王平伝 5-18

 簡易な造りの家屋が立ち並んだ軍市が、多くの商人と兵卒で賑わっていた。

 そこの商いは食堂と妓楼がほとんどで、他には賭博場や、大道芸の一座も何組かいる。どれもぼったくりのような値であったが、兵たちはそれを気にしている様子もない。八万の兵に銭が支払われ、それがここで費やされているのだ。利に聡い商人たちは、こぞってここに集まってきていた。

 夏候覇は不思議な気持ちで軍市を馬上から眺めていた。まるでここは戦場ではないかのようだ。それでもここから少し行けば、両軍合わせて十五万の兵が、殺し合いの時を待って対峙していた。

「若旦那、寄って行きませんか。いい娘がいますよ」

 眉をへの字に曲げた男が近寄ってきた。騎乗ということで、銭を持っていると目を付けられたのかもしれない。

 夏候覇はそれを無視し、馬を歩ませた。ここには滞陣の暇つぶしに様子見しに来ただけで、遊びに来たわけではない。男はすぐに諦めたようで、別の兵に声をかけに行った。

 夏候覇はしばらくそこを散策して軍営に戻り、張郃のいる幕舎に入った。

「夏候覇です。入ります」

「おう、軍市はどうだった」

「妙なものを見たという気がします。ここが戦場であることが信じられないような賑わい方でした」

「司馬懿殿も色々と考えておられる。この戦は、この場を守って動かなければ勝ちだが、それを理解せずに攻めたがる者も出てくるだろう。あの軍市は、そんな血の気の多い者たちの気を削ぐ」

「しかし、あれはいささか違うという気がします」

 卓につくと湯を出されたので、夏候覇はそれに口を付けた。軍市では今頃、兵らは酒を口にしているのだろう。

「お前は、銭を使ってきたのか」

 張郃が口元をにやつかせながら言った。

「使ってません。騎馬隊はいつでも出動できるよう自重しているというのに、俺だけというわけにはいかないでしょう」

「女の一人や二人、抱いてくればいいものを。お前ほどの若さなら、体が求めるだろう」

「遊ぶのは、戦が終わり、長安に帰ってからです」

「なかなか真面目ではないか」

 張郃は冗談めかしてそう言うが、試されているのだということはすぐに分かった。その証に、その答えを聞いた張郃は満足げな顔をしている。

「まだ滞陣は続きそうですか、将軍」

「続くであろうな。これだけの大軍同士となれば、ほんの些細な一手が、大きな局面を生む。どちらも、軽々に動けんのだよ」

「俺は長安を出てからここに来るまで、頭の中で様々な戦の想定をしていました。それがこんな形になるなんて、拍子抜けもいいところです」

 幕舎の外からは、兵が交わす声が度々聞こえてくる。軍市とは違い、ここだけは軍の空気が保たれていた。

「戦の形は、変わりつつある。この数十年間、この大陸ではたくさんの戦があったが、そのほとんどは国と国との戦ではなく、国を建てるための戦であった。それが今は、しっかりした国と国同士の戦となった。こうなれば、一握りの武勇が戦況を決めるのではなく、謀略がものを言ってくる。俺のような騎馬戦が得意な男は、もう古いのかもしれんな」

「そんな。三年前の街亭で、将軍は見事に蜀軍を追い返したではありませんか」

「あの時の戦の決め手は、魏軍の騎馬隊が蜀軍を蹴散らしたということではなく、兵糧を焼いたということだったろう」

「それは、そうですが」

「三年前の蜀は、まだ若かったのだ。度重なる戦を経て、蜀は成長した。もう同じように勝とうと思っても、上手くはいかないだろう」

 言われて、返す言葉が見つからなかった。張郃のことは、一人の将として純粋に尊敬している。古くなったなどと考えたこともないし、考えたくもない。

「俺は昔、袁紹という方に仕えていた。それが曹操軍に敗れ、俺は降ったのだ。その時の戦も、兵同士による決戦ではなく、兵糧を焼かれたことで勝負が決した」

 その話は、夏候覇も知っていた。魏国の中では、語り草のように伝えられているのだ。

「降将になったが、長い年月を戦塵にまみれ、外様であった俺がここまで出世できた。息子のような部下もできた」

 自分のことを言われているのかと思い、夏候覇は顔を俯けた。張郃はもう五十になるが、常に戦場の先頭に立っていたため、妻子はいない。夏候覇はそんな張郃を尊敬し、その生き様に羨ましさを感じもする。しかし張郃の中には、ある種の空しさがあるのかもしれない。

「俺はもう老いた。お前は俺が総司令官になればいいと思ってるようだが、これからの戦は司馬懿殿のような男がやればいいのだ」

 そんな話は聞きたくなかった。自分は張郃のような将軍になりたいと、常日頃から思っているのだ。しかし張郃は、自分のような将よりも、司馬懿のような将になれと言っているような気がする。

