王平伝 7-13
兵の笑い声が、北からの風に乗ってやってきた。蔣斌は、兵糧庫から周囲を見渡せる櫓の上で、東の魏軍が陣取る方を眺めながらそれを聞いていた。
「向こうの戦線で魏延殿が何かやっているな」
怪訝にしていると、隣で同じく遠くを眺める王平が言った。王平はそれ以上は何も言わず、どんな変化も見逃すまいと、ただ黙々と東に視線を集中させていた。
眼下には壕が掘られて逆茂木が張り巡らされ、弩を備えた兵が配されていて、敵は容易にこれを破ることはできないだろうと思えた。
背後では、兵糧を扱う兵の怒鳴り声が響き続いていた。東岸に貯えられた大量の兵糧を、一刻でも早く西岸に移さなければならないため、劉敏が兵の尻を蹴って督促しているのだ。言うまでもなく、戦には兵糧が必要で、これが魏軍の脅威に晒されているため王平軍はここに布陣しているのである。逆を言えば、ここに兵糧がなければこれだけの迎撃態勢を布く必要はなく、今頃は全軍が西の五丈原に陣を移していたことだろう。蔣斌は漢中から運ばれてくる穀物のため、これだけの多くの兵が命を懸けているということに、目眩にも似た違和感を覚えていた。
「来た」
王平が言い、蔣斌は反射的にそちらに目を凝らした。なだらかな丘の稜線から、黒い粒が現れると同時に、土煙が舞い上がり始めた。
「数はわかるか、蔣斌」
不意に言われて焦り、蔣斌はその全容を見ようとさらに目を凝らした。
「五千騎です」
「よろしい。しかし遅い。次は見た瞬間に測れ」
早口に言い残し、王平は櫓から身を滑らせた。そして馬に飛び乗り、騎馬隊を率いて出撃して行った。
やがて魏軍の歩兵も見え始めた。数は、二万五千といったところか。その魏軍歩兵の手前で、二つの騎馬隊が瀬踏みをするようなぶつかり合いを始めた。
蔣斌も櫓から下り、王平軍の歩兵を指揮する杜棋の所へ走った。
「騎馬五千、その後ろから歩兵が二万五千」
「わかった。お前もすぐに配置につけ」
蔣斌は頷き、予め決められていた場所へ走った。杜棋の下で、百人の部隊を指揮するのだ。こういった防衛戦は、漢中での調練で嫌になるくらいやっている。兵を指揮しての実戦は初めてだが、大きな不安はなかった。
「隊長、こんなぎりぎりまでどこに行っていたのですか」
指揮する百人の中の、かなり古参の兵が蔣斌に近付いてきて言った。
「お前の知ったことではない。黙って配置についていろ」
髪に白いものを混じらせた古参の兵が、呆れたような顔をして見せた。明らかに、まだ若い自分のことを侮っている。
「こういう時は、兵は不安なのです。なるべくここにいてもらわないと」
まるで自分の方が戦に詳しいと言わんばかりの口調で、蔣斌は苛立った。
「うるさい。そんなことは、お前からとやかく言われることではない」
頭がかっとなり、早口でまくしたてた。それでもその古参兵は、それに動じる素振りも見せず、平然と歩み寄ってきた。
「初めての指揮で気が昂ぶっているのはわかります。でも実際に命を懸けるのは我々なわけですし、経験ある者の言うことも少しは聞いてもらわないと」
体を纏う具足の銅札をがらがら言わせながら、古参兵は蔣斌の隣に腰を下ろした。
「何をしている。配置につけと言うのがわからないのか。何故、ここに座るのだ」
あまりに予想外のことで蔣斌は怒鳴ることすら忘れた。兵は、将の言うことを聞くものではないのか。
「ここで助言をさせて下さい。決して損にはなりません。今は気が立っているから私のことに腹を立てるかもしれませんが、後になればきっと間違っていなかったと思えるはずです」
あくまで表情を変えず、まだ若い蔣斌を宥めようとするその言い草に、蔣斌はさらに苛立った。ふてぶてしい古参兵のこの態度が、酷く不気味なものにも見えた。
「くどい。早く戻らねば、首を飛ばす」
言ったが、剣は抜かなかった。古参兵は一瞬だけ怯みを見せたが、一瞬だけだった。剣を抜けばよかったと、蔣斌は兵を睨みつけながら、心の中で後悔した。
「私は今まで、戦場で何度も死ぬ思いをしました。しかし、生きています。こういう兵は近くに置いといた方がいいですよ。それに」
喋り続けるその首を、蔣斌は抜き打ちで飛ばした。座っていた体が仰向けに倒れ、血溜まりが広がっていった。
兵の中から一人が飛び出してきた。その兵は、古参兵のことを兄貴と呼び、転がった首を抱きかかえていた。
