王平伝 6-8
まだ微かに蝉が鳴く漢中に戻ってきた。八万の蜀軍はそこで解散し、王平は手勢の二万と共に楽城に入った。
北の戦場とは違い、ここは長閑なものであった。蝉の他にも鳥が鳴き、地には牛馬を曳かせて農耕に励む人の営みがあった。何のために戦をしているのか分からなくなる程の、静謐さである。
それでも楽城の執務室では、劉敏がせっせと軍政に関する書類を作っていた。魏との戦いはまだ終わったわけではない。これからまた兵馬を鍛え、穀物の増産に努めなければならない。戦に負けたとはいえ、諸葛亮が漢朝の復興を諦めたわけではないのだ。
王平は楽城内にある療養所に足を運んだ。張郃戦で怪我を負った杜棋が、寝台に横たわって外を眺めていた。
「具合はどうだ、杜棋」
「あっ、将軍」
王平に気付いた杜棋が寝台から飛び起きたが、まだ傷が痛むのか、顔を歪めて呻き声を漏らした。
「楽にしておけ。まだ骨が完全につながっていないと医者から聞いたぞ」
「こんな有様で失礼します。もう、一人で歩けるようにはなったのですが」
王平は土産に持ってきた酒の筒を出した。
「飲め。少しくらいなら、傷に響くこともないだろう」
杜棋は器を両手で包んで頭を下げ、王平からの酌を受けた。
「張郃を討ち取った将軍の御活躍、見事で御座いました。これで俺も怪我をした甲斐があるというものです」
「戦自体には負けたのだ。長安に辿り着けもせず、漢中に戻ってきて、そんなものは何の自慢にもならん」
張郃を討ち取ったことで、蜀軍内での王平の評価は上がっていた。それに悪い気がするはずもないが、時に煩わしく感じた。長安を取れなかったから、その替わりに王平を褒めているという感じがしてしまうのだ。
今回の戦は、長安を落として初めて勝ちと言えた。いくら実力のある張郃を討ち取ったと言っても、それは魏軍の一武将を倒したということに過ぎない。
「蔣斌はどうしている、大きな怪我はしなかったが、心に傷を負ったと聞いている」
「味方が一方的に殺されたのが、かなり応えているようです。木門から漢中に帰る時もずっと上の空で、ほとんど口をきいてくれませんでした」
「あの若さで、しかも初陣の相手が張郃だった。俺はあいつに酷なことをさせてしまったのかもしれない」
「今は、黄襲殿の飯屋にいます。ここにいたら、あいつは馬の嘶きを聞いただけでも全身を震わせてしまうのですよ」
「黄襲殿か。あの人なら兵の気持ちもわかるし、それはいいかもな。俺の息子も、あの人には世話になった」
「蔣斌はもう、軍人としたは駄目かもしれません。初陣で、それも唐突な敵襲で、何の心の準備もないのに、目の前で味方が腸を零すところを見てしまったのです。あれでどうにかならない方がおかしいですよ」
「一度、会いに行ってみるかな。お前も一緒に来い。歩けるのなら、駆け足でなければ馬にも乗れるだろう」
「自分も心配していたところです。お邪魔でなければ、是非」
次の日、王平は執務室で書類と格闘する劉敏に一言告げ、杜棋と共に楽城を出た。馬を駆けさせると杜棋の腹の骨がまだ痛むらしく、二人はのんびりと馬を歩ませた。
「わかりましたと、一言だけ膝を震わせながら言っていたぞ。劉敏は蔣斌には厳しいが、あれはあれで気になっているのだろう」
「良い叔父貴だと思います。厳しくはありますが、蔣斌にとって意味のないことは言っていないと思います。そのとばっちりが俺のところに来るのは、勘弁願いたいものなのですが」
そんな話をしながら、日が落ち始めた頃に漢中の街に到着した。
「黄襲殿、おられるか」
黄襲の飯屋に訪いを入れると、王平の声を聞いた黄襲が店の中から飛び出してきた。
「王平殿、御無事で何よりです。今回の戦も大変だったようですな」
「もう少しで長安を落とせてやれるところだった。魏の奴らは、あきれるくらいに悪運が強いようだ」