 幕舎の入り口で物音がし、伝令が入ってきた。

「司令官がお呼びです」

 言われて張郃が腰を上げたので、夏候覇もそれに従った。

 嫌な予感がした。兵卒の間では、張郃と司馬懿の不仲が囁かれていた。それは兵達が勝手に言い募っていることで、実際にそんなことはない。張郃が司馬懿を悪く言ったことなど、一度もない。司馬懿より張郃の方が司令官にふさわしいと耳にしただけで、機嫌が悪くなるくらいなのだ。

 ただ司馬懿の方は、その噂をどう思っているのかわからない。

「入ります」

 言って、二人して本営の幕舎に入った。

 出迎えた辛毗が、夏候覇の顔を見て嫌な顔をした。ここに呼ばれたのは、張郃だけなのだ。張郃からも外で待っているように促されたが、夏候覇はそれを拒否した。

「私は張郃殿の副官であり、歴とした魏軍騎馬隊長の一人であります。戦に関する話であれば、私も同席して差支えないかと」

 辛毗はしぶしぶ頷き、奥にいる司馬懿の了解を得に行った。

嫌な予感は続いていた。不敬ではあるかもしれないが、自分はここにいた方がいいという気がする。

 奥から、構わん、という司馬懿の声が聞こえた。

 戻ってきた辛毗が、二人を奥に招き入れた。司馬懿の執務室にはたくさんの竹簡があり、それらが幾つかの棚に整然と収められている。中央の高官が好みそうな華美さは一切なく、それが夏候覇には意外で、同時に好ましくも思えた。妙なことをするこの文官は、自分が思っているよりも、ずっと優秀なのかもしれない。

 ここら一帯の地図が置かれた卓に並んで座り、向かいには司馬懿と辛毗が座った。

 地図の上にはたくさんの木彫りの駒が置かれてあり、自軍の駒は藍、蜀軍のは朱で染められている。

「張郃殿の斥候隊のおかげで、蜀軍の兵站基地が木門にあることが判明した。ここを、我らは攻めようと思う」

 黒い軍袍に身を包ませた司馬懿が、いきなり本題に入った。

「そろそろ戦に逸る者が出始めてきた。全く、困ったものだ」

 それは自分の責任だとでも言うように、司馬懿が自嘲気味に笑った。本当にそう思っているかどうかは、わからない。

「お気持ちは察します、司令官。この戦はこの有利な位置を堅持し続ければ、それだけでいいというのに」

 張郃が地図上の魏軍陣地を指でなぞりながら、現状を確認するようにして言った。

「左様。兵卒らには気晴らしを与えているからまだいいが、隊長格の者たちが不満を持ち始めている」

 気晴らしとは、軍市のことを言っているのだろう。

「我ら騎馬隊は、いつ何が起こってもいいよう、兵にも馬にも厳しい調練を課しています。それはもう、不満など並べる余裕などないほどに」

「流石は歴戦の将軍ですな。兵の扱い方をよく心得ておられる。私のような文弱な者が兵を扱おうとすれば、どうしても浅知恵に頼ることになってしまう。張郃殿の騎馬隊には、軍市など必要ないようだ」

 褒められているようで、皮肉も混じっているように聞こえた。皮肉に聞こえるのは、自分の見方が穿ち過ぎているからなのか。

「木門を攻めるとのお話ですが」

「このままでは将校らの不満が、下々の兵達にまで伝播しかねない。ここらで一つ戦果を上げ、それを打破しておこうと思う」

 ようやく戦える時がきたかと思い、夏候覇は内心ほっとしていた。軍市で遊ぶ歩兵たちの楽観的な雰囲気が、自分の部下らの間にも、徐々に広がり始めていたところなのだ。

「私は、反対いたします」

 張郃が毅然とした口調で言ったため、夏候覇は思わず張郃の顔を見た。

「ここは、先に動いた方の負けです。司馬懿殿がここに布いた陣形は、正鵠を得ており、見事であると思います。私が蜀の司令官なら、絶対にこれを攻めたいとは思いません。この陣形を保っておけば、蜀軍はいたずらに兵糧を消費するだけで、やがて自壊するでしょう」

 幕舎内に、冷たい静けさが走った。まさか張郃が反対するとは思っていなかった。いつも、軍人は命令に対しては従順であるべきだと、常日頃から言っているのだ。

「それは、命令する私が文官だから、そう言っているのですか」

「そんなつまらないものにはこだわっていません。一つ、不自然なところがあるのです。軍を運用する上で生命線となる兵站が、こうも簡単に暴けるものでしょうか。何か裏があるのではないかというのが、私の考えです」