「その死体を片付けておけ」
蔣斌はそちらに一瞥もせず言い捨て、近づく魏軍を見ようと逆茂木の向こうへと目をやった。王平の騎馬隊が魏軍歩兵にちょっかいを出そうとし、夏侯の騎馬隊がそれを阻んでいる。魏軍歩兵は王平に止められることなく前進し続け、その手前を駆ける二つの騎馬隊は絡み合うようにして戦場を移して行った。
「敵が来るぞ。弩を構えろ」
騎馬隊が去った目の前に、盾を並べた魏軍歩兵が迫ってきた。蔣斌は弓の間合いを見定めようと目を凝らした。矢が届く。そう思えた時、蔣斌は叫んだ。
「放て」
弦を弾く音が一斉に鳴った。しかし矢は届くが距離のため勢いが死に、ほとんどの矢が敵の盾により防がれていた。
「はえーよ」
自陣のどこかから声が上がり、周囲から幾つかの含み笑いが聞こえてきた。
「誰だ、言ったのは」
蔣斌は言ったが、答える者は当然のようにいなかった。そうしている間にも、敵は近づいてきている。
「矢の装填。でき次第、構え」
言いながら、蔣斌は周囲を見渡してぞっとした。誰もがやる気なさそうに弩をいじっている。こんなことは、調練ではなかったことだ。こんな時は、どうすればいいのだ。蔣斌の頭が混乱し始めた。
「放て」
混乱しながらも、声は出せた。今度は効果のある距離だ。そう思っていると、足元に何かが突き立った。矢。それは後ろの味方から射られたものだった。
「誰だ、これを射った者は」
蔣斌は足元の矢を引き抜いて叫んだ。
「お前か」
矢が来た方向にいた者の一人に言った。
「違います」
「では、誰だ」
「それは」
にやけるばかりで答えようとしないその兵に歩み寄り、剣を向けた。
「隊長、矢が」
兵が指さしたので振り向くと、大量の火矢が空から襲いかかってきていた。盾か。いや、間に合わない。
「矢に背を向けるな。しっかり見れば、よけるか叩き落とすかできるはずだ」
そう言ったが、それでも矢を恐れてその場に蹲り、背を貫かれる者が何人かいた。火矢は兵だけでなく逆茂木にも注がれ、所々で火が点き始めていた。なるほど先ず逆茂木を燃やして取り除こうという作戦なのだろう。
ふと蔣斌は殺気を感じ振り返った。弩をこちらに向ける兵。放たれた矢を叩き落とし、その兵の懐に飛び込んで剣を振った。弩を持つ両腕が吹き飛び、血が舞った。
「何故、俺に矢を射った」
両腕を失った兵はその場にへたりこみ、何がおかしいのか、顔を俯かせて低く笑い始めた。
「面白いからさ。それ以外に何がある」
「面白いだと」
「面白いさ。お前が焦って慌てる顔がな。それだけだよ」
未知のものに触れた気がし、蔣斌は全身を粟立たせた。戦だというのに、こいつは何を言っているのだ。
「俺が慌てるのが、そんなに面白いか」
「面白いとも。お前のような育ちの良いぼんぼんが、俺らみたいな雑兵に遊ばれているんだからな」
「今は、戦だぞ」
「そんなもの、俺の知ったことか。戦だろうが、なんだろうが、俺は面白けりゃいいんだ。俺らはお前のような真面目君とは違うんだよ。お前なんかじゃ、俺らが何を考えてるかなんてわからないだろう?」
「上官に矢を向ける者のことなどわかるか」
「つまらんね。お前のような恵まれた奴を見てると、本当につまらん。お前の頭を掴んで俺らの視線にまで下げさせて、俺らが何を見ているか、無理矢理にでも見せてやりたいね。でもこの腕じゃだめだな。これじゃあ自慰もできねえ。もうさっさと殺してくれよ」
「死ね」
兵の首が飛んだ。
嫌なものを斬ったという気がして、蔣斌は顔を歪めた。将の下にいる兵とは、こういうものなのか。思いつつ、蔣斌は頭を切り替えた。敵からの火矢はまだ飛んできているのだ。
敵からの火矢を対処するばかりで時は過ぎ、日が暮れ始めたところで魏軍は退いていった。兵の被害は少なかったが、逆茂木が散々に燃やされていて、各隊は川の水を汲んで消化の作業に当たった。これではもう、逆茂木は無いに等しい。明日、魏軍の大兵に圧されれば、ここを支えることはできないかもしれない。
陣に篝が焚かれ、兵糧が配られ始めた。蔣斌は自分が指揮する百人隊を離れ、杜棋のいる焚火の方へと足を向けた。とてもじゃないが、自分の隊内で飯を食う気にはなれなかった。
行くと杜棋が王平と立ち話をしていて、蔣斌は遠慮して少し離れた所で待った。
「おう、蔣斌。初めての指揮はどうだった」
