王平伝 4-1
目を覚ました王双は、咄嗟に身を起こした。そこは見覚えのある一室で、戦場ではなかった。自分はどうなったのかと考える間もなく右目に激痛が走り、王双はその場に蹲った。
「大丈夫ですか」
女の声だった。王訓の世話を頼んでおいた宿の娘である。跳ね起きた時に水の入った桶を倒してしまい、娘は手にしていた手拭で床を拭きはじめた。
その様子を目にした王双はふと違和感を覚え、自分の右目に手を当てた。見えていない。手に感じるのは、がさがさとした大きな瘡蓋だけだった。
王双は残された左目を閉じ、何があったかを思い返そうとした。
趙雲の寝所に乗り込み、立ち合った。こちらの一撃に手応えはあったが、相手の命を断つほどのものではなかったという気がする。その時に、右目を斬られたのだ。
刃が交わる直前、王訓の顔が頭によぎり、踏み込みが甘くなった。それがなければ趙雲に致命傷を与えることができたと思えたが、同時に自分の頭蓋も断ち割られていただろう。
その後は朴胡の部下が助けにきたが、朴胡自身は討たれていた。岩山から下りることはできたが、それ以後のことは何も思い出せなかった。
「俺は、どれほど寝ていた」
「長安に運ばれてきてから、十二日でございます」
娘が床を拭く手を止めて言った。
「その間、君が看病をしていてくれたのか。礼を言う」
娘の傍に、何かの煮汁と水がそれぞれ入った器が置かれていた。これを布に吸わせ、口に入れてくれていたのだろう。
「王訓が、大そう心配しておりました。呼んできますので、少々お待ち下さいませ」
言って、娘はばたばたと部屋を出て行った。
一人になると、様々なことが頭の中に去来した。戦はどうなったのか。張郃が迎撃しに行った蜀軍本隊のこと、趙雲のことも気になった。あの時、確かに一撃を与えたはずであった。王双は右手をぐっと握り締めその時の手応えを思い出した。
娘が一人で戻ってきた。
「あの子ったら、自分は何も心配してないから、気を使うことはないって言っております」
娘は笑いながら、新しい着物を手渡してきた。王双はそれを、片腕で受け取った。
「王双様がここに運び込まれてきた時は、あんなに泣いていたのに。男というものは、女の私にはよくわかりませんわ」
それを聞いて王双も笑った。笑うと、右目に痛みが走ってその場に座り込んだ。娘は慌てて王双の体を支えた。とりあえず、生きていて良かった。右目を失ってしまいはしたが、左目が残っているので王訓のことを見てやることはできる。
安心して落ちつくと、腹が鳴った。それを聞いた娘は、すぐに階下から食事を運んできてくれた。細かく刻まれた羊の肉が入った粥である。一口啜ると、空腹に染み込んでいくようで、王双は思わず唸った。
「血を失っております。たくさん食べて、早く元気になってくださいませ」
王双は言われるがまま粥を腹に入れた。入れると、体の奥が熱くなった。その熱さは力となり、体の隅々にまで行き渡っていくのがわかった。
「少し、出かけるぞ」
「さっきまで寝ておいででしたのに、もう行かれるのですか。もう少しお休みになられた方が良いと思うのですが」
「心配ない。体が頑丈なことだけが俺の取り柄だからな。さあ服を着替えるから出て行ってくれ。俺の裸を見たいって言うのなら、いてくれても構わんがね」
そう言われ、娘は顔を赤らめてそそくさと出て行った。支度ができると、王双は王訓のことを探した。しかし、どこにもいない。諦めて行こうかとしていると、娘が王双を見つけてやってきた。
「多分、王訓は恥ずかしがっているのですよ」
言った娘はさっきと違い、顔に薄化粧をしていた。王双はそれを見て、何故かどぎまぎとしてしまった。
「泣くと叔父上に怒られてしまうって、前に話してくれたことがあります。だから、会いたくないのかもしれません」
王双にはそれが無性におかしく、しかし右目が痛いため笑顔を堪えて声だけで笑った。娘もそんな王双の変な顔を見て、笑った。
政庁に着くとすぐに迎えがやってきて、曹真の副官である郝昭の部屋へと通された。軍務をこなしていた郝昭は驚いたように立ち上がり、王双に駆け寄って右手を取った。
「よく無事でいてくれた。いや、その様子では無事だとは言えんか。しかしよくぞ生き残ってくれた」
