王平伝 9-5

 輜重に乗せられた千本の戟が成都から漢中に届けられた。まだ余裕があるとは言い難いが、北伐で損耗した漢中軍の武器庫の中身は順調に回復していた。これから調練する新兵の武具はなんとか間に合いそうだった。

 成都で大赦が行われ、解放されたかなりの数の罪人が新兵として入ってくることになり、王平と劉敏はその対応に追われていた。大赦に反対していた来敏と董允が罪人を全て兵にするという条件で妥協したのだった。

王平にとっては大きな迷惑だった。罪人を軍に押し付けるのなら鼻から大赦などしなければいいではないか。それでも成都には様々な事情があるらしく、帝の権威を利用しようとする者が幾らかいて、蔣琬はその対処に手を焼いていた。この大赦で、解放される罪人の関係者からかなりの賄賂を受け取る者がいるようだと、蔣琬からの書簡を読んだ劉敏が言っていた。はっきりと書かれてはいないが、その賄賂は宦官の懐に入っているということが匂わされていた。

宦官とは、帝の持ち物である後宮の女たちに手を出さないように陰茎を切り落とされた者のことだ。王平は宦官とはほとんど面識がなかったが、卑しい者が多いとは聞いていた。蔣琬や費禕も宦官のことをよく思っていない。

その一方で、宦官は自分の体の一部を切り落としてでも帝に仕えているのだから、悪く言ってはならないと言う者も少なくない。そういう者は、大赦など必要ないと思っていても、宦官が言うのだから大赦を受け入れてやろうと言い出すのだった。大赦が必要かどうかなんかどうでもいい。陰茎を無くしてしまった哀れな宦官の言うことを肯定してやるのは、そういう者にとって快楽なのだ。そして哀れな宦官を肯定してやるために、大赦の必要性を後からそれらしく作るのだ。

戦に負けた蜀の帝の権威を高めるため大赦を為すというのは建前で、一部の者が大きな利益を得るために大赦が利用されているに過ぎない。その利を得る者は、そのために誰かが迷惑を被っても一顧だにしない。王平が軍にならず者を抱えるようになり、蜀の軍事力が弱くなっても、全く関係のないことなのだ。

それでも国に軍はあり、軍は国に巣食うその欲深い者を外敵から守るためにあるとは皮肉なことではないか。

大赦については深く考えないことにした。

 王平は、新兵となった罪人が徒党を組まないようそれぞれの小隊にばらつかせて配し、始めに駆け足をさせ文句を言う者やすぐに動けなくなった者の首は容赦なく打った。それで不満を言う者はいなくなり、一応の秩序は保たれたが、やはり軍の質は明らかに落ちていた。嫌々ながらやっている者が混じると、どうしても全体行動に乱れが出てしまう。そういう者は、二度乱せば棒で打ち、三度目で首を打った。そうして十日もすると、かなりの数の新兵が減っていた。

 王平が調練を終えて軍営に戻ると、呉懿からの呼び出しを受けた。魏延がいなくなって

から任命された、新しい漢中の都督である。以前は軍人で北伐に随行したこともある老将で、今は実務からは一歩退き、現場の王平や劉敏に何かと口出ししてくる存在になっていた。

 呉懿の執務室に行くと、そこには既に劉敏がいた。

「何故、ここに呼び出されたかわかるか」

 呉懿が眉をひそめながら言った。恐らく新兵を殺し過ぎるなということなのだろう。そう思ったが、王平は答えず黙っていた。言ってしまえば、殺し過ぎだと自ら認めてしまうことになる。劉敏もそれをわかっているのか、同じく黙っていた。

「私は驚いたぞ、王平。十日の間に、百以上の新兵を殺すなど聞いたことがない。罪人を軍で受け入れることは成都で決定されたことなのだ。お前はそれに逆らおうというのか」

「軍を乱す者の首を落としました。それは今までもやってきたことです。今回の新兵には、そういった者が多かったというだけのことです」

「それはそうだろう。全員が罪人だったのだからな。だが大赦をした意味をよく考えてみろ。この国にいる人間が戦で少なくなっている。だから大赦をすることで働き手を増やしたのだ。その働き手を、お前が少なくしてどうする」

