王平伝 2-11
雨が濡らす永安の森から西へと伸びる寂しい街道を、諸葛亮は己が身を成都へと運ばせていた。その雨は暑さのために湿気となって人の肌へとまとわりつき、その体からはじわりと汗が滲み出ている。
劉備が死んだ。筵売りから身を起こし、一国の皇帝とまでなった巨人であった。
蜀から呉への国境を越えた夷陵という地で、蜀軍は大敗した。初めは順調に呉の小城を攻め陥としていった蜀軍であったが、伸びに伸びきった兵站を横激され、後方を遮断された。そして蜀軍は呉の大軍に包囲殲滅させられたのだった。そしてその中で、諸葛亮の義兄弟である馬良が死んだ。関羽、張飛が劉備軍の象徴であったように、諸葛亮、馬良といえば蜀の文治そのものであった。
かろうじて虎口を脱した劉備は永安の白帝城まで落ち延びた。
その報を受け、諸葛亮はすぐに白帝城へと急いで向かった。報せによると劉備は憔悴しきり、明日をも知れぬ命なのだという。
白帝城に着いた諸葛亮は、劉備の顔を見て息を呑まずにはいられなかった。成都を出た時にほほえんでいた面影は消え、頬は痩せこけ目はくぼみ、まるで十年も二十年も齢を得たようであった。たった一年足らずで人はこうも変われるものなのか。
「孔明か。悪いな、忙しいところを」
劉備は、隣町のおやじが碁でも打ちにきたかのように言った。それは久しく見なかった、益州を奪う前の劉備の姿だと思えた。
諸葛亮は、深く息を吸い込み、吐いた。
「だから言ったではありませんか。呉攻めは無謀であると」
「そうであったな。全く、孔明の言う通りであった」
「早く養生なさいませ。蜀の国内は私が首尾よく整えております。国力を早々に回復させ」
「よい、孔明」
劉備の言葉が遮った。その言葉に鋭さはなく、むしろ悲しい程に優しかった。
「もう、ここらでいい。夜になるとな、関羽と張飛がそこに立つのだ。よくやってくれた。さすが俺らの兄貴だと、誉めてくれるのだ」
諸葛亮は言葉もなく、ただ頷いた。劉備のこういう言葉を聞いていると、国を富ますことに没頭していた自分があまりに小さく見えてくる。劉備は一国という己の財産を投げ捨て、友人との義に走ったのだ。文官が自分の国を栄えさせようとすることが下らないはずがない。だが劉備の言葉がこうして心の内を震わせるのは、自分が文官である前に一人の男として劉備らと共通したものを持っているからである。
「お前がいてくれるおかげで、こうして死ぬ間際になっても安心していられる。お前はただの文官ではない。わしのような男を理解してくれ、最後までつきあってくれた、優秀な文官だ」
「何を弱気なことを言われます。成都へ帰還なさいませ。そして漢王朝を再興するというお志を」
今度は、諸葛亮が自ら言葉を止めた。劉備がそれを鼻で笑ったからだ。
「分かっておるのだろう、孔明。そんなことはどうでもいいのだ。わしは昔から中山靖王劉勝の子孫だと言っていたが、あんなものは口からの出任せに過ぎん。ただ、人の風下に立ちたくなかった。この世にはびこる、己の信念も持たず、飼われるように生きる人間の一人となりたくなかったのだ。わしは自分の正しいと思うことを曲げずに生きてきた。そして気付けば、一国の皇帝となってしまっていた」
劉備が咳き込んだ。もう休むようにという側近を手で制し、続けた。
「数千の上に立つ頭領がわしには調度良かったのだ。一国の民を抱えるには、器の小さな男であった。いつ死んでもおかしくなかった命が今日まで生き長らえた、運がいいだけの男であった。しかしそれは、多くの人たちにとっての不運であったのかもしれない」
「そのようなことはございません。今でも蜀の万民は、劉備様のことを慕っております」
「いいや孔明、わしには分かっているその慕ってくれるものたちの多くの命を、この呉攻めで失わせてしまった。しかしわしがわしであるためには、我侭だと言われようとこうする他はなかったのだ。そしてそのために命を落としていった者のためにも、わしはここで幕を引かねばならぬ」
劉備がまた咳き込んだ。しかし彼の言葉を止めることができる者は、もういなかった。
「後のことは孔明、お前に全て任す。残ったことは、全てお前に任せたいのだ。最後まで民のことを想い、呉攻めを本気で止めようとしてくれたのはお前一人だったという気がする。お前のようなものが、国の頭となるのが一番良い。国政も軍事も、お前が取り仕切れ。これをお前への、最後の贈り物とさせてくれ」
諸葛亮は、眼を閉じた。そして乱れそうになる心を必死に抑えた。乱れさせてしまえば、この男の声が聞こえなくなるではないか。
「もしあの世というものがあるのならば、孔明、お前には最高の酒と肉を向こうで用意して待っていよう。そしてお前が好きだったという女には、何かしらの爵位を与えてやろうではないか」
妙なことを憶えている。そう思うと同時に目尻から零れる一滴を、諸葛亮は止めることができなかった。
「こんな時に、何を馬鹿なことを」
「ほう、一国の主に、お前は馬鹿だと言うのか」
骨と皮だけになった顔が、ふっと笑った。諸葛亮は、触れれば折れてしまうのではないかというその手を取って言った。
「馬鹿です。大馬鹿者です。もっと他に色々と言っておくべきことがあるでしょうが。後継のこととか、その下で働く人材のこととか」
「そんなことは、死にゆくわしにとってもうどうでもいい。それも全て、お前の好きにやってくれ。わしがやるよりも、その方がいいという気もする」
そして劉備は少し眠らせてくれと言い、そのまま眼を覚ますことのない人となった。最後の力を、諸葛亮への言葉に費やしたのだった。
雨の中、御車の上で諸葛亮は自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。
死んだ後のことはどうでもいいと言いながら、その遺言はきちんとした文章として残されていた。恐らく、東へと進む軍の中でそれは作られたのであろう。それは孤独な作業だったに違いない。それを想うと、諸葛亮の胸はただ熱くなった。
歴史の真っ直中に立ってみたかった。それは、蜀を建国した中心人物の一人となることで果たされた夢であった。しかしそれは本当に自分が心から望んでいたことだったのだろうか。劉備が死んだという大きな喪失感が、諸葛亮にそう思わせた。
これから自分は、どのように生きて行けばいいのだ。国を富ませればいいのか。軍を養い魏国に攻め込めばいいのか。蜀のような小国が魏を討てるとは到底思えなかった。魏を討つどころか、蜀国内の情勢すらまだ安定していないのだ。
劉備は漢皇室のことを第一義とし、それを私物のように扱う曹操を最大の敵として転戦を重ねてきた。その意志の集大成が、蜀という国である。ちっぽけな一人の筵売りが多くの人を動かし、ここまでに至ったのだ。それはどう考えても、信じられない程の偉業であった。そして自分は、そんな信じられない国を任せられたのだ。
この死んでいった巨人のために生きていく。魏という大国を倒し劉備という男がいたことを後世まで伝えていかなければならないのだ。昔は、知の力によって自分の名を世に轟かせたいとばかり思っていた。今となっては、それは本当にちっぽけなことなのだと思える。金や権力のためでなく、自分の好きな人のために働く。それが男としての最高の生き方なのだと、劉備はこの世を去ってからも教えてくれているようであった。
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