こちらに気付いた王平が話しかけてきた。蔣斌は答えに困り、顔を俯かせた。
「何かあったと見えるな。とりあえず二人とも、飯を食おう」
三人で焚火を囲み、兵糧の入った器を手にした。
「俺は、軍の指揮に向いていないかもしれません」
王平が促すように目を向けてきたので、蔣斌は言った。
「戦に負けたわけでも、大きな失敗があったわけでもないのに、どうしてそんなことを言う」
杜棋が眉をしかめた。
「兵が私の言うことを聞かないのです。敵が来れば戦いはしますが、それぞれが勝手にやっているのです。私はそこで浮いているだけなのですよ」
「はじめからそう上手くはいかんものだ、蔣斌」
「兵を斬りはしたか」
王平が兵糧を煮た汁を啜りながら言った。
「二人、斬りました」
敵兵はまだ斬っていないと、ふと思った。斬っているのは、味方の兵ばかりではないか。
「俺も昔、自分が率いる兵に舐められたことがあった。その時の俺はまだ魏軍に属していて、洛陽で少数の山岳部隊を調練していた。まだ若造だった俺の言うことなど聞きたくはないということだった」
自分と同じだ、と蔣斌は思った。
「それで、どうされたのですか」
「文句を言う奴の中で、一番強そうなのを殴った。殴られもした。それで次の日から、そいつは言うことを聞くようになった。文句を言う奴もいなくなった。その殴り合った相手は、王双というんだがな」
「王訓の叔父上殿ですか」
「そうだ。面倒な奴だったが、頼りにもなった。はじめは殺してやろうかと思ってたんだがな」
「王双という人は、陳倉で蜀軍相手に、寡兵にも関わらず一歩も退かなかったと聞いています」
「剛胆な男だった。この額の傷は、王双につけられたものだ。長く王訓のことを放っておいたから、それに対してあいつは怒ったんだ」
初めて王平に会った時、額の傷は既にあった。大きな傷だと一目見て思った。軍人だから、こういう傷があるものなのだと何となく思っていた。
「話が逸れてしまったな。兵は、斬るな。殴られるつもりで、殴るのだ。こちらが指揮官だから無条件で言うことを聞いてもらえるなどと思うのは、甘えに過ぎん。兵はその甘えをよく見ているぞ」
「わかりました」
口ではそう言ったが、蔣斌は納得していなかった。自分は指揮の技を調練で磨いて、兵もそれは知っているはずなのだ。いざ戦となり、自分の命が懸かっているというのに、兵がより技と知識を持っている者の言うことを無視するなど、不合理なだけではないか。軍とは、そういう不合理なものを排除した組織であるべきではないのか。
「おい、小僧」
はっとして前を見ると、いつからそこにいたのか、眼帯をした句扶の顔があった。
「何かつまらんことを考えていたな。早く席をはずせと言っているんだ」
何度か同じことを言われたのだと気付き、蔣斌は直立した。
「失礼いたしました」
「すぐに呼ぶ。近くで待っていろ」
王平に言われ、蔣斌は焚火から離れた。
後方からは、劉敏が指揮する兵糧部隊の声が聞こえ続けている。恐らく今夜は不眠不休なのだろう。それだけ、蜀軍がここに用意した兵糧の量は、膨大なものなのだ。
しばらく時が経ち、杜棋が呼びに来た。焚火の所には、もう句扶の姿はない。
「これから六刻後に、夜襲をやる。蚩尤軍の調べによると、魏軍はこの周辺の村に兵を駐屯させ、夜明けとともに攻撃を始めるつもりのようだ。その最前線を叩き、攻撃を遅らせ時間を稼ぐ」
言われて、蔣斌の頭に一つのことが過った。王其村はどうなっているのか。そこにいる、琳はどうしているのか。
「おい、聞いているのか」
言われてまたはっとし、杜棋が呆れたように大きなため息をついた。
「こいつは初陣で、少しあがっているのだと思います。夜襲には参加させない方がよろしいかと思います」
「そんな、私は」
意外なことを杜棋から言われ、蔣斌は狼狽した。
「だめだ。そんな心構えで出れば、すぐに死ぬぞ」
「その方がよさそうだな。お前はここに残って陣の守備だ。夜襲が終われば斥候をやらせるかもしれん。準備しておけ」
蔣斌は何か言おうとしたが言葉が出てこず、また王平と杜棋も構わず夜襲の段取りを話し始めたので、蔣斌は仕方なく自陣に戻った。
百人隊の中心にある大きな篝が周囲を照らし、兵は思い思いにしていた。半数を歩哨に、半数を休息に交替で回すよう指示し、蔣斌は櫓に上った。