 劉敏が一歩前に出た。

「今回の新兵は、おかしな者が多過ぎます。腹を丸く太らせた元商人の小男までいるのですから。そういった者に合わせて調練をすれば、軍全体が弱くなります」

「それを調練するのがお前らの役目ではないか、劉敏。これは本来、王平の副官であるお前が言わなければならないことなのだぞ。それをわかっているのか」

 劉敏が顔を赤くさせて絶句していた。王平は宥めるようにその肩を叩いた。

「私の役目は、外の敵から漢中を守ることです。その妨げになるものは、何であろうと許しておくわけにはいきません」

「だからその罪人を漢中を守る兵に仕立て上げろと言っているのだ。そのための工夫をしろ。そんなこともわからんとは、なんと頭の固いことか」

 頭の固いのはお前だ。そう思ったが王平は諦め、わかりましたとだけ答えておいた。

「人が少ないのだから殺すな。これは命令だ。わかったら行け」

 王平と劉敏は不満に思いながらも一礼して退出した。

「おかしな人が都督になってしまいましたな。あれが魏延殿なら、何も言われることはなかったでしょう」

 劉敏がつまらなさそうに言った。呉懿の性格は武官というより、文官に近い。

「良い返事だけしていればいいさ。あの老人の言葉に従っていれば、間違いなく漢中軍は弱くなる。軍の精強さを保ちながらああいった老人と上手くやっていくことも、俺らの大事な仕事なのだと思えばいい」

「私はいつか怒りを爆発させてしまいそうです」

「顔を赤くさせていたな。しかし心配することはない。いざとなればこの国の宰相は俺らの肩を持ってくれるよ」

 呉懿がどうしても軍務の邪魔になるようなら、蔣琬と相談し対策を考えればいい。

「いつまでも宰相が蔣琬殿であればよいのですが」

 楊儀が、叛意を示したという理由で流刑に処されていた。蜀の宰相が蔣琬でなく楊儀であったなら、呉懿の味方をしていたという気がする。そうであれば、王平は更迭されていたかもしれない。現に成都では、馬岱が楊儀からの讒言により更迭されていた。

「考えてみれば、国とはその図体に関わらず、随分と脆弱なものですな。少しの人間がおかしな者に替わるだけで、がらりと弱くなってしまう。漢王朝が四百年も続いたことが何やら不思議なことのように思えてきます」

 諸葛亮は、その四百年を途切れさせようとした者に挑んだ。そして王平らは、それに従い戦った。北伐軍にいた者は誰しもが少なからずそれに誇りを感じていた。時が経ち誇りを持つ者が死に、誇りを持たない者がこの国を支配するようになれば、この蜀という国も誇りと共に消えてしまうのだろうか。国を支えるものが誇りだけだと考えるのであれば、劉敏の言うように国とは実に脆弱なものだと思わざるをえない。

「呉懿殿は今のことばかりを見て、先のことを見ようとしません。死ぬまでの自分が良ければ次の世に生きる者のことなどどうでもよいのでしょう」

 自分も年を重ねれば、呉懿のようになってしまうのだろうか。

「蔣斌がここを抜けて山中で暮らすようになったのは良かったことなのかもしれんな」

 劉敏は、魏延のことを知っていた。

「今度、時を見つけて蔣斌に会ってこようと思う。たまには会いに行かねば忘れられたとまたべそを掻くかもしれんからな」

 劉敏はそれに頷くだけで何も言わなかった。蔣斌のことを見限っているわけではないが、山中で魏延と暮らしていると知っても会いに行こうともしない。軍令違反を犯させてしまったことに大きな負い目を感じているのだろう。昔の、王訓と自分の関係に似ているのかもしれない。

