王平伝 5-9
雨の匂いが濃くなってきた。句扶はそれを、全身で感じていた。
魏軍兵士は、わずかな数を残して陣から離れていた。戦が始まったのである。今頃楽城では、王平率いる蜀軍が、魏軍を迎え撃っているはずだ。
句扶は襤褸姿のまま木に登り、枝から枝へと移って前線へと身を運んだ。前線には、王訓が連れて行かれているはずである。ならば奪還する機を見つけ出し、漢中へと連れて帰らなければならない。
楽城手前の山麓に、魏軍は布陣していた。楽城の防備を目の当たりにし、攻めるのを躊躇っているのか。それにしては、陣内の兵らが賑々しい。
雨が強くなり始めていた。これはこの蜀軍と魏軍陣内に忍び込んだ蚩尤軍に味方してくれるはずだ、と句扶は思った。
雨に紛れ、王訓の位置を探った。呼吸を整え気配を消せば、そうそう見つかることはない。諸葛亮の下で暗殺をしていた頃から、その技は積んでいるのだ。雨が降り、兵らが賑々しい分、容易に近づくことができた。
王訓のことを探っている内に、賑々しさの正体が分かってきた。この陣と楽城の間にある原野で、騎馬戦が行われているのだという。
句扶は歯噛みした。恐らく、王訓が何らかの形で使われ、王平が城から釣り出されたのだろう。普通に考えれば、ここは籠城の他なかった。
句扶は高所に身を移し、木に登って眼下の原野を見下ろした。ほぼ同数の騎馬隊が、火花を散らしながらぶつかりあっていた。夏侯の旗が、懸命に王の旗を追っていた。戦況は、ほぼ互角か。
見入っている場合ではないと句扶は思い直し、辺りを見渡した。見つけた。少し小高くなった場所に、檻に入れられた王訓の姿があった。王平はこれを見て、城から出ることを決意したのだろう。
句扶はするすると木を下り、王訓の方へと走った。檻の周囲には護衛があるため、斬り込んでいくわけにはいかない。先ずは、魏軍に紛れ込ませている手の者に、自分の意思を伝えることだった。
句扶は茂みから茂みへと獣の様に移動しながら、手の者を見つけ次第、懐にあった小さな鉄の棒を打った。蚩尤軍だけが分かる、秘密の合図である。打つ回数と間隔で、集合場所と刻限を伝えることができた。伝わったのは、その者が示す指の形で分かるようになっていた。そうやって、十人に伝えた。まだ紛れ込んでいる手の者はいたが、それ以上は目立ち過ぎるため、控えておくべきであった。
そうしていると、陣内から一際大きな喚声が上がった。魏軍騎馬隊が勝利したという声が、句扶の耳に入ってきた。句扶はさすがに息を飲んだ。王平は、無事なのか。
しばらくして敵将は逃したと残念がる兵の声が聞こえ、句扶は胸を撫で下ろした。句扶は王訓奪回に集中すべく、頭を切り替えた。
王訓が入れられた檻が、後方へと運ばれ始めた。近くに黒蜘蛛が潜んでいる可能性が高いため、できるだけ距離を取りながら句扶はその檻を追った。
檻はやはり、句扶が目を付けていた小屋に曳かれていった。どうやら、思っていたような罠はなさそうだ。
鉄の音がした。さっきの合図で、一人をここへ呼び出していたのだ。句扶は目でその者に合図をし、小屋の監視を任せてその場を後にした。
兵が陣営に帰ってこないところを見ると、これから勝ちに乗じた魏軍は楽城へ攻め込むのだろう。雨が降り続いている。この雨が大地を水浸しにしてしまう前に攻めきってしまおうという判断は、指揮官として当然のことだ。
しかし、それに対する心配はない。あの城と王平がいれば、あそこは十分に守りきれるはずである。
それよりも、気になることがあった。魏軍陣営内の、糞溜めである。雨が降れば溢れるはずのそれは、魏の兵士として紛れている蚩尤軍によって幾つも作られてあった。
蚩尤軍が作った糞溜めは、山の斜面を伝って集まる雨水を飲み込み、既に溢れようとしていた。溢れた先には、魏の兵士が起居する宿営地がある。楽城を攻めきれず戻ってきた兵は、汚物に塗れた自分の寝所を見て愕然とすることだろう。これが、蚩尤軍の戦であった。
句扶は茂みに身を隠し、雨に打たれて時が来るのを待った。日が落ち、辺りが暗闇に包まれた。句扶の体を洗っていた雨が止んだ。止んだところで、句扶の皮膚からじわりと汗がにじんできた。暑い夏の盛りである。滲んだ汗は脂となり、句扶の小さな体を包んだ。この感じが、句扶は嫌いではなかった。自分が人でなく、獣になる瞬間だ。いや、それは、人という獣だった。この時に句扶は、生きていると強く実感できるのだった。
