王平伝 2-9
暗殺は成功した。張飛の死は兵士の反逆によるものだということで世に知られることとなった。これで蜀国の命運は後先を顧みない蛮勇の男に引きずられるということはなくなった。張飛は蜀の帝である劉備が若かったころから付き従っていた義兄弟であり、益州攻めの時は諸葛亮とも連携して荊州から攻めあがった盟友であった。だが今の自分は一国の宰相なのだ。蜀を乱す者は誰であろうと許すわけにはいかない。そこにはどんな私心も挟んでいい理由などないのだ。
軍の東進は中止された。これで蜀軍に注がれるはずであった蜀国の財は守られることとなった。その分、蜀を富ませる余裕ができ、あとは呉との関係を修復して同盟を結べば巨大な魏に対抗することができる。武官はその中心に趙雲という、昔から劉備の身辺を守ってきた者が就き、その下では馬謖、王平、陳式という若者が育ってきている。中でも、諸葛亮は馬謖という才気をかわいがっていた。
馬謖は荊州出身の名士で、諸葛亮を兄と敬慕する馬良の弟であった。大人しい兄に比べて多少言葉数の多い男であったが、その気質は文官よりも武官に向いていると見て、いずれは大軍を指揮する武将に育ててやろうと思っていた。
「荊州に攻め入れなくて残念か、馬謖」
馬謖は東進論者であったが、諸葛亮はそれを口にすることを禁じていた。
「荊州は私の生まれた故郷です。それを回復させたいと思うことは、人として当然のことではありませんか。先生は荊州に帰れなくて寂しいとは思われないのですか」
「寂しい寂しくないで政治をするのではない。私心に捕らわれ天下を乱すようなことをしてはならんのだ」
同じような問答はこれまで何度もした。馬謖はその都度不満な顔をしたが、民政こそ今の大事だと兄にも諭され渋々従った。
諸葛亮は馬謖に千の兵を預けていた。益州出身の精鋭、東州兵の千である。これから徐々に数を増やし、いつかは馬謖を軍団長とした諸葛亮直属の軍をつくり、それを蜀軍の主力にしようと計画していた。張飛のように暴走することのない、諸葛亮の理性により手足となって動く軍である。
益州から戦のにおいは薄れていき、武官は平時の軍務を、文官は民を富ませるための努力に精を出し始めた。
法は経験豊富な張裔の下に蔣琬と費禕を配して任せ、諸葛亮は新田の開発や貨幣鋳造に関する仕事を取り仕切った。
張飛が死んでからというもの劉備の顔からは覇気を失せ、老人のようになってしまっていた。政庁に顔を出すこともなく後宮に篭って誰とも会うことを拒むのだった。
不思議な人であった。張飛が死んだという報が入ってきたのは、劉備が諸葛亮と食事をしている時だった。注進の者が政庁へと入りその場の空気ががらりと変わると、まだその報も聞いていないのに
「張飛が死んだか」
と呟き、悲しみに溢れた眼を諸葛亮に向けてきた。
「突然、何を申されますか」
平静を装っていた諸葛亮であったが背中に冷たいものが走り、その毛穴から一斉に汗が吹き出た。
劉備は食事も途中に箸を置き、そのまま無言で奥へと入っていった。諸葛亮は、そんな劉備に何も言葉をかけることができなかった。
しばらく誰も近づけなかった劉備が久しぶりに後宮から出てくると、誰よりも先に諸葛亮に会い、軍を東と向ける旨を告げた。その眼には怒りも悲しみもなかった。しかし益州や漢中を攻めた時の力強さもなく、例えるなら望みもないのに愛しい人に想いを告げに行く、周りの見えなくなった男のようであった。諸葛亮は、呉攻めを止めることを諦めた。
結局、この人にとって漢王室などどうでもよかったのかもしれない。心で結ばれた三人で何か大きなことを成し遂げたかったのだ。それがたまたま蜀という一国家を持つという結果に収まったが、二人の義兄弟が死んでしまえば、あとはもう何がどうあろうとよくなったのかもしれない。劉備が篭り続けていた間につくった民政案も、劉備の耳には既に入らなくなっていた。もうこの人にとっては、蜀という国すら無意味なものでしかないようであった。
そういった義侠心が下らないものだとは思わない。しかしそのために、一体どれほどの人が死んでいったと思っているのだ。今まで我々のために死んでいった数多の命のためにも、蜀を栄えさせ、魏を討つことに力を入れるべきではないのか。そう思おうとも、それはもうおくびにも出せることではなかった。