 新兵がようやく調練についていけるようになり、王平は蔣斌に会いに行くことにした。手土産に、黄襲の食堂で買った干し肉と、兵糧の乾飯を持っていくことにした。

 漢中の街で暮らす人々を尻目に城郭を出て森に入り、群れになって立つ木々の影に埋め尽くされた山中を進んだ。

百里程行くと、嘘のように開けた陽の注ぐ場所があり、そこに魏延の幕舎はあった。戦塵に塗れて茶色だった幕舎が、苔と蔓の緑に覆われていた。

 魏延が幕舎の中からひょっこりと顔を出した。

「おう、王平」

 魏延の顔に、軍人の時にあった険しさは微塵もなかった。不慣れなものに接している気がして、王平は少し戸惑った。不慣れではあるが、嫌なものではない。

「蔣斌の様子を見に来ました。魏延殿に迷惑をかけていないかと思いまして」

「迷惑なんてないさ。始めはここでの生活に苦労していたがすぐに慣れたよ。今は山中に行っていて、直に山菜か獣を持って帰ってくる」

 王平は幕舎に招き入れられた。中にはちょっとした囲炉裏が作られていて、魏延がそこで湯を沸かし始めた。

「俺のことは、成都に知られていないか」

 火を弄りながら魏延が見つめてきた。注意深く覗き込まれているようでもあった。

「その心配はありません」

「そうか」

 言って魏延は火元に視線を戻した。

 李厳の手の者にここを嗅ぎ付けられそうになったが、それは黙っておくことにした。これは自分たちが処理すべき問題で、蜀を離れた魏延には関係のないことだ。

「楊儀殿は叛意を示したことにより、漢嘉郡へ流刑となりました」

「そうか」

 魏延は表情も変えず湯の具合を見ていた。

「蔣琬が勝ったということか。あの青瓢箪が、やるようになったな。俺が勝てなかった相手を負かしたのだから、大したものだ」

「蔣琬は、魏延殿のことを信頼していました。息子を任せるには最適であると」

 湯がそれぞれの椀に注がれ、王平はそれを口につけて啜った。森の香りがする湯だと思った。「その言い草は気に入らんな。もっと信頼すればいい。俺をではなく、自分の息子をだ。そういう心配をしているということは、まだ本当の所で蔣斌を信頼していないということだな。その辺りはまだまだ青瓢箪だ」

「蔣斌を平民に落とすことで、蔣琬はかなり苦悩していました」

「男があれくらいの年になれば、どこに行こうが放っておいてもなんとかやっていけるもんだ。俺はここで蔣斌に何の命令もしていないぞ。ただちょっとだけ干し肉の作り方を教えだけで、あいつは好きなようにやっている。若い者を見る老人はそれでいい。軍にいた時の蔣斌がおかしくなってしまった理由が、俺には何となくわかるよ」

 確かに、蔣斌には期待を詰め込みすぎた。魏延も同じことを感じているのかもしれない。

「蔣斌の近くに魏延殿がいるのは、決して小さいことではないと思います」

「俺があいつにやっていることと言えば、この老いた負け犬の長話につきあわせることくらいだ。それだけでも、若い者は勝手に学んでくれる」

 幕舎の外で音がした。蔣斌が帰って来たようで、そのまま外で何か作業をし始めている。幕舎を出ると、蔣斌は兎を捌こうとしているところだった。

「あ、王平様」

「元気そうではないか、蔣斌」

 成都から追い出されて泣きじゃくっていた時と違い、蔣斌は活き活きとした目をしていた。王平を見てそれを思い出したのか、蔣斌は照れ臭そうに笑った。

「兎を捕ってきたのか」

「二羽、捕ってきました。王平様が来るとわかっていたら三羽捕ってきたのですが」

「黄襲殿の干し肉を持ってきた。乾飯も少しある。これでお前の料理を馳走してくれ」

 蔣斌は頷き、兎の皮を剥ぎ始めた。皮に残る肉が多いと言い、王平は懐の短剣で綺麗に皮を剥いで見せた。蔣斌は、食い入るようにそれを見ていた。

 焚火を熾し、鍋に水と乾飯と兎の肉を入れて火にかけた。しばらく煮込んだところで山菜を入れ、さらに煮込んだ。その傍らで余った兎肉と黄襲の干し肉を焙っていて、良い匂いが立ち始めている。

