王平伝 3-10
北伐が始まった。王平は諸葛亮率いる本隊に一部隊として従軍している。王平の他には、魏延、句扶、馬謖、楊儀、趙統といった見知った顔から、馬岱、陳式、張翼、高翔といった知らない顔もいる。王平が手塩にかけて育てた趙広はどこに行ったのか、この軍内にはいなかった。
涼州の諸郡には蜀の大軍を迎え撃つだけの備えができておらず、さして損害を出すこともなく攻略していった。攻略していく毎に、兵の顔に自信が浮かんでくるのが王平にはよくわかった。南蛮攻略を行った成都の兵に実戦経験はあったが、漢中の若い兵にはそれがない。いくら辛い調練に耐えた強兵といえども、実戦経験がなければ精鋭とはいえないのだ。なるほど長安から見て西方の諸郡を先に攻めようと決めた諸葛亮の策には、こうしたことも計算に入っているのかもしれない。
天水郡の都城である冀城を落とした時、諸葛亮は謀略をもって羌族の名士、姜維を帰順させた。これで蜀と羌族の同盟は成ったものだと諸葛亮は皆の前で言った。これで、兵の士気は大いに高まった。
蜀には人材が少ないだけでなく、人口も少ないのだ。蔣琬の話によると、蜀の戸籍上の人口は九十四万であり、動員兵力は十万人である。その中の三万を成都に残し、七万を北伐に連れてきている。
それに対し、魏の人口は四百四十万、兵力は六十万である。ただ魏は北方の異民族に備えねばならない。そして東方では、蜀と同盟を結んだ呉が魏へと攻め上がっているのだという。これで長安戦線へと動員される兵力は、十万程度にまで抑えることができる。これなら、十分に勝機はあると思えた。
全ては今のところ、計算通りにいっていた。諸葛亮は冀城を本営とし、腰を落ちつけていた。羌族との交渉を進めるためである。
思惑通り、羌族はあっさりと魏に背いた。長年漢に虐げられていた羌族の恨みに、諸葛亮は目をつけたのであった。蜀の人口は少ない。呉と結び、羌から人数を借りねばこの戦には勝てない。
しかし、羌との交渉は思いのほか難航した。蜀は羌に頭を下げて力を貸してもらうわけだから、当然その見返りを与えなければならない。羌は諸葛亮の提示した条件より、何倍もの見返りを欲してきた。これに、諸葛亮は閉口した。その要求に従っていれば、蜀は戦を続けられなくなってしまう。
蜀は中華の中心から離れた独立国家だが、羌族から見れば魏と同じ、漢民族の国なのだ。また彼らは蜀に人数がいないことをよく知っていた。そこで足元を見て、ふっかけてきているのだ。この羌族の反漢民族感情は、もっと計算に入れておくべきだった。
諸葛亮は言葉を尽くして今の状況を説明し、羌の有力な名士である姜維を蜀の政治に深く関わらせるということで、羌族を納得させた。
羌族との同盟が成れば、長安への進攻である。趙雲率いる別働隊は長安の主力である曹真軍を釣り出し、交戦中であるという。一刻も早く、本隊を長安へと向けるべきであった。
そう思っていた矢先、漢中の東隣に位置する上庸に放っていた趙広が、間諜の仕事を終えて帰ってきたという報告が入ってきた。趙広を忍びとして育てたのは、王平である。その趙広にこの戦で経験を積ませろと進言してきたのは、句扶であった。そこで諸葛亮は、句扶に心利きたる者を五人選ばせ、趙広につけて上庸へと向かわせていた。上庸には蜀への寝返りを約束させた孟達がいる。北伐開始に呼応して、同時に魏へと攻め込む約束である。その孟達を監視させるため、趙広を向かわせていたのだった。
その趙広が、帰ってきた。早すぎる。諸葛亮は、嫌な予感がした。
趙広の報告によると、孟達がいる上庸は司馬懿の率いる大軍に包囲され、討滅されたのだという。
馬鹿な。諸葛亮は目を見開いた。魏軍が上庸に達するには一月を要すると諸葛亮は見ていた。後から入ってくる報告によると、司馬懿は魏国内のあらゆる手続きを無視し、独断で軽騎を率いて十日足らずで上庸に到着し、あっさりと上庸を陥落させてしまったのだという。
