王平伝 3-3
行き交う人々の言葉が微妙に違う。これが長安に来て一番に気付いたことであった。句扶はその身を商人にして李栄という偽名を使い、涼州一の大都市であり魏国の玄関である長安城郭内に潜入していた。ここでの目的は、長安の軍勢を調べ魏の人物を知ることである。そしてできれば長安太守である夏候楙に近づく。
長安の市場は住民に開放されているものとは別に、ここでの兵しか買い物ができない税が格段に安い軍市が開かれている。商人の数も半端なものではなく益州から物資を仕入れている商人もいるので、句扶は怪しまれることなく蜀から送られてくる物資で商いをしていた。
南では蜀軍が勝ちを重ねているようで、犀の角や象牙などの珍しい物資が送られてくるようになった。それらを一度に売り捌いてしまうとさすがに怪しまれてしまうので小出しにし、且つ長安の役人の目につくような売り方をした。大きな怪しまれ方ならいきなり捕縛されてしまうかもしれないが、小さな怪しまれ方なら歓迎である。それがきっかけとなり、長安内部へと入り込めるきっかけとなるかもしれないと踏んだからだ。
半年も南方の特産物を売っているとさすがに李栄の名が広まるようになり、役人から取り扱っている物資について事情を聴きたいという呼び出しを受けた。句扶はその役人にうろたえたような顔を見せたが、内心ではほくそ笑んでいた。
長安城郭へは、南方特産物で満載にした荷車一台と共に向かった。ここでの権力者へと賄賂を贈る小心な商人を演じるためである。城郭内のさらに内の城郭に備え付けられた小さな門をくぐり、政庁へと向かった。句扶は歩きながら、見えるもの全てを頭の中に叩き込んだ。後ろからは句扶と同じく商人に扮した数人の部下が荷車を押してがらがらとついてきている。
政庁内はさすがに古都と呼ばれているだけあって豪奢なもので、成都のそれとは比べものにならないくらい派手であった。
政庁内に入ると、眼光の鋭い文官が句扶の前に立った。
「お前が李栄か」
句扶はその場にひざをつき、恭しく拱手して頭を下げた。そして、おびえたような声で返事をして見せた。
「李栄、顔を上げろ」
言われて、その通りにした。その眼光鋭い男はじっと句扶の顔を見つめてきた。恐らく、顔を覚えようとしているのだろう。そして句扶は、その男の幾つかの質問に答えた。そうこうしていると、部屋の奥が開いた。句扶が入っていたところから反対に位置する扉から、一人の男が眠そうな顔をして入ってきた。
「おい、あまり弱い者いじめをするなよ、司馬懿」
聞いたことのある名だと思った。確か、税の安い軍市を考案したのは司馬懿という文官だったはずである。
「あなたが司馬懿様でございましたか。あなた様のお蔭で我々商人共は大きな利を上げさせて頂いております」
「そうか。それは良いことだ」
奥から入ってきた男が、台座に腰をおろしながら言った。司馬懿はこちらにじっと鋭い視線を向けたまま、その男の隣に立った。
「私が長安太守である、夏候楙という」
句扶はおびえたふりをして身を縮めた。ここが正念場である。
「商人のすることにはあまり干渉したくはないのだが、この司馬懿がどうしてもと言うのでな」
夏候楙が続けて言った。そして、司馬懿が一歩前に出た。
「お前の扱っている品物は、南蛮から蜀を通ってくるものだと聞いている。間違えはないか」
「はい、ございません」
句扶は頭が地につけながら礼をして答えた。
「その入手経路について教えてもらおうか」
言われて、句扶は淀みなく物資の入手経路について答えた。諸葛亮から送られてきた書簡に書かれてあった通りの経路である。そこに、落ち度はないはずだ。
「見たことか司馬懿。李栄はただの商人ではないか」
それでも司馬懿は、すぐにそれを良しとしようとはしなかった。取り入るなら、司馬懿ではなく夏候楙だ。句扶はそう思った。