王双の来訪を、郝昭は思いの他喜んでくれた。
「戦は、どうなったのでしょうか」
「我々が勝ったのだ。蜀軍は涼州から撤退していった。詳しく話すから、まあ座れ」
郝昭は王双の背中に手を当て椅子に座るよう促した。
「曹真様は戦後処理で多忙なため、俺が対応することになる。お前が来たら、しっかりと礼を尽くせと言われているのだ。副官の俺で申し訳ないのだが」
王双は困惑した。自分は戦の結果を聞きに来ただけなのに、この男は何故こんなにも興奮しているのだ。
「こう言っては悪いのですが、何やら気持ち悪いですね。そんなこと、私が気にするわけないじゃないですか」
郝昭は身を乗り出し、王双の右肩を掴んで言った。
「お前は、趙雲を討ち取ったのだ」
「えっ」
そこで初めて何故自分がこんなにも歓迎されているのかが分かった。確かに手応えはあったが、そこまでの一撃だったのか。
「黒蜘蛛の調べによると、お前の一撃は趙雲の腹を裂き、その傷が膿んで絶命したのだという。街亭では、張郃軍が蜀軍本隊を撃破した。我々の大勝利だ」
言われても、何の実感も湧いてこなかった。自分はさっきまで、死んだように眠っていたのだ。とりあえず、勝てて良かったとは思える。
「なんだ、嬉しそうではないな。お前には、かなりの褒美が用意されているのだぞ」
「嬉しくはありますが、いきなりそんなことを言われましても、どんな顔をすればよいものかと思いまして」
「そんな顔をして、笑えん冗談を言うな。とりあえず今日は、これを持って帰れ」
郝昭はずっしりとした袋を手渡してきた。中を見ると、銀の粒がたくさん入っていた。
「これは、ちょっと多過ぎやしませんか」
王双は驚いた。驚くと、また右目がずきりと痛んだ。
「その目のことだ。それではもう戦場には立てまい。お前はよく働いてくれたよ。もう軍人は引退して、その銀で何か商いでもすればいい。これは、曹真様からのはからいだ」
軍から身を引く。今まで考えてもみなかったことだ。王訓を育てるため、軍人として働いてきた。これだけの銀があれば、もうその必要もないだろう。悪くないかもしれない。そう思うと、何故か薄化粧をした宿の娘の顔が思い浮かんできた。
「ありがとうございます」
銀の袋を手に、王双は部屋を出た。出ると、そこに夏侯覇がいた。張郃から可愛がられている、若い将校だ。
「王双殿、張郃将軍がお呼びなのですが」
「丁度良い。これから顔を見せようかと思っていたところだ。こんな顔で悪いのだが」
王双は傷ついた自分の顔を指さしながら言った。夏侯覇はそれを見て、呆れたような顔をした。
「あの、お体は大丈夫でしょうか。お疲れのようなら後日でも良いと将軍は仰っているのですが」
「なんの。軍人がこの程度の傷で弱音を吐いていられるか。さあ、案内してくれ」
夏侯覇に連れられ、張郃の部屋に通された。
「お前、大丈夫か」
見るなり、張郃は顔をしかめて言った。
「顔を動かすと痛いので、今日はずっと仏頂面です。ご勘弁くださいませ」
そう言うと、張郃は腹をかかえて笑い出した。王双も笑いたかったが、痛いのでぐっと我慢した。
夏侯覇が、塩をふりかけた瓜が並んだ皿を王双の前に差し出した。王双はすすめられるまま、それを食った。食うと、口の中に瑞々しい甘みが広がり、美味かった。そして張郃からは労いの言葉をかけられた。おかしな気分だった。戦の帰趨を聞きにきただけで、こんなに厚遇されようとは思ってもみなかったのだ。
「俺は蜀軍の本隊と対峙している時、曹真殿の苦戦だけが気がかりだった。それをお前は、よく打破してくれた」
「岩山に拠っていた蜀軍の意表を上手く突けたと思います。私の気がかりだった蜀の隠密部隊も、本隊の方に付随していたようですし」
「趙雲は敵ながら天晴れな将であったが、万能ではなかった。お前らは敵の弱点を見抜き、最高の仕事をしてくれた」
言われて嬉しかったが、王双は顔を崩せずにいた。目が痛いというのに、この人は自分のことを喜ばせてくる。困った人だと王双は思った。張郃はそんな王双を見て、ただにやにやとしていた。
「蜀軍の本隊は、やはり強かったですか」
「大したことはなかった。敵の大将は、人を使うことが不得手のようだ。この若造ですら、初陣だというのに敵将の首を一つ奪った」
「それはすごい」
