王平伝 6-2
蜀の陣地が慌ただしくなり始めた。長らく対峙が続いていたが、そろそろぶつかり合いが始まるのかもしれない。
かなりの時を日の当たらぬ場に潜み過ごしていた。全身を草葉で迷彩し、息を殺してひたすら蜀軍の監視を続けていた。それが黒蜘蛛の一員としての自分に与えられている任務であった。
蜀の陣地から漢中へと続く道の一端である。郭循の他にも黒蜘蛛の何人かが近くに配置されているはずだが、詳しいことは知らされていない。知っておく必要もない。敵に捕らえられ、拷問にかけられた時のことを考えれば、知っていることはできるだけ少ない方がいいのだ。
蜀にも黒蜘蛛と似た忍びの軍がいて、それは蚩尤軍と呼ばれていた。それが黒蜘蛛の敵である。戦では歩兵や騎兵によるぶつかり合いだけでなく、忍び同士の暗い戦いもあるのだ。
動かぬことが自分にとっての戦いだった。ほんの少し身を動かしただけでも、蜀の忍びがそれを目聡く見つけ、気付けば背後に立たれていたということも十分あり得る。
隊長である郭奕への接触は、任務中はほとんどない。できるだけ動きを減らし、敵に見つかる可能性を少しでも下げるためだ。報告は、何か異変があった時だけ、慎重に出す。今のところ、一度も報告を上げる必要はなかった。
郭奕から命じられたことを、遺漏なく上手くやりとげたかった。そして郭奕から認められ、褒められたかった。幼い時から、自分の全ては郭奕なのだ。郭奕から疎まれて、見放されてしまえば、自分が生きる場所はこの世に一つとしてないのだ。蚩尤軍に見つかるよりも、郭奕に見放されることの方が怖かった。
背後から微かな金属音が聞こえた。黒蜘蛛同士の合図の音である。
「どうだ、郭循」
郭奕だ。気づいたら隣まで来ていた。異変は何もないと、郭奕と同じように唇を動かすだけで伝えた。
「蜀軍が攻勢に向けて動き始めた。気を抜くな。蚩尤軍には常に見られていると思え。お前はここで監視。ここで見たものは、後で全て俺に伝えろ」
それだけ伝えると、郭奕は返事も待たず姿を消した。
そんな郭奕に郭循はいささかの不満を覚えた。蜀軍が動くということは、黒蜘蛛に他の働き場ができるということではないのか。しかし何故自分はここで監視の継続なのだ蚩尤軍との本格的な戦いが始まるのなら、自分も戦いたい。そして手柄を上げ、郭奕に褒められたい。しかし郭奕の様子は、この周囲に潜む黒蜘蛛に何かを命じ、そのついでに自分の所にも来たという感じだった。
昔から身体能力の高さを、郭奕からよく褒められた。その身体能力の高さを生かした忍びの技も数多く身につけてきた。それらの全ては、今のような戦場で発揮するためのものではなかったのか。こんな監視のような仕事は、体の老いた他の黒蜘蛛にやらせればいいのではないか。郭循は自分の体を石のようにしながら、そんなことを考えた。
蜀陣地から伝わってきていた慌ただしさが、次第に静かになっていくのを感じた。攻撃をかける準備が終わったのだろうか、嵐の前の静けさなのかもしれない。
同時に辺りから、ずっと感じ続けていた嫌な感じが消えた。触れると破裂してしまいそうな、雨霰のような緊張感がだ。黒蜘蛛が動き始めたのと同じくして、蚩尤軍も動き始めたのだと思えた。もうこことは違うどこかで、忍び同士の暗闘が始まっているのかもしれない。
郭循は焦燥を感じ始めた。辺りから蚩尤軍の警戒網が薄れたのは明らかである。その分の戦力がどこかで黒蜘蛛に向けられているであろうことも容易に想像できる。それなのに、自分はここで監視をし続けていていいのか。
ここで監視という命令を受けたのは確かだ。しかし郭奕は自分に、常に自分で考えて動くことも求めている。これだけの状況がありながら、ただ愚直に命令に従い、時を費やしていいものなのか。
肌で感じていた嫌なものが、はっきりとないものになった。ここは自ら判断し、動くべきではないか。それともここでじっとしておくべきか。例え見つかったとしても、少々のことなら自分の力で切り抜けられる自信はある。それだけの調練は、郭奕の指導の下で積んできたのだ。
監視だと言われている。それに従い、ここでじっとしているのは、容易であり、楽なことだ。しかし後になって、何故動かなかったのだと言われはしまいか。これだけの状況で、お前は何も考えなかったのかと、そう責められはしないだろうか。
蜀本陣の方から馬が駆けてくるのが見えた。伝令かと思い、郭循はそちらに目を凝らした。駆けてくるのは単騎で、馬上の者は格好からして普通の兵卒ではない。もしかしたら、名のある者なのかもしれない。
郭循の体の中で、何かが疼き始めた。あれを殺せば、郭奕に褒められるかもしれない。蜀の忍びは、この辺りから気配を消しているのだ。これは絶好の機会ではないのか。
