王平伝 6-11

 兵の徴募に人が集まりにくくなっていた。この大陸から、人が減っているのだ。

 平時には気にもならないことだが、乱世が続き、それが目に見えてわかるようになっていた。

 人が減れば税収が減り、徴兵できる頭数が減り、それは国力の衰退に直接つながってくる。外敵からの侵略を受け易くなるということだ。政を成す上での最大の焦点はここであると、司馬懿は思い定めていた。

「人とは愚かなものだ。こんな状況になっても、まだ戦をやめようとはせん」

 司馬懿は長安政庁の執務室にあり、息子の司馬師を前にして言った。

 昨年までは朝廷のある許昌に弟の司馬昭と共にいたが、対蜀戦の最前線である長安を見せてやろうと呼び寄せたのだった。

「この長安を見てどう思うか、言ってみろ」

 久しぶりの父を前にして緊張しているのか、司馬師は微かに顔を強張らせていた。

「先ず、人の多さに驚きました。許昌からここへ来るまで、数々の荘や村を見てきましたが、こんなにもかと思うくらい人がいませんでした。なのにここは、許昌と同じくらいに人がいます」

 良い所を見ている、と司馬懿は思った。今の世で人の多寡を気にすることは、かなり大事なことだ。

「長安には、富があるのだ。銭という、富だ。それを求めて人は集い、物流は盛んになり、またその物を求めて人が来る。そしてその人の集まりは、そのまま力となるのだ」

 司馬師は頷きながら聞いている。

 司馬懿は、長安の太守として、銭を鋳造する権利を得ていた。平時ではありえないことだが、蜀の侵攻に備えるためという名目で、自分の思うように銭をつくることを許されているのだ。それは想像していたものより、ずっと大きな力だった。

「人が何かを成すには力が要る。その実質的な力が、軍による武力と、銭による資金力だ。この二つの力は、表裏一体だと言っていい。銭が無ければ武力となる人は集まらず、また人が集まらなければいくら銭があっても意味はない。一人の武勇を信奉する愚か者は未だ朝廷内にいるようだが、お前はどうかな」

 この息子が、そんな信奉者の一人であることを、司馬懿は見抜いていた。無理もないのだ。戦の無い地で談話のような知識に身を浸してしまえば、人は誰でもそうなる。先ずは、それを洗い流してやることだった。

「私は」

「答えはよい。雑務にまみれるのだ、司馬師。今まで得てきた学は、全て絵空事だと思え。その絵空事を、本当のものだとは思うな」

 親の権力にすがり、つまらない男に育ってしまう二世は少なくない。前の長安太守であった夏候楙がそうだった。自分の作る新しい世は、息子を立派に育て、継がせたかった。

 司馬懿は、司馬師に辛毗を呼ばせた。

 やってきた辛毗は、どんな質問にも答えられるように、複数の竹簡を両手に携えていた。

「長安の物価はどうなっているか言え」

 司馬師を隣に座らせ、司馬懿は言った。

 辛毗は手の中から一つを選び、一つ大きく息を吸って言った。

「食物の値が上がっております。昨年と比べれば、穀物の値段はもう倍以上です。それでも城内に住む民にはまだ餓死者が出ておりませんが、城外に移ってくる者らは欲しいものが買えず、罪を犯す者が増える傾向にあります」

 良い傾向だった。治安が乱れることは看過できないが、それは周りから人が集まってきている証拠でもある。民の居住区は長安城郭内だけでなく、城外にもあり、それがここのところ広がり続けていた。

「その解決策を言ってみろ」

 また、辛毗が大きく吸い込んだ。

「城外にも、銭が行き渡る仕組みを作るべきだと存じます。人を徴募し家屋を建てて安い市を開かせ、そこで働く全ての者に銭を払います。また軍市も拡張すべきです。税の安い軍市があれば兵になりたがる者は増え、兵が増えればさらに銭の流れが捗ります」

 銭の流通促進と、兵力不足の解消のどちらにも着眼した、良い案だと思えた。

「よろしい。それに加え、兵に治安維持のための巡回をさせろ。その分の銭もしっかりと払ってやるのだ。罪を犯した者を捕らえた時も、幾らか払ってやれ。そしてその役目は、長安に長く住む兵にやらせろ」