歯車が大きく狂い始めていた。全てが上手くいくとは思っていない。しかし上庸がこうも簡単に落ちるとは、想定外であった。
そして長安からは、魏の猛将張郃が率いる五万が蜀本隊へと向けて進発したという。
蜀としては、魏に先手を取られた形になってしまった。これでは、趙雲に曹真軍を引き付けてもらった意味が無くなってしまうではないか。諸葛亮はその心情を表に出さないよう努めていたが、内心焦っていた。しかし五万であれば、迎え撃つことができる。そしてこれを打ち破れば、長安攻めは成ったも同然だ。こちらも早く兵を出し、有利な場所を確保しておかねば。
「馬謖を呼べ」
小気味の良い返事と共に、使いの者が走っていった。
長安に赴任した矢先、張郃将軍は五万を率いて西方へと向かっていった。涼州は、良馬の名産地だ。その良馬を使った精鋭騎兵の五万である。王双ら洛陽から来た兵は一旦長安に留まり、予備兵となって次の指令を待った。
長安に着けばすぐに戦場だと思っていた王双は、肩透かしを食らった思いがした。だがそれも良かったかもしれない。王訓が、初めて見る長安の地を思いのほか喜んでくれたからだ。
長安には司馬懿という人物が考案した軍市が立っており、軍人は様々なものを安く買うことができた。しかもこの軍市は、蜀が宣戦布告をすると同時に大きく規模を拡大したのだという。なるほどこれは士気が上がる。王双はそう思い、司馬懿という男の知恵に感心した。
軍市には、毎日訓を伴って出かけた。小さい頃からこうして色んな物を見せておくことは良いことだと思った。訓を洛陽に置いてこようか迷っていた王双であったが、今では連れてきて良かったと思っていた。
長安滞在から半月が過ぎようとしていた時、王双隊に軍令が下った。長安の南に迫る蜀軍を迎撃に出た曹真軍が苦戦をしているのだという。王双は三千の兵を率い、他の同僚と共に総勢一万で曹真軍の援軍に向かうこととなった。
進発の前日、心配そうな顔をする訓に、王双は言った。
「そんな顔をするな、訓。叔父上はな、片腕こそないが、軍内では誰にも負けたことがないんだ。必ず帰ってくるから、な」
訓は頷いて答えた。
王双は、指揮官が泊まる宿の娘に訓のことを頼んだ。どことなく死んだ妹に似た、子供が好きな娘であった。これなら、例え俺が戦場で死んでも大丈夫だろう。
「行くぞ、野郎ども」
部下の威勢の良いかけ声と共に、王双隊は進発した。王双は隻腕であったが、馬術は巧みであった。腿を締めることで、馬に自分の意思を伝えるのだ。しかしこれは自分の乗り慣れた馬でしかすることができない。張郃に置いてきぼりを食らわされたのは、恐らくこれが原因であろう。洛陽産の馬では、涼州の良馬についていくことができないからだ。
王平は、冀城にある宿舎の一室で寛いでいた。ここまでの蜀軍は、連戦連勝であった。とはいっても、ここまで大きな抵抗があったわけではない。劉備が死んでから既に五年が経つ。最後に魏軍と争った漢中戦から数えれば、十年の月日が過ぎていた。魏としては、国力が過少な蜀が突然攻めてくることなど寝耳に水だったのであろう。こう考えると、魏延が主張していた長安急襲策は、意外と妥当な案であったのかもしれない。
諸葛亮が考えていることも、それはそれで妥当だと思えた。蜀には手持ちの兵が十万しかいないのだ。国内の治安維持にも兵を回さなければいけないことを考えると、外征に出せる兵力はせいぜい七万である。これを敵の懐に飛び込ませ、負けることでもあろうなら、ただ一回の敗北で蜀は滅亡することになる。一国の宰相として、それを恐れるのは当然のことだと思えた。
羌族が、蜀に帰順した。この報せは蜀軍の下々の者達を喜ばせた。長安に魏の援軍として入るはずだった羌の軍勢五万が消滅し、消滅しただけでなく蜀軍の味方となってくれることとなったのだ。兵力の少ない蜀軍にとって、それは貴重な戦力となってくれるだろう。
しかしそれに諸手を上げて喜んでいる将は少なかった。なぜならば、羌は魏国討伐に乗り気でないことが交渉の様子から明白であったからだ。長安をさっさと落とせば自然と羌は蜀についていたのだ、と魏延は言っていた。
