王平伝 8-12
魏領に攻め入っていた蜀軍から、敗戦を告げる早馬が届いた。兵のぶつかり合いで負けたわけでなく、兵糧が切れたわけでもなく、諸葛亮が死んだことでの敗戦だった。
蔣琬は自分を育ててくれた諸葛亮に対し人並みに感傷的にはなったが、それ以上に何の成果も得られなかった北伐に虚しさを感じていた。一国を治めて財を集め、兵を養い、諸葛亮が出師の表を上奏してから実に七年も費やした。その間、蔣琬はただ蜀軍の勝利を信じ、成都から最前線へと補給物資を送り続けた。民を窮乏させるから止めろという、宦官を始めとする反対勢力の意見を退けながらだ。
諸葛亮は民と反対派に何の弁明もすることなく、戦地で死んだ。これは全て丞相府で諸葛亮の代理をしていた蔣琬に降りかかってくるだろう。
引き続き厄介な報がもたらされた。魏延が手勢の一万で謀反を起こしたのだという、楊儀からの早馬だった。その次の早馬は魏延からのもので、楊儀が謀反を起こしたと言っていた。
これは謀反でなく、諸葛亮が死んだことで仲間割れを起こしたのだと蔣琬は判断し、董允に成都を任せ、仲裁のための出兵を決定した。そうして準備していると、魏延を捕らえ斬首することで事は収まったという報せが入った。幸い、蜀軍同士での殺し合いはなかったのだという。
「楊儀殿は丞相の跡を継ぐのは自分であると思っているようで、軍内でかなり好き勝手に振る舞っているようです」
帰還してくる北伐軍の様子を視察してきた譙周が言った。並んで立てば蔣琬より頭一つ大きい長身の部下である。
「丞相が亡くなればそうなる可能性はあるとは思っていたよ。馬謖といい李厳といい、ああいう者を使えばどうなるかということを、丞相はほとんど無視されていた。多分、自分の力が発揮されればそれでいいと思っておられたのだ」
「後継に蔣琬殿を選ばれたというのも誤りですか?」
蜀の国事を見るのは蔣琬だと、諸葛亮は蜀の帝である劉禅に書き残していた。このことをまだ楊儀は知らない。
「誤りも大誤りさ。俺のような軟派者に国を任せるなど正気の沙汰じゃない。戦を間近で見ていた費禕か、陛下に近い董允がやってくれればいいのだ」
謙虚さではなく、半ば本気で言っていた。ただ指名されたからには、やり切らねばという思いはある。
「丞相の書き残しに、楊儀殿のことは何と」
「それが何もなかった。俺の好きにしろということだろう。全く無責任なことだ」
楊儀が成都に戻れば、必ず何かしらの要職を求めてくる。譙周はそれを危惧しているのだろう。諸葛亮は人の扱いを誤り、国難を招いた。その轍を踏むわけにはいかない。
「蜀軍本隊の軍師にでもしておけばいい。大きな戦はしばらく無いはずだからな」
「一つ気がかりがあります。御子息であられる蔣斌殿のことを出されて攻められはしないかと」
魏との戦で小隊長をしていた蔣斌は、王平軍の中で命令違反を犯して成都に護送され、今は屋敷に謹慎させている。蔣琬に反感を持つ宦官筆頭の黄皓あたりと楊儀が結託すると面倒なことになる。黄皓が蔣斌のことに関し何も言ってきていないのが不気味であった。
「あの馬鹿息子が」
「そのことで、費禕殿が話をしておきたいと言っておりました。新しい相国である蔣斌様に是非言上を奉りたいと」
「あの野郎、毒で死にかけていたというのにもうそんな皮肉をぬかしているのか。自分が選ばれなかったからって良い気なものだ」
そう言いながらも、蔣琬は安心していた。刺客に襲われ怪我を負ったと聞いた時は、諸葛亮が死んだと聞いた時より慟哭した。これから蜀国で政権を固めていくのに、費禕は欠かすことのできない人物だった。
蔣琬は譙周を連れ、費禕の屋敷を訪った。
「相国様が会いに来てやったぞ。熱はもう引いたのか、費禕」
「もう回復した。右腕は肩より上に持ち上がらなくなったがな」
