王平伝 7-6
魏延率いる三万五千が馬冢原を放棄したという報が入った。司馬懿はすかさず四万を率いる費耀に馬冢原を固めるよう命じた。
息子の司馬師を使者にしたのは、特に戦略的な意味があったわけではない。都の安穏とした空気にどっぷりと浸かっていた司馬師を戦の最前線に立たせてやろうと思ったのだ。敵陣に乗り込みそこで殺されたのなら、それはそれで仕方の無いことだと思い定めていた。こんなことで死ぬのならば、この先も大して長くはないだろう。過保護にし、無能さを克服できないまま歳を取り、世に害を為す者に育つくらいなら、ここで諸葛亮に殺させておいた方がいい。
だが司馬師は役目を果たして戻ってきた。同行させていた黒蜘蛛が、諸葛亮に脅され小便を漏らしていたと報告してきて呆れたが、それでも父としてほっとしているところはある。
「我らは兵を失わずして馬冢原を取れた。これが何故かわかるか」
司馬懿は炭で温められた幕舎内で、司馬師に尋ねた。質問の意図を考えあぐねているのか、左目の下にある黒子をひくつかせながら司馬師は答えた。
「やはり蜀軍は、あの地に兵糧を運び込めていなかったのでしょうか」
馬冢原の包囲を進めている時、西から兵糧輸送の部隊が馬冢原に向かっていたと、偵察に出していた郭淮が報告してきた。それでもしやと思うところはあったのだ。
「諸葛亮がこうも簡単に兵を退いたということは、或はそういうことなのかもしれない。しかしそれは不確定要素だ。儂の言いたいことはそういうことではない」
意に則する答えができなかったと思ったのか、司馬師は顔を強張らせ、さらに考え込む表情を見せた。もっと考えろ、と司馬懿は心の中で念じながらその顔を見ていた。
司馬懿は地図上に置かれた一つの駒を手に取り、こつこつと卓を鳴らした。費耀の四万を意味する駒だ。
「諸葛亮がこちらの提案を入れたのは、ここにこの兵力があったからだ。干戈を交えさせることだけが兵力の使い道ではない。兵と兵の肉体をぶつけ合わせ勝敗を決する戦の時代はもう終わったのだ。この強大な武力を背景に相手にこちらの言い分を飲ませる。これが軍の使い方というものだ」
「はあ」
気の無い返事をする司馬師の顔を、司馬懿は横目でちらりと見た。どこかに不満を漂わせているその顔は、諸葛亮に直接会って交渉を成立させたのは自分の手柄であると、遠回しに訴えてきているように見えた。
「おい、お前」
不機嫌さを籠めたその声に、司馬師ははっと顔を上げた。
「馬冢原を取れたのは自分のお蔭だと思っているな」
司馬懿は顎に手を置き、司馬師の目をじっと見ながら言った。
「いえ、そのようなことは」
「儂の目をごまかせると思うな。その傲慢さがお前の悪いところであるとまだわからんか。お前は儂の子としてではなく、魏に仕える一人の臣としてやるべきことをやったに過ぎない。それは武官が剣を取り敵と戦うのが当然なのと同じことだ。この一件に鼻を高くし陣内で偉そうな態度をとってみろ。いかにお前といえども首を落とすぞ」
「司令官、誤解でございます。私はそのようなことは」
「言い訳をするな。儂の目はごまかせんと言ったはずだ。わかったらいつまでもここにいるのではなく、いますぐ兵卒の規律を見て廻ってこい。日が落ちるまで温かい所にいることは許さん」
司馬師は返事をし、慌ててそこから出て行こうとした。その後ろ姿に、司馬懿はもう一度声をかけた。
「傲慢さはいかんぞ。傲慢さは、やがて我が身に撥ね返り、滅ぼされることになる。それを忘れるな」
司馬師はまた一つ返事をし、そこから出て行った。
高い地位にあり自分が特別な存在であると勘違いをし、傲慢になる者は世に五万といる。高い地位にあるということは、重い責を身に負うということであり、それ以上でも以下でもないのだ。これを思い違いしてしまった者は、この乱世で皆すべからく一掃され滅んでいる。
人の世に来る乱世とは、世に満ち過ぎてしまったそういう愚か者が一掃されるためにあるのだと司馬懿は思っていた。欲に塗れた愚か者の数が減れば、世は安らかに治まるのだ。自分の息子には、まだ続く乱世の中で滅ぼされる側の人間にはなってもらいたくなかった。
入れ替わりに、呼び出していた辛毗が入ってきた。辛毗の副官のようなことをしている夏侯玄も同行している。
「馬冢原の様子を言え」
短い質問に辛毗が一つ拱手をした。
「馬冢原を占拠した費耀軍は、魏延が残した陣を利用し防御の強化をしております。十日もあれば馬冢原全体が大きな砦になる予定です」
「よろしい。蜀軍はどうか」
「武功の平野に迫り出し、前衛の兵どもが出て来て戦えと喚いているようです。それは捨て置けばよいと思うのですが」
「麦か」
辛毗は頷いた。
「このままですと、二月後の武功での収穫は全て蜀軍に接収されてしまいます。諸葛亮はそれを狙っているのか、蜀軍の兵は武功の農民に危害を与えることなく、共に農作業に励んでいるようです」