暗闇の向こう側に、魏軍の篝が星のように点々として見えた。この陣地から、王其村は近い。そこにも魏軍は入っているのだろうか。琳に対する心配と、考えても仕方がないことだという思いが繰り返し交錯し、時は過ぎていった。
夜が更け、枚を噛んだ王平軍歩兵が、静かに陣を出て行った。蜀軍陣地が照らす歩兵の後ろ姿はやがて闇に溶け、完全に見えなくなった頃に、魏軍の陣地から大きな光が何個もあがるのが見えた。恐らく、蚩尤軍が火計を遣っているのだ。兵の声が、闇の中から湧くようにして聞こえてきた。
蔣斌は櫓を下り、馬の支度をした。蜀軍兵士が敗走してこないのを見ると、夜襲は成功したのだろう。前線の様子を見て来いという伝令がすぐにでも来るかもしれない。
準備をする蔣斌に、兵の一人が近づいてきた。
「隊長、あれは夜襲ですよね」
「そうだ。見ればわかるだろう」
「俺らの隊は、留守番ですか。いいなあ、あいつら。俺も手柄を立てたいなあ」
蔣斌はそれを無視した。今は構っている暇ではないのだ。そう思いながらも、兵の言葉に気を取られ、蔣斌は担いだ鞍を馬の尻にぶつけてしまい、驚いた馬が一つ鳴き声を上げた。
「俺らは軍団長から戦力として見なされていないんですかねえ」
お前は将として戦力に数えられていないのではないか、と言われた気がした。
殴られるつもりで、殴れ。王平から言われた言葉が浮かんだ。しかし、無視した。すぐにでも馬に乗れる用意を整えておかなければならないのだ。兵の相手をしている暇などないし、こんな雑兵の言うことにいちいち付き合うなど、馬鹿馬鹿しいという気しかしない。
無視していると諦めたのか、兵は離れて行った。離れた所で、別の兵と話しながら大きな笑い声を立て始め、蔣斌を更に苛つかせた。
空が白み、伝令がやってきて、斥候を命じられた。蔣斌はそこから逃げるようにして馬を走らせた。
他の斥候と行先を確認し合い、敵陣へ向かった。その行く先には、王其村がある。村が近づくにつれ蔣斌の胸が高鳴り、早く琳の顔を見て安心したくて、馬の腹を蹴った。
蜀軍陣地に戻る王平軍歩兵の集団と行き交い、王其村についた。
そこは蔣斌が心配していた通り、戦場となっていた。村の道には兵の死体が転がり、犬や鳥がそれを啄んでいて、まだ燃えている茅葺の家もある。
魏軍兵士の姿が見えないことから、王平軍の夜襲はここにいた魏軍兵士を追い払ったのだろう。
しかし今の蔣斌にとって、そんなことは二の次で良かった。
琳の家についた。かつて琳の体を抱いた草むらが、朝の光を受けて青々と繁っていた。
家の中に、琳はいた。いや、かつて琳だった体がそこにあった。鼻と口から血の筋を垂らし、半分見開かれた目はもう瞬くことを忘れていた。体は乱れ、股には木の枝が刺されてそこからも血が流れていた。
蔣斌はゆっくりと歩み寄り、その無惨な姿となった体を抱いた。前に抱いた時は暖かかったその体は、驚くほどに冷たくなっていた。
不思議と涙は流れてこなかった。代わりに、おかしな笑いが込み上げてきた。琳が魏の兵に犯され、苦しみ、殺されている時、自分は何をしていたのか。櫓の上からそれを眺めていたのだ。闇の向こう側から、琳が犯されているのを、指を咥えて眺めていたのだ。
蔣斌は笑いながら頭を抱えた。無理をしてでも、この女を攫ってしまうべきではなかったのか。軍紀がどうだと言って、琳を連れて帰る知恵を出す努力すらしなかった。自分がやったことは、会いたいからといって、戦が始まる前に会いに来ただけだ。琳が望んでいたのは、そんなことではなかったはずだ。
悔いとも憤怒とも言えないどす黒いものが、腹の底から湧水のように溢れ、それが口から笑い声として漏れ続けた。
兵の指揮も上手くできないくせに、軍のために女を後回しにし、結果として妻にしたかった女を死なせてしまった。それも無惨な方法で、汚されながら、死んでいった。
俺は、一体なんだというのだ。
蔣斌は琳の体を地に投げ出した。既に固くなり始めているその体が、おかしな格好で粗末な床に横たわった。
蔣斌は剣を抜き、切っ先を自分の喉に当てた。このまま貫いてしまえばいい。それが琳に対する償いになるのではないか。しばらくそうしていたが、できなかった。切っ先を当てた喉仏から、血が一筋流れただけだ。
血が流れるのと同時に、涙も流れてきた。そしてそのまま、琳の体の横で子供のように泣いた。隣で、瞬かない琳の両眼が、どこか一点を見続けていた。