いつも冷静沈着な司馬懿の顔が、一瞬動いたように見えた。確かに、張郃の言うことには一理ある。

「初めて蜀が攻めてきた時、蜀軍の兵糧を焼いて追い返したのは張郃殿ではありませんか。それを、またやればいいのです」

 横から、慌てたようにして辛毗が口を挟んだ。

「あの時の戦は、諸葛亮が蜀の丞相としてやった初めての戦だったのだ。しかし同じ轍を踏むような甘い指揮官だとは、私は思わん」

「将軍、それは怯懦にも聞こえますぞ」

 張郃が、一つ大きく息をついた。

「怯懦ではない。私がこれまで戦場で怯懦に駆られたことがあるのか。あるというのなら、言ってみろ」

 張郃に凄まれて、辛毗は小さくなっていた。

「張郃殿の言っていることはわかります。しかしそんなことを一々言っていては、戦になりませんぞ」

 また嫌な静けさが走った。表情は穏やかだが、確実に二人の間に嫌なものが生まれ始めている。夏候覇の目には、そう見えた。

「夏候覇、お前はどう思う」

 唐突に言われ、はっと顔を上げた。

「私は」

 命令に従うべき軍人なら、直接の上官である張郃の意思に沿うべきだろう。しかしこの司馬懿も上官であり、張郃の上に位置している。

 戦はしたい。馬を駆り、戦場を駆け回りたい。そして、王平を討ち取りたい。

「別にお前の意見で、全てが決まるわけではない。どう思うか、言うだけ言ってみろ」

 司馬懿の顔がふっと緩み、夏候覇はそれに引き込まれそうになった。

 隣では、顔を俯けた張郃が、地図の卓上の一点をただ静かに見つめ続けていた。

「攻めたいです」

 張郃に対する後ろめたさを感じながらも、夏候覇は呟くようにして答えた。

「流石は夏侯淵将軍の残された子よ」

 辛毗が嬉しそうに言った。

 司馬懿が地図上の、馬の頭の形をした藍色の駒を静かに取り、木門に指した。かつんという乾いた音が、静かな幕舎内に響いた。

「やりましょう、将軍。我が軍の緒戦を飾るのに、張郃殿の騎馬隊はふさわしい。偉大な魏国のため、蜀軍の愚か者に鉄槌を下してくだされ」

 一点を見つめていた張郃が顔を上げた。反抗の色など微塵もない。ただあるのは、軍人らしい勇ましさだけであった。

「お任せあれ」

 司馬懿は厳格な面持ちで一つ頷き、辛毗がほっとしたように息をついていた。

 それから細かい話を詰め、それが終わると幕舎を後にした。

 出陣が決まると、さっきまであった嫌な予感はもう消えていた。今はただ早く、戦いに身を投じてしまいたい。しかし、張郃の意に反したことを言ってしまったことに、後ろめたさはある。

「いらぬことを言ってしまったと思っているな、夏候覇」

 考えていたことを見抜かれ、夏候覇は気恥ずかしくなって顔を俯かせた。

「別に気にすることはない。戦はやはり、敵陣に攻め込まなければな。あのようなことを言ってしまう俺は、やはり老いたのかもしれん」

「そのようなことは」

 歩兵の一団と行き交った。その集団は、やはり浮かれた顔をしていた。

「辛毗が言っていたように、街亭でやったことをまたやればいい。それだけのことだ」

「そうなれば、我らが街亭で蜀本陣の目を引き付けたように、司馬懿殿がそれをやってくれるのですよね」

「それはどうかな」

「えっ」

 騎馬隊の軍営が近付いてきた。ここまで来ると、歩兵陣地の浮かれた空気が、大分なくなってくる。

「歩兵総隊長の郭淮が、羌への工作のため、西に行っている。その護衛を出してくれと、昨日言ってきたのだ」

「この作戦に、歩兵の援護はないということですか」

「さっきの一団を見たろう。軍市で遊び耽る者の力など、俺は当てにせん。あれらはここにいるだけでいいと、司馬懿殿もそう思っているはずだ」

「そんな。これだけの兵力があるというのに、これではまるで我らが孤軍のようではありませんか。そんな馬鹿げた話があってもいいのですか」

「軍なのだ、夏候覇。軍人は、上官の命に従うだけだ」

 軍営に着くと、騎兵が思い思いに体を休めていた。この中にも軍市に行きたがっている者がいるのかもしれないが、それを口に出すことは禁じていた。

「出撃が決まった。目標は、木門。我らは魏軍の魁となり、その勝利を彩ることになるだろう」

 騎兵の主だった者を集めて張郃が言うと、待ちわびた出陣に兵らは歓声を上げた。この滞陣に倦んでいる者は少なくないのだ。

 夏候覇はその歓声の中にありながら、この隊の前途に一人不安を感じていた。

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