王双は心からそう思ったが、言われた夏侯覇は当然だという顔をしていた。これを見れば傲慢だと言う者もいるかもしれないが、若い将校はこれくらいで丁度良い。
「ところで王双」
張郃が言った。
「王平という者のことを知っているか」
意外な名前が出て、王双は瓜を食う手を止めた。何故その名が、この場で唐突に出てくるのだ。
「知っているもなにも、昔の私の上官です」
「そうだよな。昔、曹操様の提案で手合せしたことがある。違うか」
「その通りです。その時は、将軍に散々にやられてしまいましたが、それが何か」
「その王平とやら、蜀軍にいたぞ」
「えっ」
「良い騎馬隊を率いていた。あやうくこいつは首を奪られかけたほどだ」
張郃は、嫌そうな顔をする夏侯覇の尻を叩きながら言った。
「あの、同じ名前だったということでは」
銀の袋を握る手が、細かく震え始めた。
「こいつが討たれそうになった時、近くで見たのだ。あの顔は、確かに見覚えがあった」
「そうですか」
王双は、仏頂面のまま答えた。
「軍にいると、様々な縁があるものだな」
王双は、やはり仏頂面のままでいた。しかしそれは、本当に思い悩んだ顔だった。このことは、王訓にも伝えるべきか。伝えたところで、自分は何ができるのか。張郃と夏侯覇がまだ何か言っているが、全てが上の空で頭には何も入ってこなかった。
日が暮れはじめ、王双は夏侯覇に付き添われて政庁を出た。褒美をもらえたことは素直に嬉しかったが、王平のことは衝撃的だった。生きていてくれて嬉しいという想いはあるが、それ以上に理不尽だという思いが心に湧いた。王訓と妹を置いて、あの男は今まで何をしていたのだ。
隣を歩く夏侯覇がしきりと王平の話を聞きたがっていたが、王双はそれに空返事をするだけだった。妹の歓は、王平が死んだと思っていた。そしてそれを気に病み、死んでいったのだ。
王平のことを恨むつもりはない。王平には王平なりの事情があったのだろう。しかし、やはりやりきれないものはあった。顔をくしゃくしゃにして泣いていた妹のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられるのだ。
宿に向かって市中を歩いていると、髪飾りを売っている店があった。そういえば、妹は王平に髪飾りを買ってもらい、喜んでいたことがあった。王双はその店の前で足を止めた。
「なあ」
空返事ばかりする王双に閉口していた夏侯覇も足を止め、怪訝そうな顔をした。
「なんでしょうか」
「女は、どれを喜ぶと思う」
不意にそんなことを言われ、夏侯覇は顔はにやりとした。
「女性への贈り物ですか。王双殿も、隅に置けませんな」
「そんなことではない。俺のことを看病してくれた娘がいるのだ。その娘のことは、名も知らん。これは、その娘への礼だ」
本当にその娘への礼なのか、妹に対する罪の意識がそうさせているのか、王双にはわからなかった。
「ご自分でお選びなさいませ。私が選んでも、それは意味のないことでしょう」
「そんなものなのかな」
王双はしばらく店の前に立ち、並んだ髪飾りを睨んだ。残った左目で、一つ一つをじっと見た。既に辺りは暗くなり始めている。店主のおやじが嫌な顔をし始めた頃、王双はその中で一番派手な髪飾りを手に取った。
「これなんか、どうだ」
「それでいいと思いますよ」
夏侯覇が半笑いでそう答えた。
「そうか、ならこれにしよう。おやじ、長々と悪かったな」
王双は袋から銀を一粒取り出し、おやじに投げた。おやじは驚いていたが、王双は黙ってそこから立ち去った。
「気前が良いですね」
「まあ、こんなにあるしな」
そう言って笑うと、また右目に激痛が走った。
これで、あの娘は喜んでくれるだろうか。そんなことを考えると、銀一粒の価値などどうでもいいように思えた。
宿につくと、王双は夏侯覇に礼を言って別れた。宿の入り口に、王訓の姿があった。王双が右手で銀の袋を掲げて見せると、王訓は走り寄って王双の腰に抱きついた。もう暗くなっているので、王訓が泣いているのかどうかは分からなかった。こいつにも、何かうまいものを食わせてやろう。王双は、そう思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?