軍議での決定を伝えるから来いという報せを受け、王平は王双の部屋を訪った。中では魏延が鼻毛をぶちぶちと抜きながら、無言でそこに座れと目で合図を送ってきた。
「王平、この戦は負けるかもしれんな」
「いきなり、何を言われますか」
また冗談を言っている。そう思い、笑いながら椅子に腰かけた。
「なら、お前は勝てると思っているのか?」
「羌が、蜀に付いたと聞きました。これで兵力は、こちらが勝ることになります」
魏延は抜いた鼻毛を卓に並べ、満足そうにふっと吹いて飛ばした。
「羌からの援軍は、三万だ」
「三万・・・・・・」
「知っての通り、長安の魏軍へと向かう予定だった羌軍は、五万だ。値切られたのさ。恐らくこの三万は、戦場では役に立たんだろうな。そりゃそうだ。蜀と魏の戦争は、羌にとっては何の関係もないことだ」
「しかしそれで負けだというのは、あまりに早計ではありませんか。蜀軍には魏延殿がいます。魏延殿の用兵が優れていることは、一緒に漢中にいた私が一番よく分かっております」
これはお世辞ではなかった。趙雲や張郃と比べても、魏延の用兵は見劣りするものではなかった。その魏延の能力を見出し漢中に置いた劉備という人物は、やはり偉人であったのであろう。
「そう言ってもらえることは嬉しい。しかしな」
魏延は少し笑みを浮かべたが、すぐに不機嫌な顔になり、言った。
「長安からここに魏軍が向かってきている。それを迎え撃つ先鋒が、馬謖に決まった。そして副官は王平、お前だ」
「えっ」
王平の喉から思わず声が出た。あの男は、俺にすら勝てなかった男ではないか。
「ここに向かって来ているのは、張郃って将だ。あれは強いぞ」
王平は背筋が凍る思いがした。馬謖が、いくら逆立ちしたって勝てる相手ではないではないか。
「お前、張郃を知ってんのか」
「知っているも何も、洛陽にいた時に手合せをしたことがあります。私は、手も足も出ませんでした」
それを聞いた魏延は好奇心を顔一杯に浮かべた。やはりこの男は、生粋の軍人なのだろう。
「そうか、手も足も出なかったか。そりゃそうだろう。漢中争奪戦の時はあの男に散々悩まされたからな。一番悩んだのは、その時に蜀軍の軍師をしていた法正って人だ。悩み過ぎて、髪の毛がよく抜けると言っていた。その人は戦後に亡くなったんだが、張郃が魏軍にいなけりゃまだ生きていたかもしれん」
魏延が残念そうに言った。その言いぶりからして、その法正という人はかなり優秀だったのであろうと思えた。
「どうだ、王平。勝てると思うか」
王平は答えに困った。正直、思えない。
「丞相は、何故魏延殿を先鋒にされないのですか。魏延殿なら、張郃将軍に対抗できると思います」
「丞相はな、俺のことを嫌っているのよ。俺のような自己主張をする男より、自分の命令に黙って従う者を使う。自分でものを考えない奴が敵を打ち砕くことができるなんて、俺には思えんがね」
王平は黙って頷いた。戦場に先頭を切って立ったことがあるだけに、魏延の言うことはもっともだと思えた。
「王平」
魏延が卓に身を乗り出し、じっとこちらを見据えてきた。
「負けると思ったら、無理をせず退け。熱くなって、兵を無駄死にさせる将にだけはなるな。丞相は俺のことをどう思っているのか知らんが、俺はこう見えて戦場で冷静さを欠いたことがねえ。それは趙雲将軍にも認めてもらっていることだ。それにな」
と、魏延は目を逸らしながら言った。
「俺は、お前のことを友だと思っている。戦場で友を失うことは、何度あっても嫌なもんだ」
ふっと、王平は思わず噴き出した。
「くっそ、笑うんじゃねえ馬鹿野郎」
「御意。戦場で友を失う痛みは、私も知っています。無理だと思ったら、退きます」
魏延はそれを聞き、満足そうな笑みを満面に浮かべた。
王双は馬を走らせ敵陣の全容を視察していた。岩山に幾重もの柵を張り巡らせて一つの大きな砦となっている。それに対して曹真軍は、田園を挟んで五里の距離を置いた平地に陣を布いている。地の利は、圧倒的に蜀軍側にあった。