郭循は考えることをやめた。やめると同時に体が動いていた。駆けてくる単騎の前に躍り出、短剣を投げ打った。影。その影に短剣が当たったかと思うと、その影が投げた短剣を投げ返してきた。郭循は咄嗟に飛んでそれを避けたが、避けたところにまた違う影がいて、髪を掴まれ何か固いものに顔をぶつけられた。そしてそのまま、地に顔を擦り付けるようにして倒された。
「なんだ、小者か」
突っ伏した頭上から聞こえた。迂闊だった。気配は消えていたのではなく、消されていたのだった。それに自分は、まんまと乗ってしまった。
最初に見えた影は、自分と同じ程の小男だった。そしてその左目には、眼帯がかけられていた。
「殺すなよ、趙広」
眼帯を付けた男の後ろから、十人程の忍びが姿を現し、名があると思われる馬上の男を護るように囲んだ。郭循は息を飲んだ。ここにこんなにも潜んでいたのか。やはり自分は、誘い出されただけだったのか。
「こいつは縛り上げて連れていきます」
「ここはもう俺に任せておけ。お前はすぐに本営の護衛に戻るんだ。こいつが囮であるという可能性がある」
蚩尤軍に護られた馬上の男は眼帯の男と少し言葉を交わした後、速やかにそこから離れて行った。
両腕が後ろ手に縛られ、木の棒を咥えさせられた。連れていかれれば、恐らく拷問であろう。捕らえられた瞬間に舌を噛まなかったことを郭循は後悔した。
眼帯の男が、こいつは囮かもしれないと言っていた。郭奕が自分を囮にすることなどあるのだろうか。あり得ないとは言い切れない。拷問に対する恐れよりも、自分が囮にされたかもしれないということの方が、郭循にとっては気がかりであった。父である郭奕が自分に過酷な調練を課し、散々な仕打ちをしてきたのは、自分のことを愛していてくれたからではなかったのか。
縛られたまま引き起こされたその時、茂みの一角から黒蜘蛛の集団が現れた。郭奕の姿もある。同時に、蚩尤軍も周囲の茂みから湧いて出てきた。
「このごみは捨て置け。郭奕だ、趙広」
その声が耳に入ったと思うと、後頭部に衝撃がきた。朦朧となって前のめりに倒れたが、意識は断たれていない。任務中の半刻の睡眠のような薄らいだ意識の中で、郭循は周りに広がる闘争の空気を感じた。体が持ち上げられた。持ち上げているのは、敵か、味方か、それすらわからない。
体の自由が利かず為されるがまま運ばれ、闘争の気配はどんどん遠ざかっていった。耳の近くで撤収を告げる指笛が鳴らされた。聞き覚えのあるこの指笛は、郭奕のものだ。
意識がはっきりとしたものに戻り始めた。
「降ろしてください」
言うと郭奕は郭循を降ろし、腕を縛っていた縄を切った。そして、すぐに走った。かなりの距離を走り、黒蜘蛛の拠点であるほとんど植物に浸食された小屋に入った。そして、蹴り飛ばされた。
「何故動いた。監視を続けていろと、俺は命令したはずだ」
「私は」
言おうとした口に、また蹴りが飛んできた。口の中に何か固いものが転がった。
「あの辺りに潜んでいた句扶の首を狙っていたのだ。恐らく、蜀の本陣から出た高官らしき者の護衛でもしていたのだろう。句扶はその護衛ついでに、黒蜘蛛を誘きだそうとした。お前はそれにまんまとかかったのだ。お前が俺の言うことを聞いておけば、その裏をかけた」
ならば自分のことは見殺しにしてくれてよかった。そう思うも、口から血が止めどなく溢れ出て言葉にはならなかった。
「お前一人のせいで、どれだけ黒蜘蛛に被害が出たと思う。ただで済むと思うな」
そう言った郭奕の目は、人を見るものでなく、物を見るような冷たいものになっていた。幼い時、自分を犯す郭奕の目は、常にこうだった。
郭循はそれに怖れを感じるとともに、ある種の喜悦も感じていた。このような事態になってしまったとはいえ、郭奕は自分のことを助けようと思ったのだ。郭循にとって黒蜘蛛に損害が出たということはどうでもよく、そのことだけが大事であり、蹴られた痛みに比べればそこから得られる喜悦はどれほども大きなものであった。
腹を殴られ、しばらく呼吸ができなくなった。それでも喜悦は留まることはなかった。殴られ、蹴られ続け、小屋の中の藁の上で体が襤褸切れのようになったところでようやくそれがやんだ。自分の犯した過ちは取り返しのつかないものだったが、これで許してもらえる。ただでは済まないものが、これで済んだ。残ったものは、郭奕が自分のことを助け、十分な罰を与えたという事実しかない。
郭循は藁の中に顔を入れながら、引くようにして笑った。郭奕の目からは自分が泣いているようにしか見えないだろう。殴られ続け、蹴られ続けることで、父なる郭奕から愛してもらった。それが、嬉しかった。
郭循はしばらくの間、藁の中で泣くようにして笑い続けた。