「ここ長安の市場でいつも商いをさせて頂いているお礼と言っては何ですが、南方からの特産物を納めて頂きたく、これをお持ちしました」
後ろから、部下が二つの木箱を持って前に出た。
「ほう、それは特殊なことだ」
眠そうな夏候楙の目が、ぱっと見開かれた。
「もうよいであろう、司馬懿。下がっていろ」
そこで初めて司馬懿は鋭い眼をやめ、困ったような顔をして見せた。
「しかし」
「下がっていろと言っているのだ。二度も同じことを言わせるな」
不仲なのか。そう思い、句扶はその二人のやり取りを見ていた。司馬懿はまだ何かを言いたそうだったが、夏候楙に手を振られてようやくその場から立ち去った。句扶の体から、緊張が解けた。
「悪いな、李栄」
夏候楙の眼は、まるで子供のようにらんらんと輝き、これから献上される木箱の方に目をやっている。
「私は徳の人でありたいのだ。ああやって人に恐怖を与える政治など、本当はしたくないのだ」
すかさず句扶は木箱を前に出して蓋を開いた。中には象牙でできた装飾品や孔雀の羽、強いにおいを放つ麻が入っている。
「これは珍しいものを。誠にありがたい」
そのらんらんと輝く眼は、麻に向けられていた。なるほど、夏候楙とはこういう男か。
「南方で採れる麻は良質なものが多く、これを麻沸散に加工すれば大変有用なものになると評判がよろしゅうございます」
麻のことに触れたのが多少気に障ったのか夏候楙は少し嫌な顔をした。しまった、と句扶は思ったが、夏候楙はすぐに笑みを戻して言った。
「我々魏軍は、いずれ蜀軍とぶつかることとなる。医療品として麻は、たくさんあって困ることはないであろうな」
夏候楙は眼を空中に泳がせ、一人言でも呟くように言った。
「恐れながら、太守様のお蔭で私は利を貪らせて頂いております。もし必要なものがございましたら、全力をもって献上させて頂きます」
「何を無茶なことを言う。お前の大事な売り物を黙ってもらうようなことはしない。さきほども言ったが、俺はここで徳の将軍となりたいのだよ。良質の麻があれば買い取ろう。こういうものが民の間に出回り過ぎるのは、私にとって喜ばしいことではないからな」
「ここに持ってこさせて頂いた荷は、ほんの一部でございます。外には南の特産物で満たされた荷車をお持ちしましたので、どうぞお収め下さい」
「李栄、私はそんなことが目的でお前を呼び出したのではないぞ」
そう言うが、顔はにやついていた。
「長安で商人が良い商いができるのは、太守様のお蔭です。賄賂を贈ろうなんてつもりは毛頭ございません。これは良い商いの場を与えてもらっているということに対する、当然の礼でございます。この品がここ長安のためとなるのであれば、喜んで献上させていただきます」
「商人は利を上げることばかり考えているのかと思っていたが、お前のような商人もいるのだな。そこまで言ってくれるのであれば、ありがたく受け取ろう。何か、望みがあるなら言え」
「望みなどはございません。ここで望みを言ってしまえば、今日献上させていただく物品が全て賄賂となってしまいます」
「気に入ったぞ、李栄。これから商いをする上で何か困ったことがあれば、いつでも私のところに来ればいい。それくらいなら、良いであろう」
「ははっ」
句扶は身を低くして答えた。
それからしばらく、蜀国内のことについて聞かれた。蜀の人口や物品の相場などではなく、女や風俗や音楽のことについてである。蜀の食べ物について夏候楙は詳しく、辛いものが食べたくなれば成都から来た料理人につくらせていると言った。乱世の大都市を任されている太守の話としては、あまりに他愛のないものであった。句扶はその話の一々に笑顔で頷いて見せた。その話の間、夏候楙はどこかそわそわしているように見えた。恐らく、早く南蛮の麻を試してみたいのであろう。