「蔣斌、父のことを憎んでいるか」

 二人で火を前にしながら、王平が言った。

「私に父はいません。もう、離別したことですし」

「おい、蔣斌」

「憎んで言っているのではありません。私は蜀国の重臣である蔣琬の息子であるから、軍人として頑張ろうと思いました。それで好きな女を死なせ、命令違反を犯しました」

 言いながら、蔣斌は火に薪を足した。

「若い時には過ちがあるものだ」

 俺も妻を、と言おうとして、王平は口を噤んだ。言って意味のあることではない。

「蔣琬の子だからこうしなければいけない、と考えていました。狭い考えでした。蔣琬の子をやめることで、他の物事が色々と見えてきたのです。良いことばかりではありませんが、全て知っておくべきことだと思います」

 蔣斌にその気はないのだろうが、教えておくべきことを王平と劉敏が教えていなかったと咎められた気がした。

「今度、大赦がある。お前が望めば成都に帰れる。今日はそれを伝えに来た」

「いえ、もう少しここにいようと思います」

 蔣斌は即答した。

「成都に戻れば、すぐに前の自分に戻ってしまうという気がしますので」

「そうか。まあ好きにすればいい」

 蔣琬はどう思うだろうか。思ったが、それは今の蔣斌に言うことではないのだろう。

「良い匂いがするではないか」

 幕舎から魏延が出てきた。

「お前は蔣斌を口説きにきたのか、王平。それでは俺が独りになってしまうではないか」

「蔣斌にふられたところですよ」

 もう少しここに置いておいた方がいい、と魏延は言っているのかもしれない。

「良い具合の粥だ。兎の油がしっかりと出ている。これは美味いぞ」

 蔣斌が粥を三つの器に取り分けた。外は蒸し暑かったが、昇り立つ湯気が王平の食欲をそそった。兎の味がしっかりと出ていて、口に入れるとじわりと唾液が広がった。

「ここでの生活がすごく羨ましいという気がしてきましたよ」

「そうであろう。ここと成都は全く違うが、こんなところにも歓びはある」

 魏延は粥を口に入れ、目を瞑って味わいながらゆっくりと飲み下した。

「出世をする歓びも、女を抱く歓びも、ここでこうして粥を食う歓びも、全て同じ歓びだ。どの歓びを選ぶかでその者の生きる意味は違ってくるのだろう。これを楊儀に言ってやりたかったが、あれは聞く耳を持たんだろうな」

 言って魏延は焼いた肉に齧りついた。蔣斌と王平も、粥と肉を貪るようにして食った。

「羨ましいだろう、王平」

 全てを食い終わり、魏延が得意げに言った。

「不思議なものだな。ここでの暮らしは良いものだが、都の欲深い者はこの良さに全く気が付かん。他人より欲を満たせないことに不満を持ち、不安になって、自らの欲の中に沈んでいくのだ。それも、他の者の足を掴みながらだ。歓びはこの一杯の粥だけで十分だというのに」

 王平に言っているようで、火の後始末をしている蔣斌の背中に言っているように見えた。その蔣斌は、何も言わずに作業をしている。

「心配することは何もないとわかりました。私は漢中に戻ります」

 魏延はおうと返事をし、幕舎の中に戻っていった。

「お前の父には俺からよろしく伝えておこう。あれはあれで心配しているからな」

「私は父のことを悪く思ってはいません。それは、王訓を見ていればわかることだと思います。子が親を憎もうとしても、これはなかなか難しいことなのだろうと思います」

「生意気を言うな」

 言って王平は蔣斌の尻を叩いた。

 泊まっていくよう勧められたが、王平はそれを断り帰途についた。ここに長居してしまえば帰り辛くなってしまいそうだった。

 やって来た道を戻り、漢中に戻った時には夜が更け始めていた。漢中の街に点々と火が灯されていて、幻を見ているようだった。もしかしたら、森の中のあの二人の方が幻だったのかもしれない。