曹真軍の三万に対して敵の趙雲軍は一万である。何故苦戦しているのかと思ったが、これは布陣の仕方に差があるからだということがよくわかった。こちらの方が大軍とはいえ、攻め込めば大きな被害が出ることは必至であるし、退けば退いたで追撃を受け、この場合も甚大な被害が出るだろう。
西方の天水に蜀の本隊が出現したとの報告があったのは、曹真軍が長安を進発した後であった。つまり、この趙雲軍は囮であったのだ。曹真軍はそれに引っ掛かり、今や退くに退けない状況にある。
王双は馬を岩山に近づけ、できるだけ敵の様子を目に焼き付けようとした。兵の表情。その顔に倦怠感はなく、皆一様に戦意が漲っている。これは手強い、と王双は思った。敵将である趙雲という男は、よほどの統率力があるのであろう。
敵陣から数本の矢が飛んできた、王双の足元に突き立った。距離があるので当たりはしないが、これ以上近づくのは危ない。王双は馬首を返して、自陣へと戻っていった。
戻ると、自軍の大将である曹真の幕舎へと報告に上がった。あばた顔が暗い印象を与える将であったが、用兵の術には長けていた、それはあの曹操直伝の技なのだという。
「どうであったか」
曹真は腕を組み、低い声で聞いてきた。
「敵は守りを堅くしており、出てくる気配はありませんでした」
「それで、他には」
腕を組んだまま目を瞑り、仏頂面になって言った。恐らく本人に悪気はないのだろうが、人によってはこれを「そんなことはわかっている」と思っていると取られてしまうだろう。
「できるだけ近づいてみました。敵兵の顔に緩みはなく、長い滞陣に倦んでいるという気配はありません。迂闊に攻めかければ、大きな痛手を受けることと思います」
「そうか、そんなに近づいたのか」
この男なりに褒めているのだろう。そう言った曹真の顔が、ふっと笑った。丸々としたその顔は、軍人というより商人のようであった。もしかするとこの男は、軍人よりも商家の旦那となった方が似合っているのかもしれない。
「郝昭」
曹真が言うと、隣に座っていた副官が返事をし、二人は目を合わせて頷きあった。
「わしに考えがある。詳しくは、郝昭の口から聞くがいい」
郝昭が立ち上がった。王双は拝礼をして、その後に続いた。通された別の幕舎には、一人の男が待っていた。
「朴胡と申します」
忍びだ。その何気ない挙措を見て、王双は直観した。朴胡もそれを感じ取ったのか、王双の顔を見てにやりと笑った。
「王双、十年前にお前は王平という者の下で忍び働きをしていたらしいな」
郝昭が言った。意外な名前が出てきたので、王双は驚いた。
「その通りです」
「朴胡はな、その王平とやらの朋輩だ」
おお、と思わず王双は声を出し、朴胡に手を差し出した。朴胡もその手を、素直に取ってくれた。
「残念ながら、今の我が軍には目の前の敵を打ち破る手段がない。そこで朴胡を使い、敵将の暗殺を試みる。お前の戦歴を見ると、十年前に漢中で蜀軍と争った時に忍びとしてなかなかの働きをしていることがわかった。それにお前は隻腕とはいえ、剣をよく使うそうではないか」
調練場でしばしば起こしていた粛清沙汰が、この男の耳にも入ったのだろうか。そう思うと、少し気恥ずかしかった。
「確かに、あの軍は正面から攻めかけてもびくともしないでしょう。副官殿の仰ることは、妥当かと思います」
「おお、それではやってくれるか。実はな、お前は隻腕だから、こちらからは何となく頼み辛かったのだ」
そんなことを気にして戦ができるか。王双はそう思いながらも、その優しさが嬉しかった。
「戦場に、惜しい命など持ち合わせてきておりません。暗殺の御下知を下さるのならば、命をかけてその趙雲とやらの首を取りに参りましょう」
それから、王双と朴胡はどのように敵陣に忍び込むかを協議した。どこから攻めればいいかは既に朴胡が調査しており、敵陣で一番手薄な所を示してくれた。手薄といっても、他と比べればということで、敵に見つかる可能性は十分にある。そして二人は、星が消える雨の日に作戦を決行することにした。