思っていた以上に上手くことを運べた。ここの太守は御し易く、長安に益のある義商としてここでの出入りすら許された。だがあの司馬懿という男には注意が必要だと句扶は感じていた。あの自分に向けられた猜疑の眼は、彼が優秀な文官であるという証拠だ。
そんなことを考えながら政庁から大手門への道を帰っていると、突然声をかけられた。
「御苦労であった」
司馬懿である。句扶は身を縮めてそちらに拝礼した。
「ところで李栄よ、こちらを見てみろ」
「はい」
言いながら、顔を上げた。司馬懿がじっとこちらを見つめてきた。何かを探ろうとしている、攻撃的な視線である。
「何故お前は、軍市をつくったのが私だと知っているのだ」
句扶は一瞬、背が粟立つのを感じた。
「それはもう、商人の間では有名な話でして」
油断していた。
「そうか」
一瞬見せた焦りを読み取られたのか、司馬懿はにやりとして見せた。やはりこの男は、油断がならない。
「もう行っていいぞ」
そう言われ、句扶は内城から逃げるようにして出て行った。収穫もあったが、眼をつけられもした。その証に、街中を行く句扶の背後から誰かがつけてきている気配を感じた。恐らく司馬懿の手の者であろう。
刺すような視線を感じながら、句扶は自分の屋敷へと帰った。その視線に気付いたということは、絶対に表に出してはいけない。何故ならば、それは普通の商人には決して察することのできない程度の気配だからだ。
高価な着物に袖を通し、帯を締めた。はじめは着ていて違和感があったが、今ではすっかり板についてきた。句扶は月に三度か四度、このように長安太守府へと出仕していた。夏候楙に南で採れる上質の麻を献上するためである。先日は、市場で最高の場所で商売をできるよう夏候楙に頼み込んだ。そう頼んだのは稼ぎたいからでなく、それが商人として自然な姿だと思えるからだ。夏候楙は、それを二つ返事で了承してくれた。それほどに句扶が献上する麻にのめり込んでいるということだ。そして長安で得た金と情報は、全て諸葛亮のもとへと送った。
「太守様、また南より最上の麻が届きましたのでお届けに参りました」
夏候楙は長安の太守としてそれなりに忙しいようではあったが、句扶が会いに行くと必ず顔を綻ばせて会ってくれるのであった。
「いつもご苦労、李栄。商売ははかどっているか」
「それはもう、太守様のお蔭でそれは大いに繁盛しております」
夏候楙は徳の将軍を目指していると言っていたが、この男は根本的なところでそれを勘違いしているようだった。下々の者を思いやることは太守として大切なことなのだろうが、厳しさが一片もなかった。厳しさがなければ、それにつけいって調子に乗るのも民の一つの姿であるのだ。そして最近は女に溺れているという噂も聞く。これでは徳の将軍でなく、ただの怠け者である。
句扶の狙いはそれであった。夏候楙の麻好きを見抜き、麻を送り続けることにより長安を内部から崩していく。夏候楙に麻を与え始めてから、軍の方にも緩みが見えるようになってきたと部下からの報告があった。大きな緩みではなく、例えば調練の時間が少し減るなどといった小さな緩みである。こういった小さな綻びが、やがて大きな破れになるのだ。
こういった中で、句扶側に問題がないわけではなかった。司馬懿という男である。司馬懿の手の者であろうと思われる監視者の視線は常に感じていた。それも、極めてさりげない監視の仕方である。ただの商人がそれに気づくはずもないので、句扶はそれに気づいていないふりをすることに注力した。少しでも気付いた素振りを気取られれば、何かを口実に捕縛されることも十分にあり得るのだ。それは、かなり神経を使う仕事であった。
例えば仕事帰りの夕暮れ、薄暮れの中を歩いていると闇の中から数人の男が歩いてくる。いずれも見た目は普通の通行人である。その通行人は何人かで句扶を囲むようにして歩を進めて来て殺気を放つ。それに応じてしまえば負けであった。句扶はその殺気に対する緊張感を隠しながら、平常を装って歩いた。自分はただの商人なのである。しばらく歩くと殺気は消え、通行人は消えるようにして去っていくのであった。司馬懿からの、明らかな挑発であった。その挑発に乗ってはいけない。そう言い聞かせながらも、句扶は危機感を募らせた。