 翌日、また呉懿から呼び出しを受けた。今度は何を言われるのかと思いながらも、王平は政庁に向かった。

 呉懿は魏延より少し年上だが、ほとんど変わらないはずだ。それがどうしてこうも違うのかと考えた。組織に属していようがいまいが、物事の道理が変わるということは無いはずだ。属すものがなければ道理を通せるのに、利便さを求めて組織を作れば道理を通せなくなるとは皮肉なことではないか。

 呉懿の従者に案内された一室に行くと、そこには珍しい客が来ていた。馬岱だ。

「軍を抜けられたと聞きました、馬岱殿」

「つまらぬことで因縁をつけられた。それで軍など辞めてやることにしたのだ」

 馬岱が闊達に言った。

「そんな。では、部下はどうされるのですか」

 馬岱は涼州出身で、劉備が益州に入った時にその傘下に加わったのだった。馬岱と共に加わった涼州出身の兵は数千いて、今は三千程が馬岱の下にいる。

「共に涼州に帰ろうと思う。我らが北伐で蜀軍として戦っていたのは、いずれ故郷の涼州に帰るつもりでいたからだ。その北伐は、もう終わってしまった」

「涼州は魏国です。見つかれば捕らえられてしまいますぞ」

「わかっている。それは建前で、ここからが本題だ」

 密談だと言われ、王平は身を乗り出した。

「俺が言ったことに偽りはない。楊儀の陰湿さにうんざりした部下がいることも確かだ。それで軍を辞めた振りをして涼州に密かに入り、そこに住む者を糾合して蜀に移り住むよう勧めて回るのだ」

 北伐は諸葛亮が死ぬまで実に七年も続き、その間に壮年の男は兵として狩り出されたため、その七年で産まれた子の数がかなり少なくなっていた。長安を陥落させてそこの富と人を得ていればこんなことにはならなかったが、蜀は負けたのだ。そして大きな負債を残したまま諸葛亮は死に、王平らはその負債を処理しなければならなくなった。

「それは蔣琬からの任務ということですか」

「そうだ。涼州の馬家といえば少しは名が通っている。同じ僻地出身者として、魏国から搾取されている連中に声をかければ成果は上がるはずだ」

 大赦を行ったのも、人口の減少があったからだ。魏を攻め領土を奪うのが難しいなら、そこから人だけを調達してこようということなのだろう。第一次北伐で、魏の西端になる安定、南安、天水の三郡はあっさりと蜀に転んだ。魏国であっても、そこに住む人は蜀を憎んでいるわけではないのだ。むしろ搾取を行う魏を憎んでいるといえるかもしれない。ここの住民を移り住ませるという策は、少なくとも罪人を解放するよりかは良いと思えた。

「武都から天水にかけての警備兵を蹴散らすのに三千もいれば十分だ。皆に賊の格好をさせ、蜀軍の兵とはわからないようにやる。王平の漢中軍には、その三千への兵站を繋げてもらいたい」

「それは構いませんが、密かにやるとなれば大きな規模ではできませんよ」

「目的は戦でなく、あくまで話し合いだ。長安から軍が出てきたらすぐに退く。いつでも撤収できるように細々と繋いでおいてくれればいい」

 それから地図を前にして、細かいところまで話を詰めた。そして馬岱はその日の内に三千を率いて漢中の出口である陽平関を出て西へと向かった。

 王平は兵站だけなら新兵にやらせてもいいと思い、大赦で入ってきた者を含めて部隊を編制し、夜陰に忍ばせ兵站部隊を陽平関から出した。

 既に武都に入った馬岱から伝令が来て、馬岱軍の位置を教えられた。馬岱の三千は全て騎馬で移動が速く、迅速に指揮をしないと大きく離されてしまうことになる。王平は輜重を押す新兵を急かしながら進んだ。

