王平伝 5-4

 雲間から覗く太陽が、走る魏延の背中を焼いていた。

 魏延は兵の中に混じり走っていた。二十歳そこそこの兵が多い中でもう四十を幾つか越えた魏延の体力は厳しいものがあったが、険しい漢中の山中を、若い兵たちの先頭で走った。それは諸葛亮から命じられたことではない。文官達からも認められるような仕事ではなかった。それでも、魏延は全身を汗まみれにさせながら走った。

 自分にできることは、戦だけなのだ。しかし諸葛亮は、戦で自分のことを進んで使おうとはしなかった。前回の戦でも、漢中軍を率いたのは自分ではなく、王平だった。

 戦で重要されないことに、強い不満を感じていた。そして不満である以上に、不安だった。戦で自分の存在意義を示すことができなくなってから、時が経つにつれ自分の発言力が減っているという気がする。昔はよく王平が酒を飲みに訪れてきたが、今ではその機会はほとんどなく、王平は自分の部下らとよく飲んでいた。互いに忙しいのだということは分かっていたが、どうしても軽視されていると感じてしまうことがしばしばあるのだ。

 戦に出られない分、調練に打ち込んだ。体力を付けるための駆け足では、常に先頭を走っている。走ることで、少しでも不安を打ち払おうとした。

 魏が、蜀に攻め込む構えを見せていた。今度こそ、自分も先頭に立って戦いたい。このところ体に老いを感じることがあるが、まだ戦える。十万の軍勢を動かす自信はないが、三万までなら誰よりも上手く動かせる自信はあった。戦場で死ぬことが恐いとは思わない。自分が老いぼれてしまう前に、思い切り戦いたかった。魏延ここにありと、兵の中で高らかに叫びたかった。

 戦が近づいていた。

 兵を休ませておけという命令が魏延の元に届いた。いかにも現場を知らぬ文官らしい馬鹿げた命令だと思った。魏延は、その命令を無視した。ここで兵を休ませれば、兵の気持ちは萎えてしまう。気持ちが萎えれば、いくら体力があっても戦で力を出すことはできないのだ。大事なことは、兵を徹底的に疲れさせることだった。そしてその先頭には、常に指揮官である自分が立たなければならない。

 調練が終わり自室に戻ると、魏延は従者に夕餉を運ばせ一人で食事を摂った。さすがにこの年になってからの激しい調練は体に応え、食ったものを戻してしまうこともあるほどだった。それは決して部下には見せることのできない姿である。

 次の作戦のため、魏延は諸葛亮に呼び出された。その日は全軍に休暇を与えたが、兵の顔に喜びの色はない。休暇は楽しむためにあるのではなく、次の調練に備えるためだという気に満ちている。それを見て、魏延は内心満足していた。強い軍に仕上げることができた。これなら、いつでも戦で力を出しきることができるだろう。

「顔色が悪いではないか、魏延」

 通された一室で、諸葛亮が顔をしかめさせて言った。

「兵を休ませろと伝えたはずだ。何故、言うことを聞かん」

「お言葉ですが、丞相。今は兵を休ませるわけにはいきません。魏との戦は、まだ終わってはいないのですから」

「そうは言っても、次の戦に備えて力を付けねばなるまい」

「その力とは、気持ちから湧いてくるものです。兵を休ませるのは、魏を討ってからです。それまでは、兵の気持ちを緩ませてはならんのです。緩ませれば、それは負けにつながります」

 諸葛亮の目が、じっと魏延を見つめてきた。魏延はふと気づいた。この男の顔も、やつれているではないか。なるほどこの文官の親玉も、自分とは違う所で戦っているのかもしれない。そう思うと、無性におかしくなってきた。

