬懿に贈り、魏軍の将兵を煽り立て、この罠だらけの五丈原を攻めさせたかったのだ。もしそうなっていれば、兵力が倍の魏軍でもかなりの損害を出し、最悪の場合は長安まで押し返されていたかもしれない。

 五丈原を登り、台地の上に巣食う蜀兵を見渡した。城攻めの一つに、城内から内応者を出すという手がある。司馬懿は蜀兵の三万に献帝の死と諸葛亮の悪辣さを吹き込み、五丈原という城に戻した。これは内応者とまでは言えなくとも、それに準ずる魏軍に利する者を大量に送り込んだのだと言っていい。五丈原攻めの手は、一つ一つ静かに進んでいる。

 蜀軍本営が見えてきたところで、不意に強い殺気に囲まれた。何か目に見えるものではない。忍びの殺気だ。例えば後ろから何でもないようについてきている蜀兵から、また前方にいる戟を立てて並んでいる数人の兵の間から、それは感じられた。

 郭奕は指を鳴らし、周囲にいる五十人の部下に警戒を促した。ある一線を越えれば来る。自然に歩くように、部下が辛毗を中心に輪を作った。

 郭奕は歩きながら、蜀の忍びが襲ってくる線を測った。ここだと思ったところの手前で、辛毗と五十の部下を止めた。

 緊張した空気が静かに流れた。矢。呼吸を一つ置いてきた。部下が、短剣で弾いた。それを合図に、何本もの矢が周囲からきた。矢の多くは叩き落とされたが、あまりの多さに体に受けてしまう部下も数人いた。しかし中心の辛毗には届いていない。

「漢の使者に、何ということをするのだ。この不忠の軍め」

 郭奕の大音声が響いた。部下には一切反撃させていない。それがあってか、敵からの矢がぴたりと止まった。

「漢の臣が、献帝陛下の遺言を諸葛亮殿に届けに参ったのだ。貴様らは、それを邪魔立てしようというのか」

 周囲の蜀兵が動揺している。全てが忍びではなく、普通の兵も多くいて、何が起こっているのだという顔をしていた。そして漢からの使者であるという言葉が、大きな効果を発揮していた。

「戻りますか、辛毗殿」

 小声で、隣にいた辛毗に尋ねた。襲撃されたにも関わらず、落ち着いた表情をしている。

「いや、行こう。元より死は覚悟の上だ。今はこの遺言を届けることを最優先すべきだ」

 郭奕は頷き、前へ進んで部下の輪から出た。すぐ近くに趙広がいるはずだ。ここにいる天禄隊の数は明瞭ではないが、恐らく二百から、多くて三百。手持ちの五十でまともに戦ってどうにかなる数ではない。

「この軍は漢のために戦っていたのではないのか。それが、漢の使者を殺そうとは、どういう料簡なのだ。今の矢を放った兵を指揮していた者は、私の前に現れて弁明せよ」

 郭奕の顔を知っている趙広が出てくるはずはない。周りの雑兵に聞かせるために言ったのだ。趙広はこの戦場のどこかで密かに歯噛みしていることだろう。

「この中にも、忠義を失っていない者が少なからずいると見える。心ある者は、本営まで我らの身を護衛せよ」

 兵の中から、ぽつりぽつりと郭奕の言葉に応ずる者が出た。いずれも忍びの臭いの無い者だ。郭奕はその者らを褒め称え、部下の周囲にさらに輪を作って護衛させ、そのまま進んだ。

「妙なことをするな、郭奕殿」

 辛毗が笑いを噛み殺しながら言った。

「これで趙広は手出しできません。辛毗殿は、諸葛亮との対峙に集中してください」

「対峙か。戦も煮詰まると数万同士でなく、一対一の対峙となるのか。おかしなものだ」

 蜀の兵を周りに従え、諸葛亮の待つ幕舎についた。矢を射られたことに何と抗議するのだろうと気になったが、それは口には出さなかった。

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