「兵糧ばかりで飽きていることでしょう。今から料理を出しますんで、ゆっくりとしていってください」
言って黄襲は店の看板を片付け始めた。どうやら今日は自分らのために見せを閉めるらしい。王平はそれに遠慮をしたが、黄襲は構わないからと言って厨房の中に入っていった。
いつもの個室でしばらく杜棋とくつろいでいると、二階から誰かが駆けてくる音がし、蔣斌が入ってきた。
「この度の戦は、大義で御座いました」
さすがは蔣琬の子だけあり、蔣斌は折り目正しく王平らに挨拶をした。
顔を上げた蔣斌の目の下は、ひどく黒ずんでいた。あまり眠っていないのかもしれない、と王平は思った。
「蔣斌、あの戦場でよく生き残った。おかげで俺は、張郃を討ち取ることができた」
「私は、あの戦場で戦うこともせず、ただ怯えているだけでした」
苦笑する蔣斌の後ろから、まだ幼い子がひょっこりと顔を出した。
「その子は誰だ」
「句扶殿の子の、句安です。こっちに戻ってきてから、よく一緒に遊んでいるんですよ」
「何、句扶の子だと」
王平は立ち上がり、まだ小さな句安の体を抱き上げた。なるほど、よく見ればどことなく句扶の面影があるかもしれない。
突然抱き上げられて驚いたのか、句安が泣き始めたので、王平も驚いて句安の小さな体を降ろした。
「これ、句安。蚩尤軍の頭の息子ともあろう者が、こんなことで泣いてはいかん」
蔣斌が句安を抱えると、句安はぴたりと泣くのを止めた。そして句安は蔣斌の胸に顔を埋めたまま王平の方を見ようともしなくなり、王平は閉口した。
「句安はお前に懐いているのだな」
「いつも遊んでいますからね」
「参ったな。俺はいきなり嫌われてしまったらしい」
王平が言うと、杜棋が隣でおかしげに笑った。
「怪我はよくなりましたか、杜棋殿」
「もうほとんど治ったさ。体が頑丈なことだけが、俺の取柄だからな。お前も飯をたくさん食って体をでかくして、俺のように強くなるんだ」
「はい、そうですね」
そう言い、蔣斌は顔を暗くさせた。頭の中では、嫌なことが思い出されているのかもしれない。
「やはりもう、戦場は嫌か」
杜棋が聞いた。
「そんなことはないのですが」
言って蔣斌は増々顔色を悪くさせた。初陣での衝撃が強過ぎたのだろう。杜棋が言っていたように、蔣斌はもう、軍人としては使えないかもしれない。
男の生きる道は軍人だけではない。王平はそう言おうとしたが、口を噤んだ。そう言ってしまえば、余計に蔣斌の男の心を傷つけてしまいかねない。戦に出たがっていた蔣琬がそうだったのだ。ここは時が過ぎるのを待ち、見守り続けるのが一番なのかもしれない。
黄襲の妻が料理を運んできた。大皿に、香辛料と一緒に焼いた羊の肉がたっぷり乗せられてある。部屋の中に大蒜の香りが立ち込め、王平らの食欲をかき立たせた。
暗くなりかけていたその場の空気が、旨そうな料理でぱっと明るくなった。しかし杜棋が肉の骨に手をかけようとしたその時、蔣斌がいきなり口を抑えて嘔吐し始めた。
「あら、この子ったら」
黄襲の妻が蔣斌に駆け寄った。その傍らでは、句安がその嘔吐物の臭いに顔を歪めてそれを見ていた。
蔣斌が黄襲の妻に連れられそこから出ていき、句安もそれについて出て行った。それと入れ替わるようにして、黄襲が入ってきた。
「またやってしまいましたか。戦のことを思い出すと、気持ちが悪くなるようなのです。料理の匂いを嗅いで、我慢ができなくなったのでしょう。戦場ではよほど嫌なものを見てしまったのでしょうな」
黄襲は蔣斌が吐き出したものを片付けながら言った。皮肉を籠めて言っているのではないのだろうが、王平にはその言葉が耳に痛かった。
「蔣斌は、そんなに酷いのですか」
杜棋が、黄襲を手伝いながら尋ねた。
「思い出すと、たまにああやって吐いてしまうのですよ。夜もよく魘されて、あまり眠れていないようなのです」
「目の下に隈があったな」