闇が濃くなると、句扶の足元の地が小さくもぞもぞと動き、小さな手で土をかきわけて蝉の子が姿を見せた。それはゆっくりと地を這い出、木に登って背中を開き、まだ白くて美しい羽を広げ始めた。句扶はそれをじっと見つめながら、時を過ぎていくのを待っていた。
約束の刻限が近づくにつれ、手の者が一人二人と集まってきた。その内の一人から、飛刀を連ねたものを受け取り、肩からかけた。見張りに残した一人を除いた全員が集まると、句扶を始めとする一団は王訓のいる小屋へと向かった。
暑さが、雨を霧へと変え始めていた。好都合であった。闇の組織である蚩尤軍は、視界がなくとも移動に支障はない。ましてや、ここは蚩尤軍の庭のようなものなのだ。
四刻かけ、句扶らは見張りを立てていた場所に達した。黒かった霧は、徐々に乳白色を得始め、それを喜ぶかのように蝉が鳴き始めた。
句扶は見張りに向かって鉄の棒を打った。しかし、返事がない。句扶がその見張りの肩に手をかけると、既に物となっていた見張りはそのままの格好で横に倒れた。
「散会」
句扶が低く命じると、手の者は四方に散った。句扶は目まぐるしく頭を働かせた。目論見は露見していたのか。ばれていたとしたら、王訓は既に他の場所に移されている可能性がある。しかし、退くべきなのか。
霧に包まれた周囲から、一つ、二つと気配が現れた。踏み込むべきだ。考えるより、体がそう言っていた。
一つの気配に飛刀を放ち、もう一つに肉薄した。霧の中に現れた顔が、句扶の姿に驚愕していた。句扶はそれを、素早く斬り払った。
敵は、霧の中の蚩尤軍を捕らえきれていない。句扶はそう確信した。周囲に散った手の者も、霧の中で敵と戦い始めた。
句扶は王訓のいる小屋の方へと走った。殺気。句扶は地を蹴り後転し、同時にその方へ飛刀を放った。霧の中で、一つ呻きが上がった。蹴った地には、敵の放った飛刀が突き立っていた。
左目を抉ってから、自分でも不思議な程に五感が研ぎ澄まされていた。それは今までになかった程であり、不思議という他なかった。霧の中でも、敵と味方の動きが手に取るように分かるのだ。
走るままの勢いで、小屋に飛び込んだ。中は、まだ霧に侵されてはいなかった。寝台の上で王訓が、眠そうな眼を左手で擦っていた。
「王訓」
句扶は叫んでいた。王訓は移されてはいなかった。
状況を飲み込めていないという顔をする王訓に駆け寄り、目を擦っていた左手を引いた。
引いたまま小屋から飛び出そうとした瞬間、外の乳白色が盛り上がり、鋭いものが胸にきていた。
油断した。そう思った時は、全てがゆっくりしたものに見えていた。体を捻ったが、もう間に合わない。左胸に、重いものがきた。痛いのではなく、重い。話には聞いていたが、これが斬られるということか。乳白色の中から、笑った郭奕の顔が現れた。同時に、句扶も郭奕の足に刃を突き立てていた。
胸を突かれたが、体はまだ動く。突かれて崩れる郭奕を尻目に、句扶は王訓を担いで走った。こうなれば、体が動く限り走るまでだ。走れなくなれば、あとは蚩尤軍の誰かに任せればいい。
句扶は、走りながらにやけていた。胸を突かれたというのに、意外と走れるものではないか。ある程度走ったところで、句扶は異変に気が付いた。突かれたはずの左胸から、さほど血が流れていないのだ。
五感が研ぎ澄まされているだけでなく、体まで鋼になったというのか。そんなことが、あり得るのか。
句扶は蝉の鳴く霧の中をひた走り、山肌にひっそりと口を開けた洞穴に身を隠した。山中に幾つか備えてある、蚩尤軍の拠点の一つである。追手の気配は、もうない。
句扶はそこで初めて王訓を降ろした。胸には、かすり傷が一つあるだけだった。そこからの出血も、もうほとんど止まりかけている。
郭奕の一撃が捉えたのは、懐にしまっておいた劉敏の眼帯であった。それを取り出すと、そこに模られた蚩尤が大きく傷ついていた。その傷ついた蚩尤の顔は、なんとなく笑っているように見えた。
「句扶さん」
言われて、句扶ははっとしてその眼帯を懐に捻じ込んだ。
「苦労をかけおって。この洞穴には食料も湧水もある。しばらくここで身を隠すから、そのつもりでいろ」
言われた王訓は、俯いていた。
句扶は気にせず、岩肌にごろりと身を横たえ、王訓に背を向けた。
「眼を、どうされたのですか」
「腹が減ったから、食った」
背を向けたまま答えた。
目の前の岩肌から、湧水がちょろちょろと流れている。句扶はそれを少し手ですくい、口に含んだ。
「どうして、俺のことを助けにきたのですか。あの人は、俺のことを嫌っているはずです」