 あらかじめ決めてあった山腹の地点に兵糧を隠して数日待った。その間の兵糧の受け渡しに遺漏は無い。馬岱は多少の小競り合いをしたようだが、作戦は今のところ上手くいっている。

 武都の氐と呼ばれる部族が、馬岱の説得を受けて帰順してきた。会いに行くと、族長はそれなりの格好をしていたが、従っている若い者は体にわずかなものを巻き付けているだけだった。

「氐族の苻健と申します」

 漢族ではないため、少し癖のある言い方で名乗った苻健は、魏の搾取がどれだけ過酷なものかを長々と述べ始めた。魏国の西端で人の目は少なく、魏の官吏はこの地で好き勝手していたのだろう。そうでなければ、長く住み慣れた地をこうも簡単に離れようとはしない。

「成都の近くに、新都と広都という城郭があり、移住先はこのどちらかになると思う。詳しくは漢中の呉懿という者から聞いてくれ」

「我が村は千戸を超えております。成都へ行くまでの食糧を貰えると馬岱殿から聞いています」

「わかっている。そう焦るな」

 食い物を乞う苻健に嫌なものを感じながらも、王平は兵糧を氐族に分け与えた。苻健は、これで皆に人らしい暮らしをさせてやれると言って喜んでいた。

「陽平関まで行け。既に伝令で事情は知らせてある」

 氐族の行列が東に向かって動き始めた。王平はそれを見送りながら、ある種の不安に襲われていた。この氐族は、都で暮らす者たちと全く違う人種ではないか。蜀の中心部で暮らすとなれば、彼らの生活はがらりと変わるはずだ。言葉が違い、着るものが違う。胸を晒しながら平気な顔をして歩いている女も少なくない。この集団が蜀の都会で暮らすようになれば確かに生産力は上がるだろうが、それで何の問題も起きないだろうか。

 疲れた顔をした男女や、痩せて骨が浮き出した子供が通って行く。少なくとも、兵にできそうな者は見当たらない。搾取によって異民族の力を奪い、反乱を未然に防ぐという統治方がある。氐族がそれをされてきたことは明らかで同情はするが、この者たちが搾取から解放されて蜀に移り住んだからといって、成都から言われたことを大人しく聞いてくれるのだろうか。ここは蔣琬や費禕の腕に期待するしかない。