諸葛亮に馬冢原を放棄させるということは、武功の平地を明け渡すということでもあった。そうなれば当然、そこで実るものは全て蜀軍のものになる。司馬懿が命じて開墾させた武功の収穫量は決して少ないものではない。渭水と武功水の水量に恵まれた土地の大規模な田畑から得られるものは、本来なら魏軍の軍費を賄うためのものだったが、それが丸々蜀軍の軍費になってしまうのは司馬懿にとって痛いことだった。蜀軍を兵糧切れにより撤退に追い込むという選択肢が極めて小さなものになってしまうからだ。諸葛亮が武功を選んだ意図が始めからこの麦にあったのだとすると、やはり諸葛亮は侮れる相手ではない。
黒蜘蛛からの報告によると、蜀軍は馬の頭をした船を使って武功水から着々と兵糧を運び込んでいるのだという。前回のような勝ち方は望めそうもなかった。
しかしこの武功の麦を捨ててでも、馬冢原は確保すべきだった。馬冢原から渭水南岸にかけて弧を描くように防衛線を引けば、蜀軍は容易に攻めてくることはできないし、渭水を利用した兵站の確保もできる。逆に馬冢原を蜀に抑えられていれば、いつ魏軍の後方を脅かされるかわかったものではない。麦畑を放棄してでもそれは避けておくべきことだった。
「良かれ悪しかれ、形は整った。これからが戦の本番だ。我らはこれから全力を持って敵を排除していかねばならん」
言って司馬懿は辛毗の隣に立つ夏侯玄に目をやった。気概を示すまだ若い夏侯玄の眼差しがこちらを見つめている。
「儂の言うことの意味がわかるか、夏侯玄」
唐突に質問された夏侯玄の目が狼狽した。
「わかりません」
「ほう、わからんか。排除する敵は蜀軍であり、それに全力を尽くすのだとは思わなんだか」
「そう思いましたが、違うという気もします。だからわからないと答えました」
それを聞いて司馬懿は微笑んだ。わからないのにわかったような顔をする者ほど無能な者はいない。
「やはりお前は司馬師より物分かりが良いと見えるな。わからぬのなら説明してやろう」
若い者の賢明さは嬉しくもあるが、自分の息子より賢明だということにどこか嫉妬めいたものを感じもする。それを隠すためにも司馬懿は微笑み続けた。
「この戦の第一目的は、これ以上蜀軍を魏領に入れないということだ。それは蜀軍と一戦交えて撃破し追い返すということと同意ではない。それはわかるな」
「はい」
答える夏侯玄の隣で辛毗は、全てわかっているという顔をしている。
司馬懿は地図を指でなぞりながらさらに続けた。
「この防衛線を堅持しておけば蜀軍は動くことができない。堅持し続けることができればだ。ならそれを邪魔する者は、全て敵だということになる。その敵はどこから出てくると思う」
夏侯玄が少し間を置き、遠慮がちに答えた。
「我が軍内から、ですか」。
「そうだ。本当の敵は内にもあるものだ。しかも厄介なことに、この種の敵は自身が敵になっているという自覚がない。儂はこれを排除し続けなければならん。これに負けた時が、つまり蜀軍が勝つということだ」
夏侯玄はそれ以上何も言わず黙って聞いていた。味方を敵と思うなどとんでもないと思ているのかもしれない。それならそれでいい。もしそうなら、この若者もその程度の男だったというまでだ。
「辛毗。許都へ行き、陛下に拝謁し、ここの戦況を直接報告してこい。こちらから攻めなければ負けることはなく、よって蜀軍が勝つことはないということをよくよく説明するのだ。そして攻めることは許されんという勅許を拝領してこい」
辛毗の顔に緊張が走った。平時であれば、いかに重臣といえども帝に勅許を乞うなど許されることではない。しかし司馬懿はそんなことはどうでもいいことだと思っていた。欲のまま帝位を簒奪した曹家こそ、この乱世の象徴なのだ。その仮初めの帝に心から心服するつもりはない。この思いは恐らく、諸葛亮と同じなのだろうという気がする。ただ、その行く道が違うだけなのだ。
「御意。可能であれば、許都の予備兵力も引き出してきます」
辛毗が力強く言い、司馬懿は頷いた。
「お前も共に行け、夏侯玄。戦は最前線だけでやるものではないということを、よく学んで来い」
二人が拱手し、退出して行った。
この戦は、いかに味方を御するかにあると司馬懿は考えていた。長安の軍人は心から自分のことを信頼しているとは言い難い。何故ならば、前回の戦は名目上では魏軍が勝ったことになっているが、それは蜀軍が兵糧切れのため勝手に撤退したということで、戦場での司馬懿は諸葛亮に負けていたのだ。許都の戦を知らない重臣は騙せても、長安の軍人はそのことをよく知っている。だからこそ、対峙中に何か余計なことを言ってくる者が出てくるだろうと予測できた。諸葛亮が謀略によってそういう者につけこみ、内部分裂を狙ってくる可能性もある。いや、当然それはされてくるだろう。蜀軍の動向よりも、味方の声に注意すべきだった。
その抑えのためには、帝すら利用してやる。そして、勝つ。自分はこんな一地方の司令官で終わるわけにはいかないのだ。
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