背中の向こうで、王訓が言っていた。王訓は王平のことを、父とは呼ばず、あの人と呼んでいた。それは、いつものことだった。
「何故そう思うのだ」
句扶は、王訓の方へ首だけを回しながら言った。
「俺が、あの人のことを嫌っているからです。俺の父は、叔父上でもある、王双という人です」
「痴れたことを」
句扶は振り向けた首を戻し、目を閉じた。さすがに体が疲れていた。しかし眠りに落ちようかという時、背中から啜り泣きが聞こえてきた。
句扶は眉をしかめながらも、仕方なくまたそちらに首を向けた。
「男がそのようにして泣くな。そんなに漢中に帰るのが嫌なのか」
「漢中に帰っても、俺は自分がどうしたらよいのか分かりません」
王訓は自分の膝の中に顔をうずめながら言った。
「なら、黒蜘蛛に捕らえられたままで良かったとでも言うのか」
「郭奕という人は、俺に親切にしてくれました。檻に入れられた時はどうされるのかと思いましたが、その時も、大丈夫だからと何度も言ってくれました」
「酷いことはされなかったのか」
顔には出さなかったが、その言葉を聞いて句扶の胸は安堵した。
「俺にはいつも、叔父であり、父であった、王双という人のことを話してくれました。戦場では、いかに勇敢であったかということを」
「漢中に帰るのが嫌なのではなく、王平殿のところに行くのが嫌なのだな」
「あの人は、俺たちのことを捨てました。そんな人を前にしても、俺はどうしていいのかわかりません」
しばらく、沈黙が続いた。その間も、王訓はずっと啜り泣いていた。
句扶は寝ていた身を起こし、纏っていた上衣をはだけて見せた。
「王訓、この傷が何だか分かるか」
王訓は泣くのを止め、怪訝そうな目を向けてきた。
「戦で負った傷ですか」
「これと、これは、そうだ。この左胸の傷は、さっき受けたものだ」
句扶の体には、無数の傷跡があった。
「俺が言っているのは、こういう小さな傷跡のことだ」
言いながら、句扶はその一つ一つを指差した。王訓は、分からないという顔をしていた。
「これらの古い傷は、俺の父親にやられたものだ」
王訓が、ごくりと唾を飲むのが分かった。もうその眼は泣き止み、次の言葉を待っている。
「お前が思っているように、子を生すということは、或いは残酷なことなのかもしれん。俺は幼い頃から、実の父に虐げられ続けていたのだ。その傷は、いつまでも消えることはない」
「そんな」
「俺は、言葉を失った。言葉を発することで、父から蹴られ、殴られ続けたからだ」
王訓が、悲しそうな眼でこちらを見ていた。
「その父とは、どうなったのですか。仲直りはできたのですか」
「殺したよ」
王訓がはっと息を飲んだ。
「俺のことを犯し疲れ、寝入ったところで、首をかき切った」
王訓は言葉を失っていた。犯し疲れ、というところは、正確には理解していないようだった。
王訓が、また目に涙を溜め始めた。その涙は、さっきのものとは違うもののように見えた。
「俺は飯を食うために、蜀軍の兵糧庫で働くこととなった。そこに行けば、飯がたくさんあると思ったからだ。そして、そこでお前の父と出会った。王平殿が十五の時で、俺は多分、十一か十二くらいだったと思う。多分というのは、俺は自分がいつ生まれたか知らんのだ」
「その時のあの人は、どんな感じだったのですか」
「優しい人だったよ。無愛想な俺にも、本当に良くしてくれた。川魚の捕り方や、葉の船の作り方を教えてもらった。ささやかなことだったが、楽しいことだった」
「俺の母とは、どのようにして出会ったのですか」
王訓が、矢継ぎ早に聞いてきた。
「それは、知らん。王平殿は魏軍に連れ去られ、俺は成都にいたからな。その時に、お前は生まれたのだ」
そこまで言うと、句扶は洞穴の奥から干し肉を二つ持ってきた。一つを王訓に渡し、二人並んで壁に背を預け、ちびちびとそれを食った。
「俺はお前が羨ましいよ。俺の親父は、あんな人が良かった。お前は、贅沢者だ」
薄暗く静かな洞穴に、句扶の声が響いていた。言うと、また句扶はごろりと横になり、目を閉じた。
つまらないことを話したという気がする。と同時に、心の中が少し軽くなったという気もする。
王訓は何も答えず、黙って干し肉を口に運んでいた。
まだ何か聞きたいという風であったが、それは無視した。あとのことは、王平から直接聞けばいいのだ。
なんとか王訓の奪回に成功した。句扶はその安堵と疲れから、すぐに眠りに落ちていった。
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