 兵糧の受け渡しをしている列の中から唐突に声が上がった。その声は徐々に大きなものになり、ちょっとした騒ぎになった。どうやら部下と氐族の若者が喧嘩を始めたようだ。

 王平が人の垣根を押し分けていくと、騒ぎの中で氐族の若者の一人が腹から血を流して蹲っていた。血のついた剣を手にしていたのは、大赦で入ってきた新兵だった。

 王平は怒鳴り声を上げて騒いでいた者を黙らせた。

「何があったというのだ」

 王平はあえて武官には聞かず、こちらの様子を見ている氐族に向かって言った。

「こいつが、食い物を地に落としてそれを拾えと言った。それはできん、お前が拾えと言ったら、喧嘩になった」

 腹から血を流していた若者が崩れ落ちた。腹からは腸が零れている。これはもう助からないだろう。

「違うんです、隊長。こいつら飯を貰う立場だってのに太々しくしやがるもんですから、思い知らせてやろうとしただけです」

「なんだと。俺たちは、蜀で働くと決めた。だから、飯を貰えるんだ」

「まだ何も働いていないじゃないか」

 王平は言い争う新兵を蹴り倒した。罪人を受け入れていなければ、こんなことは起こすはずもなかった。

「こちらが悪かった。お前の名は何という」

「苻双。苻健の弟だ。仲間がやられたんだからただじゃすまさねえぞ」

「すまなかった、苻双。謝るから許してくれ」

「お前が謝れば、仲間の腹は治るのか。剣を抜いた奴を俺たちに殺させろ。そうしたら許してやる」

 いくら元罪人だからといっても、自分の部下だった。誰かに殺せと言われてそれに従うわけにはいかない。蹴倒すのではなく首を飛ばすべきだったと王平は後悔した。

「それはできんが、軍にも法はある。その法によって、この者は裁かれることになる」

「それはないぜ、隊長。こんなみすぼらしい格好した土人の言いなりになるっていうんですか」

「こいつは全く反省していない。今すぐここで殺せ」

 それに氐族の若い者たちが同調し、静まっていたものがまた騒がしくなり始めた。こちらに非があるだけに、これを力で抑えるわけにはいかない。

「やめんか、苻双」

 いつの間にか近くまで来ていた苻健が言った。

「やめろって、仲間がやられたんだぜ、兄上」

「だからと言って、そう騒いでどうにかなるものではない。すぐに若い者をまとめて陽平関に向かうのだ」

 苻双はしばらく俯いていた。そして顔を上げ、苻健を睨んで言った。

「嫌だ。いくら兄上の言うことでも、それは嫌だ」

「苻双、子供染みたことを言うのはよせ」

「どうせ蜀に移っても馬のように働かされるんだろう。それならこの住み慣れた所にいた方がいい」

 周りの氐族が、弾かれたように苻双を囃し立てた。

「馬岱殿は、我らのことを平等に扱ってくれると言っていたではないか。涼州出身の兵が蜀軍内で酷い扱いをされたことがないとも」

「現に目の前で仲間が殺されているじゃないか。兄上はこのことに何も感じはしないのか」

「一族の安寧のためではないか。ここは我慢するんだ」

「殺されているというのに、何が安寧だ」

 言って苻双は氐族の腹を切り裂いた新兵にぱっと飛び寄り、剣を奪って首を掻き切った。それを合図に苻双を囃し立てていた氐族の若者たちが一斉に王平の兵糧隊に襲いかかった。

 完全に不意を突かれてお兵が命令を出す間もなく乱闘になり、大赦で入ってきた者は戦おうともせず逃げ始めた。背を向けた者から押し倒されて武器を奪われ殺されて、兵糧を乗せた輜重には火がかけられた。

 王平は襲いかかってくる者に剣を振り、苻健を連れてなんとかそこから抜け出して、唖然としている氐族の女子供をまとめて非難させた。

 乱闘を起こした氐族の男たちは一頻り暴れると、北に向かって逃げて行った。兵糧は灰になるか持ち去られるかしていて、多くの死体がその場に残されていた。

「申し訳ありません、王平様。どうお詫びしてよいものやら」

 苻健が手と声を震わせながら言った。三千いた氐族の集団は、半分程にまで減っていた。

「私の命を以てお詫びします。どうかここに残された者たちには御慈悲を」

「いや、死んではならん。苻健殿は、ここにいる一族をまとめて陽平関まで行くのだ」

 氐族のことより、兵糧のことで王平は頭が一杯だった。馬岱の騎馬隊がかなり奥まで行ってしまっているのだ。その三千騎に供給するものが全て失われてしまったのだ。すぐに馬岱に伝令を出し、漢中にも出した。馬岱の騎馬隊はかなり速く、出した伝令が追い付くのにかなりの時間がかかってしまうかもしれない。そうなればこの計画にかなりの狂いが出てしまうことになる。

 新兵の起こしたことではあるが、ここまでの大失敗をやらかしたのは初めてだった。氐族が東へ去ってから、逃げていた新兵が何人か戻ってきた。乱闘になった場に残された死体のほとんどは古参の兵だった。王平は苛つき、戻って来た新兵を一人ずつ蹴り倒し、罵声を浴びせた。

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