「丞相殿も、大分お疲れのようで」

 親しみを込めて言ったつもりだったがそれは無視され、魏延は閉口した。諸葛亮は卓に地図を広げ始めた。この男の、悪いところであった。

「昨年奪った西方の地で、大規模な屯田が行われていることは知っているな」

「はい」

 知っているもなにも、その屯田に回されているのは自分の部下の一部だった。

「魏軍の侵攻に備え、お前はそこに入れ。永安の李厳も、二万と共にそこだ」

「戦になれば、全軍の指揮はどちらに」

 魏延にとっては、それが一番大事なことだった。

 しばらく間を開け、諸葛亮が口を開いた。

「お前だ」

 魏延は心の中で、よし、と呟いた。

「軍師は、李厳。道案内にはその一帯に詳しい馬岱を付けよう。お前が率いる三万の内、二万を連れて行け。一万は、漢中で後詰だ」

 永安の二万を含め、四万であたれということである。できれば全ての部下を連れて行きたかったが、文句は言うまいと思った。

 ようやく戦ができるのだ。

「何か、異論はあるか」

 諸葛亮のその言葉には皮肉がこめられているようにも聞こえたが、魏延は気にしないことにした。

「ありません」

 その瞬間、諸葛亮は一瞬ほっとしたような顔を見せた。この男も、疲れているのだ。それからしばらく細かいところの話を詰め、魏延は部屋を後にした。

 帰り際の廊下で、楊儀と出会った。前の戦で自分ではなく王平を使おうと言ったのはこの男であると、小耳に挟んだことがある。自分の姿を認めた楊儀が、気持ちの中で構えるのが見てとれた。

「楊儀殿」

 魏延は手を上げ、顔に笑みを作って話しかけた。今は、我々が不仲になるべきではない。

「お前のことは、信頼しているぞ。今回の戦での兵站線は、実に見事なものだ」

 そこでようやく、楊儀の心がほぐれたように見えた。難儀なことであった。しかし自分の命令に従い死んでいってくれる兵達のためにも、蔑ろにはできないことであった。

「私は、与えられた仕事をこなしただけです。褒められるべきでは私ではなく、丞相であるはずです」

 自分と丞相が不仲だと知っているこの男は、婉曲にそのことを非難しているのかもしれない。そう思ったが、聞き流した。

「兵の調練は上手くいっている。次の戦で、あいつらは大いに力を発揮してくれることだろう。俺が保証するぜ」

「しかし魏延殿。丞相からは兵を休ませろと言われているはずです。それを無視するのは、いかがなものかと思いますが」

「そのことも、さっき丞相と話してきた。今は兵を休ませるのではなく、気持ちを切らさないことが大事なのだ。兵の扱いは、俺に任せてくれ」

 そう言ったが、楊儀の顔は納得しているようではなかった。

「それは結構なことです。兵の扱いにかけては私なんかよりも魏延殿の方がよほど長けているのですから」

 鼻につく言い方だった。知りもしないことを、あたかも全て知っているかのような言いぐさだ。魏延は、文官のこういうところが嫌いであった。

「私は戦については武官であるあなたにおよぶはずもありません。しかし戦では兵の心は一つであるべきだということくらいは、理解しているつもりです」

 こいつ、本当にわかっているのか。そう思ったが、顔には出さないよう努めた。

「後方を任された者の身としては、前線で兵の心がばらばらにならないかということが心配です。くれぐれも、兵を虐め過ぎぬよう」

「おい」

 言い終わらぬ内に、魏延は遮った。

「俺が、兵を虐めているだと」

 聞き捨てならないことだった。いけないことだと分かっていたが、かっと頭に血が上った。魏延は、楊儀の胸ぐらを掴んだ。

「お前は、兵達が調練に励んでいるのをその目で見たことがあるのか。厳しい調練を課しても、あいつらは俺のことを信頼して従ってくれるのだ。お前の頭の中では、俺達の姿はどうなっているのだ」

 胸ぐらを掴む左手に力を入れると、楊儀は顔を歪めた。歪んだ顔は、怯えに満ちている。こんな奴に兵達の命運が握られているのか。そう思うと、魏延の心の底からは怒りがふつふつと湧いてきた。

「魏延殿」

 通りがかった費禕が二人の間に割って入ってきた。魏延は、楊儀を掴んでいたその手を放した。

「何があったのか知りませんが、ここは私が話を聞きましょう。どうか、ここは落ち着いて」

 焦る費禕が、早口で言った。その後ろでは、楊儀が咳き込みながらこちらを睨んでいる。

「違うのだ、費禕。この男が俺のことを侮辱するから」

「わかりました。さあ、楊儀殿も早く行かれよ。魏延殿、お茶でも飲みましょう。不満は私が聞きますので」

 魏延はうんざりした。それでも少しやり過ぎたかと思い、費禕に促されるままにその場を離れ、出された茶を一息で飲んだ。飲むと、いくらか落ちついた。目の前では費禕が何かを言っている。それに対して、魏延は適当に相槌を打った。

恐らく自分は、今のことでまた文官達から嫌われてしまうだろう。もしかしたら、この一件で次の戦がまたやりにくくなってしまうかもしれない。頭にあるのは、そればかりであった。

 自分は、自分の名誉のために、そして部下たちのために怒ったのだ。そこに、何の落ち度があるのか。魏延は自分にそう言い聞かせた。

 目の前では、一人の文官がまだ何かを喋っている。

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