黄襲が頷いた。
「折角のお休みの時に、申し訳ありません」
「いや、黄襲殿の謝ることではない。これはあいつの、男としての問題だ。俺らは肉を食おうではないか」
酒も運ばれてきた。三人で卓を囲みながら、戦の話で盛り上がった。張郃を討った時のこと、その張郃に偽装して瀧関を攻めた時のこと、そして勝手に兵糧の輸送を止めてしまった李厳のことが話題に上がった。
「李厳殿は、失脚を免れないでしょうな。下手をすれば、死罪もあり得る」
「正直言って、俺はあの人を許せん。もう少しで長安を落とせたのだ。長安を落とし、涼州を得ることができれば、貧困に喘ぐ蜀の民も救われたというものを」
酒のせいもあり、王平は珍しく饒舌になっていた。それだけ李厳に対しては強い不満を持っているのだ。李厳があんな勝手なことをしなければ、今頃は長安の酒場でこうして酒を飲んでいたかもしれない。
「それでも、そのせいでこうやって漢中で一緒に酒を飲めることは、私にとっては嬉しいことです」
「それはいかん、黄襲殿。言ってしまえば悪いが、それは些細なことなのだ。俺は文字を読めないが、この国の歴史のことは知っている。俺らがいる今とは、その長い歴史の中の一点に過ぎない。この先もずっと続いていく、長い歴史の中の一点だ。男が戦う理由は、その長い、目には見えない不思議なものを護るためにあるべきなのだ。あの吐いていた青二才のためにも、それは守っていかなければならないものだ」
そう言われ、黄襲が椀を一気に呷った。
「その通りです、王平殿。男は、今だけを考えていてはいけない。戦いに身を置く男なら、なおさらです。李厳殿は今しか見えていないから、あんなことをやってしまったんだ」
黄襲も些か酔っているようだった。杜棋はそんな二人の会話を、酒を舐めるようにちびちびと飲みながら静かに聞いている。
「そして王訓のためにも、それは守っていかなければならないものですね」
唐突に息子のことを言われ、王平は無性に気恥ずかしくなった。少し喋り過ぎたかもしれない。
王訓のことが話に上がると、どうも気後れしてしまう。王歓のことや王双のことを、どうしても思い出してしまうからだ。こうして旨い酒と肉を喰らっていることも、何か悪いことをしているかのような気分になってしまう。
「戦は当分無いのでしょう。王訓に会いに、成都に行ってみてはどうですか」
「そうだな。考えておこう」
それもいいかもしれない、と王平は思った。蔣琬とも会って、こうして酒を飲みたいという気もする。
その日は黄襲の店に泊まることになった。
二階の部屋に入って寝ようとしていると、どこからか誰かがすすり泣く声が聞こえてきた。蔣斌だ。暗闇の中で、あの時の恐ろしい光景を思い出しているのだろうか。それとも自分のことが情けなくて泣いているのだろうか。王訓も、王双が死んでここに来たばかりの時は、こうして泣いていたのだろうか。そう考えると、どうにも居た堪れない気持ちになり、王平は耳を塞いでその声に背を向けた。王平が眠りに落ちるまで、その微か啜り泣きはずっと続いていた。
夜が明け、王平が一階に降りると、蔣斌と杜棋は既に起きていて、二人で粥を啜っていた。久しぶりに杜棋と会えたのが嬉しいのか蔣斌は楽し気に話していたが、やはり目の下は黒い。
「王平殿。俺は今からこいつを鍛え直してやります。こいつ、このままじゃ本当に駄目になってしまいますよ」
杜棋がそう言い、王平が頷いた。ここは蔣斌と仲の良い杜棋に任せておくのがいいのかもしれない。
王平も朝飯の粥を腹に入れ、自分の部屋に戻った。外からは、二人が木剣で打ち合う声が聞こえてきた。杜棋にとっても、療養明けのいい運動になるだろう。
今日は、句扶が訪ねてくることになっている。特に用があるということではない。しばらく戦はないし、ゆっくり酒でも飲もうということだった。