三日間、晴れの日が続いた。その間は曹真軍が滞在している地にある軍市で時を過ごした。驚いたことに、こんなところにまで飯屋があり、妓楼もある。昼間は体を鈍らせないよう朴胡と走り、組打ちもした。そして夜は旨いものをたらふく食い、妓楼で女を抱いた。女に聞くと、ここでの方が長安に比べて給与が良いらしい。そのため、料理人や娼婦が出稼ぎに来ているのだという。そのため飯の味は良かったし、美しい女も少なくなかった。それにここは戦場であるため、奴らは皆胆が据わっており、軍人とも気が合うようだった。妓楼で抱いた女は王双の醜い左腕を見て、格好良いと言ってくれた。お世辞であろうが、王双にはそれが嬉しかった。
四日目、雨が降った。王双は、朴胡とその部下十名を伴い、馬に枚をふくませ草鞋を履かせて敵の拠る岩山へと向かった。雨のせいか、篝火が少ない。その分、見張りの兵が多いようであったが、雑兵の目を掻い潜ることなどわけもないことだった。
王双は夜陰に潜み、朴胡の後に続いて行った。
「あれだ」
朴胡は唇を動かすことで、王双に伝えてきた。雨霧に紛れて見え辛いが、遠くに一際大きな幕舎が見えた。雨の重みで萎えている「蜀」の大きな旗も見える。さて、ここからどうするか。
不意に声が聞こえ、王双らはさっと伏せた。声は、二人。小便をしに出てきたらしく、こちらが見つかった様子はない。王双と朴胡は目で合図をし、二人の背後に忍び寄り、音もなく殺した。死体を岩陰に隠し、具足を剥いで身に付けた。事は上手く運ばれていた。
蜀兵に扮した二人は堂々と陣中を歩いた。朴胡の手の者十名には、その間に退路を確保するよう命じた。
「お疲れ様です」
途中で、同じ格好をした二人の歩哨に声をかけられた。王双らは、同じように挨拶をした。闇が顔を隠してくれているので、ばれはしなかった。
趙雲がいる幕舎の前まで辿り着いた。
「将軍に、報告したいことがあります」
二人の衛兵に向かって朴胡が言った。
「こんな時間に何用だ。将軍はもうお休みであられるぞ」
「急用なのです。何卒、お察しを」
「ふむ」
衛兵は困った顔をした。その時、後ろから声をかけられた。
「おい、さっきの二人」
王双と朴胡の背中に、冷たいものが走った。
「聞き慣れない声だったな。ちょっと顔を」
言い終わる前に朴胡が後ろの二人を倒し、王双が前の二人を倒した。
その勢いで、王双と朴胡は幕舎に雪崩れ込んだ。
「曲者」
声が上がり、人が動き出す気配がした。
趙雲。目の前に現れた時は、既に剣を構えていた。しかし、具足は付けていない。白い髪と白い髭と蓄えたその将軍は、二人を前にしても一歩もたじろぐ様子はなかった。
「貴様ら」
右から声がした。同時に、朴胡の頭が燃え上がった。そして剣で胸を突かれて朴胡は絶叫した。
趙雲。その目はこっちを睨み据え、闘気を漲らせていた。ありがたい。俺のような雑兵にも、真剣に向き合ってくれるのか。王双も剣を後ろ手に、闘気を漲らせた。
「父上、なりません」
耳に入った時、訓の顔が頭をよぎった。くそ、どうしてこんな時に。
一歩。同時に王双も踏み出した。そして地を蹴り、外へ出た。目の前がおかしい。しかし、そんなことは気にしていられない。
外では朴胡の部下が敵兵とやり合っていた。さすがに闇の中ではこちらが有利だ。そんな中、味方の一人が見つけ出してくれた。どうしてそんな顔をする。腕は動くし、脚も動く。たださっきから、少し目の前がおかしい。そんなことはどうでもいい。早く逃げねば。
敵陣を抜け、岩山を降りた。そして予め馬をつないであった所に辿り着いた。ここまで来れば、もう大丈夫だ。朴胡の部下は、三人に減っていた。朴胡も、目の前で死んだ。しかしあの一撃には、確かな手応えがあった。少し血を流し過ぎたかもしれない。一息つくと、そんなことを考える余裕ができた。足元がふらついた。憶えているのは、そこまでであった。