句扶はそんな監視の中で必死に一人の商人を演じ続けなければならなかった。そんな忍びを使っている司馬懿を恐れもした。この男が長安にいれば、それはいずれ蜀が進む道の障害となるのではないか。
司馬懿をこの世から消す。そう思ったことは、一度や二度ではない。しかし近づこうにも近づけず、夏候楙に会う時すらその姿を見ることはできなかった。姿は見えないが、その視線は常にどこかしらにあった。句扶はそれに対して、ただの商人を演じることでしか対抗できなかった。
太守府から自宅へと帰る道中、市中にひとだかりができていた。そちらに行ってみると、首が一つ晒されていた。「長安で反乱を企てた者」と立札には書いてあった。また少し行くと同じように首が晒されてあり、同じことが書かれた立札があった。そうして太守府から自宅まで点々と五つの首が晒されてある。広い長安城郭内で、太守府から自分の屋敷への道筋に狙ったように置かれているのだ。明らかに司馬懿からの差し金であった。部下に探らせてみると、それらの首は呉からの間者のものであった。「お前もいつかこうしてやる」そう言われているのだ。だが長安から逃げ出すわけにはいかない。
そうやって圧力をかけてくる司馬懿に反して夏候楙はあくまで自分に好意的であり、呼び出される回数も増えていた。その度に句扶は上質の麻を持参し、時にはそれを一緒に吸って食事をすることもあった。ただの一商人と仲良くするという太守の有り様に、夏候楙は酔っているようであった。
「太守様、実は聞いて頂きたいお話がございまして」
そう切り出したのは、ある日の食事の席である。
「どうした、李栄」
「大変申し上げにくいことではあるのですが」
「何を水臭いことを。俺が民の声を無視するような太守に見えるか」
夏候楙は得意満面に言った。
「それでは申し上げさせて頂きます。私がここに麻を持ってくることに、少なからず不快感を示しておられる方がいるように思えまして」
それを聞いた夏候楙は、難しい顔をして酒をぐいっと呷った。
「司馬懿のことか。それは俺も前から薄々と感じてはいた」
俺はよく知っているだろう。その声には、そんな響きが含まれていた。
「あれは非常に優秀な男なのだがな、少し疑いすぎるところがある。麻のことではなく、お前を間者ではないかと疑っている。そういうことであろう」
句扶は身を縮ませて頷いて見せた。
「言っておくが俺はお前のことを疑ってはいないぞ。蜀の間者なら南の物産を扱う商人でなく、別の形で潜入してくるだろう。蜀の間者が蜀から物資を仕入れくる商人になるなんて、そんな単純な話があるか」
それが、あるのである。
「私もそう思います」
「そうであろう。よし、司馬懿には俺からよく言っておこう」
「ありがとうございます」
ちょろいものであった。所詮、貴族のぼんぼんはこの程度なのだろう。
それからしばらくの間、司馬懿の手の者と思われる影を見ることはなくなった。そして仕事が以前より格段に増してやり易くなった。だがこれで司馬懿が完全に手を引いたとは思わない方がいいだろう。泳がされているかもしれない、という疑念は絶えず持っておくべきであった。どこで蜀の間者だという証拠を掴まれるか分からない。また、どういう証拠をでっちあげてくるかも分からない。決して気を抜くことは許されない。
句扶はふと市中で晒されていた首を思い出した。ああなって死ぬことは怖くない。怖いのは、仕事ができないと評価され、後ろ指をさされることだ。仕事ができずに捨てられれば、また昔のように一人になってしまうではないか。そんな風になってしまうくらいなら、死んだ方がましである。