諸葛亮は東進に付いていくことを辞退した。いや、劉備が無言の圧力で、諸葛亮に成都残ることを強いたのだ。参謀には諸葛亮の代わりに馬良が付随することとなった。
隆中より出でて劉備に従い、赤壁で曹操軍を破って南荊州を得て、そこを足がかりに益州を奪って漢中で再度曹操軍を退けた。その間に度重なる進言をし、あらゆる難局を共に切り抜けてきたが、ここまで心が通じ合わなくなったのはこれが初めてであった。通じ合わなくなったといっても、憎しみあっているわけではない。互いの心の中にある一番大事なものが食い違っているのだ。劉備にとって大事であったのは侠の心であり、諸葛亮にとってのそれとは国に住む民の豊かさであった。いくら自分が劉備の臣といえども、蜀に住む多数の命と財産を失わせてでも戦を優先させて良いなど、どう考えても肯んずることができない。
兵が、少しずつ成都の城門から出て行き始めた。総勢四万の大軍であり、長い列をつくった蜀の兵が東へ向かって行進していく。その光景を諸葛亮は、蔣琬をはじめとする部下と共に呆然と見送った。できることなら今すぐにでも止めたい。劉備だけのためにあるこの東進は、蜀とそこに住む民にとって不幸でしかないのだ。しかし一方で、劉備が賭けるこの東進を批判しきれない自分もいる。張飛を殺した自分自身をも肯定しきれない自分もいる。
「蔣琬、お前は陣頭で指揮を執ってみたいと言っていたな」
「はい」
「お前はこの軍を指揮したいと思うか?」
「・・・・・・思いません。この者達の中で、一体何人がここに帰ってくることができましょうか」
「戦をする者は、国の外側だけでなく、内側も見ておかなくてはならないのだ」
「この行列を見ていると、分かる気がします」
「しかし男とは面倒なものだな。それが分かっていながら、このように戦いに行くことを否定しきれんのだ」
「簡擁様が言っておられました。どんな力を持っていても、どうすることもできないこともあるのだ。それは、自らの心に対してもそうなのだ、と」
「ならばそうなってしまった主のために、我々は懸命に働くしかないのかな」
「これは先生らしくない弱気なお言葉。蜀軍は、勝ちますよ。そう願いましょう」
願うようになったら終わりだ。そう出かかった言葉を諸葛亮は飲み込んだ。劉備は、この戦で死ぬつもりなのだろう。死ぬ時は一緒と決めた義兄弟が死んでしまったことで、自分も華々しく散ろうと思っているのだ。それこそが劉備という男であり、自分はこの男のそんなところに惚れたのではなかったのか。絶えることなく進んでいく兵を見ていると、この男にもっと最上の死に場所を用意してやるべきではなかったのか、という胸を刺すような想いは湧いてきた。諸葛亮は周りの文官の誰よりも前に進み出て、その列を見送った。
今思えば、最初から止められるはずがなかったのだ。生き方の違う劉備と二人の義兄弟にとって、これから蜀という若い国で生きて行く若い諸葛亮の言葉など陳腐なものでしかなかったのかもしれない。
一際大きく豪華な兵車に乗った劉備が姿を現し、諸葛亮らはそれに拝礼した。心中、穏やかでいれるはずがなかった。反対したといっても、劉備のことを嫌悪しているわけではない。また劉備も自分のことを憎んでいるわけでもない。若い時に負った、誰にも言えなかった心の傷を理解してくれたことがとにかく嬉しかった。強くなった自分を認めてくれ、その力に最高の活躍の場を与えてくれたことには感謝してもしきれない。その劉備が、死に向かっているのだ。諸葛亮は拝礼した頭をはっと上げた。兵車上の劉備はとても穏やかな表情でこちらを見ていた。周囲の音は何も聞こえなかった。聞こえないということにすら、気づかなかった。劉備は優しい笑みをこちらに向け、目の前から遠ざかっていった。自分の好きな男が、死に行く。劉備の周りを囲む荊州兵が、劉備を黄泉へと連れて行く悪鬼に見えた。ここで飛び出していき、劉備の体を何としてでも止めたいという衝動を諸葛亮は懸命に堪えた。私はまた、自分の好きな人を助けることができないのか。劉備が東の彼方に消えていくまで、諸葛亮はそれを見つめ続けた。これが、若い時に望んだ地位のある者のあるべき姿なのか。