「御意」

 言って、辛毗は一礼して出て行った。

「地味なものであろう。お前の知っている絵空事の大将軍に比べれば、つまらんものだとは思わんか」

 隣の司馬師に向かって言った。

「一つ、質問があるのですが」

「何だ」

「犯罪人を捕らえる毎に銭を払うということをやってしまうと、銭の欲しさから冤罪を起こす兵も出るのではないですか」

 書の上だけで学を積んだ優等生らしい質問だ、と司馬懿は思った。都の太学では、こういう考えは喜ばれるのだろう。それは、正しておかなければならない欠点だ。

 司馬懿は、司馬師の頬を唐突に張った。

「だから、どうした」

 司馬師が頬に手を当てながら、意外という顔をしていた。

「兵に罪人を捕らえることを奨励するのは、手段の一つであって、目的ではない。ではこの手段は、何の目的にあるか、言ってみろ」

「城外の治安維持のため、ですか」

 司馬師が自身なさげな声で呟くようにして言った。そこを、また一つ張った。

「それが絵空事だと言っている。治安を守ることが、ただいたずらに良いことであると思っているな。なるほど平穏な許昌ではそれで良いのであろう。しかし環境も戦略的価値も違うこの長安でそれがどんな意味をもたらすか、お前は少しでも考えたか。治安維持という言葉は良い言葉だ、だからやる。冤罪という言葉は駄目な言葉だ、だから防ぐ。お前の頭の中はその程度のものだろう。それ以上の思考はない。考えようともしていない」

 言われた司馬師は、ただ項垂れていた。

「第一の目的は、銭の流通を増やすということ。何故か。人を増やすためだ。何故か。兵力の増強が必要だからだ。何故か。蜀が攻め込んでくるからだ。やること全てには、何故があるものだ。それを考えることもせず、耳触りの良い言葉だけを選び、行う。これは為政者としての罪だ。そういう質問が口から出るということは、お前が正に絵空事に惑わされているという証だ」

 頬を張られた司馬師は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。よほど生温い平穏の中で、今まで温々と育てられてきたのだろう。

「お前は、長安を蜀から守りたいと思うか」

「それは、思います」

 か細い声で、司馬師が答えた。

「声が小さい」

「思います」

「その思いを、この長安にいる誰しもが持っていると思うな。長安に代々住む者ならまだしも、城外に集まる民に、そんなものはない。蜀が攻めてくればまたどこかに流れればいいと思っているような連中だ。忠節だとか、礼だとか義だとか、そのような特別なものが皆無な者には、欲しかないのだ。欲しかない者は、他人から奪うことを厭わず、欲のためには国を売ることもする、虫けらのようなものだ。為政者がそんな虫けらに阿るような感情を持ってはならん。いいか、儂はとても大事なことを言っている。欲しかない者は、人の形をした虫けらだ。その虫けら共に我らが阿ってしまえば、世が崩れてしまうのだ」

「わかりました」

「何が、わかった」

「人には、欲望しかない者がいるということです」

「そうだ。そして世にいる大半が、そういう者なのだ」

 司馬懿は大きく頷いて言った。

「欲ばかりの者らを統制することが、政だ。長く長安にいる者に巡回させるのは、奴らの中に、自分の住む街を守りたいという気概があるからだ。しかし中には、欲しかない者もいる。そういう者は冤罪を起こすだろう。冤罪を起こさせることで、欲しかない者を炙り出し、厳刑によって処罰する。そうやって人の世は、浄化されていくのだ」

「はい」

「儂の下にいる間は、お前が絵空事を見せる度に、頬を張る。覚悟しておけ」

 言われた司馬師の目は、不安に満ちていた。親として情けないことだが、これはなんとしてでも、できるだけ短い間に矯正しておかなければならないことだ。

「儂からの話はここまでだ。持ち場に戻り、役目を済ませてこい」

 司馬師は顔を俯けながら返事をし、逃げるようにしてそこから出て行った。

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