日が大分昇ってきた頃に、句扶はやってきた。そして黄襲の妻が、酒と簡単な料理を持ってきてくれた。
「お前の子を見たぞ。抱き上げたら、いきなり泣かれて嫌われてしまったようだがな」
「そうでしたか。情けない奴め」
そう言いながらも、句扶は珍しく笑みを顔に浮かべていた。この男もこんな父の顔をするようになったのかと、妙におかしかった。
「戦後の漢中はどうだ。相変わらず、黒蜘蛛は入り込んでいるのか」
「それ程でもないようです。兄者が張郃と戦っている時に、俺らの方でも黒蜘蛛とのぶつかり合いがあって、かなりの数を倒しました。残念ながら、郭奕は逃してしまったのですが」
「黒蜘蛛の統制に乱れがあると、瀧関でも言っていたな」
「忍びの戦いでは、こちらに分がありました。それだけに、李厳のしたことは悔やまれます」
句扶は、自分な嫌いな者の話をする時は、その感情を隠そうとしない。李厳のことは、戦に参加した誰もが怒っているのだ。
「忍びの構成員の補充は、すぐにというわけにはいきません。兄者には言うまでもないことだとは思いますがね。今のところ、漢中に黒蜘蛛の脅威はありません」
「それを聞いて安心した。今度は蔣斌や句安が攫われたということになったらかなわんからな」
「俺の目が黒い内は、もうあんなことにはなりませんよ」
昨年、魏軍が漢中に攻め込んできた時、王訓が黒蜘蛛に攫われた。その責任を取るため、句扶は自分の左目を抉ったのだった。その左目には、劉敏が作った蚩尤の眼帯が付けられている。
「蔣斌が、戦を怖がるようになったと聞きました」
「そうなのだ。あいつがいた部隊が、張郃騎馬隊に蹂躙された。目の前でかなり味方が殺されたらしい。何か良い考えはないかと思っていたところだ」
句扶は窓から顔を出し、下で稽古をしている蔣斌らをちらりと見た。
「俺に考えがあります」
「ほう、どんなだ」
「しばらくの間、あいつを借りてもいいですか」
句扶が口元に笑みを浮かべながら言った。さっきの笑みとは違い、忍びらしい悪そうな笑みだ。
句扶が出て行き、稽古をしている二人と何か話をし、蔣斌と二人でどこかへ行ってしまった。
どこへ行ったのだろうと思っていると、しばらくして句扶が一人で戻ってきた。
「どこへ行っていたというのだ、句扶」
「蔣斌を、妓楼に放り込んできました」
それを聞いた王平は、思わず噴き出した。
「俺の子を産んだ女が以前に働いていた、ちゃんとした妓楼です。おかしなことにはならないと思うのですが」
「それはいいな、句扶。お前はこういうことにも知恵が働くのだな」
「男にできないことは、女に丸投げしてしまえばいい。俺はそう思いますよ。あいつには、句安が世話になっていることですし」
「女の体を抱けば、よく眠れることだろう。句扶に相談したのは正解だったな」
一頻り酒を飲んで句扶が帰り、辺りが暗くなってきた頃に蔣斌は帰ってきた。帰ってきた蔣斌の顔を見ると、心なしか目の下の隈が薄くなっているという気がした。
「おう、蔣斌。どこに行っていたのだ」
店の奥から杜棋がひょっこり出てきて言った。
「句扶殿に、昼寝のできる良い場所を教えてもらったんですよ」
蔣斌と目が合い、王平は目で合図をした。それに気づいた蔣斌が、気恥ずかしそうに笑っている。
「ふうん。その昼寝ができる場所ってのは、どこなんだ」
「それは、句扶殿との秘密です」
昨日は見られなかった笑顔で、蔣斌がそう言った。
「まあいい。なんか元気が出てきたようだし」
「杜棋殿、俺は腹が減りました」
「そうか。じゃあ黄襲殿に何かつくってもらおう。しかしお前、昨日みたいにまた吐くんじゃないだろうな」
「いえ、もう大丈夫です」
「今朝まで粥を食うのがやっとだったのに、妙な奴だな」
そんなやりとりをして、二人は黄襲のいる厨房に入っていった。
男とは単純なものだなと、二人の背中を眺めながら、王平は思った。