黒蜘蛛の短剣が深く食い込み、腕の筋が切れたのだろう。剣に塗られていた毒を消すために傷口を焼いたため、右肩にはかなりの包帯が巻かれていた。
「楊儀のことだが」
費禕が呼び捨てで言った。周りに、蔣琬と譙周以外の目はない。
「力を持たせるべきではない。あれは、国を壊す者だ」
「わかっている。丞相が亡くなられてすぐに軍を分裂させたのだからな」
「魏延殿が楊儀に怒っていたが、それは一時の感情からではない。蜀国のことを考えていたからこそ怒っていたのだ」
蔣琬は頷いた。争い事は、当事者の二人がどちらも等しく悪いのではない。争い事が起こった原因を見ようともせず、両者に責任があると言って済ませようとするのは無能者のやることだ。
「それも、わかっている」
「罪に落とすべきだ。なんでもいい」
「何かをでっち上げろとでも言うのか。一国の宰相といえどもそれはできんぞ」
その点、楊儀は周到だった。魏延と仲違いを起こした時も、すぐに成都に早馬を飛ばし、自分の正当性を訴えることを怠らなかった。楊儀の臆病さが、そういった周到さを生むのだろう。
物事に周到であろうが兵糧の管理が上手かろうが、倫理観と道徳観を欠いた働き者は、国や組織にとっては害悪でしかない。
「私に考えがある」
「ほう」
「蔣琬が国事を見ることになり、それを快く思わない者は少なからずいるだろう。私もその一人になるのだ。そして楊儀に近付き、国への謀反を企てる」
「おい、それではお前まで罪を被ることになるではないか」
「そこは上手くやるさ。蔣琬も上手くやってくれよ」
言って費禕が不敵に笑った。何か考えがあるようだ。
「戦を経て、お前は変わったようだな。悪い意味ではない。昔のお前なら、楊儀のような者がいてもただ黙って耐えていた」
「戦の中で思ったのだ。倒すべき者は、魏だけではないのだと。魏を敵だとしてしまえば誰にとっても分かり易いが、本当に忌むべき相手は、楊儀や馬謖や李厳のような、理を解そうとせず感情ばかりが先走り、それ故に天下国家を乱す者なのだ。そういった者が跳梁跋扈するようになれば、国は滅びる。それには、蜀も魏も漢も、関係ない」
痩せた費禕が眼を光らせていた。その眼に気圧された気がして、蔣琬は腹に力を籠めた。
「同感だ、費禕。対外戦は終わったが、俺たちの内に向けての戦はこれから始まる。蜀国を生き永らえさせようという戦だ」
費禕が頷いた。成都に戻ってからは少し休暇をやろうかと思っていたが、その必要はなさそうだった。
「宮廷はどうだ。黄皓は大人しくしているのか」
「董允を始めとして、来敏殿と孟光殿が宦官に眼を光らせている。あの二人は老齢だが、気持ちはまだまだ若いようだ」
「宮廷は固めているということだな」
「学者は私がまとめております。頭でっかちな者におかしな提言はさせません」
後ろで聞いていた譙周が言った。
「内は固めているつもりだが、これからは戦があったために大人しくしていた奴らが声を大きくしていくだろう。固めていたと思っていたものが、気付いたら崩れていたなどということがあってはならん」
「蚩尤軍を使え、蔣琬。丞相は、句扶を実に上手く使っていた。そして、良い仕事をした」
「郤正と組ませてみようと思っているよ。魏への備えは、漢中に趙広を残す。王平の下に入れておけば間違いないはずだ」
郤正は、句扶が成都に送ってきたまだ若い忍びだ。黄皓を黙らせるため、郤正を使って黄皓に近しい者を消した。そして郤正の屋敷を黄皓の屋敷の隣に建てた。それで黄皓はかなりの重圧を感じているはずだ。
また郤正は忍びには珍しく学があった。正に宮廷には打って付けの忍びだった。
「漢の主上はお隠れになり、漢を守ろうとした丞相も亡くなられた。我らは漢という言葉に拘り過ぎることはない。蜀という、我らの国家を守るのだ」
蔣琬が言い、費禕と譙周が頷いた。