王平伝 8-10
人は死ねばどこに行くのか、一人の時にしばしば考えた。
誰であろうと、体はいずれ肉の塊になり、土に還る。ならば心はどうなのか。つまらぬ生き方をした者も、何かを成そうと努めた者も、死ねば等しく同じだとは思いたくなかった。
忍びとして、今まで多くの人を殺めてきた。死んだ者に未練を持つことはないが、死んだ後はどうなるのか、答えの出ないものだとわかっていながらも気になった。民からの略奪だけを楽しみに従軍している愚かな一兵卒の死も、司馬懿や王双のような気概を持つ男たちの死も、行きつく先が同じ肉の塊ならば、気概を持って生き抜くことに何か意味があるのか。太平道や五斗米道などという宗教がそれに答えのようなものを示していたが、それは胡散臭いとしか思えないものだった。
口に出したことはないが、殺すのなら気概の欠片も持たない獣のような者がよかった。若い頃には考えもしないことだった。気概を持つ、例えば王双のような男は、殺すべきではないという気がする。ああいう男は、単純に好きだと思えるのだ。
忍んだ場所は、厨房だった。手筈通り、黒蜘蛛の部下が蜀軍陣内で爆発を起こした。五丈原から離れる辛毗の一団からはずれ、十人の部下を陣内に潜めて自身はあらかじめ仕込んでいた厨房内の部下と交替した。交替しても露見しなかったのは、顔面と頭髪が焼け爛れていたからだ。辛毗と別れて郭奕は自分の顔を焼き、変装を施した。火傷が新しすぎるかと思ったが、誰もが火傷で醜くなった顔を避けるため、半日程度なら隠し通すのに難はなかった。
爆発と同時に、郭循に費禕を襲うよう指示を出していた。三年前の戦で失敗をしてから、郭循はずっと費禕を怨んでいた。その怨みはどこかで使えると思い、郭奕は郭循を忌避することで、その怨みを持続させた。固執癖のある郭循は、苦しみながらその期待によく応えてくれていた。
だが郭奕の狙いは費禕でなく、あくまで諸葛亮の命だった。自分が囮だとは知らない郭循は、費禕への怨みと手柄を立てたいという思いから、周囲を顧みずに作戦を遂行してくれるだろう。趙広は必ずそれに食らいつく。その時にできた隙が、諸葛亮を殺す好機となるはずだ。
厨房の残飯をまとめた箱に、毒の盛られた肉があった。恐らく会見に来た辛毗に出すつもりだったのだろうその肉を、残飯を穴に捨てに行く際に懐に入れた。穴を埋めて厨房に戻り、竈の火に息を吹き込んでいると、趙広がやってきた。料理長と話していたかと思うと、しばらくこちらにじっと視線を送ってきた。顔に火を押し付け火傷を作り頭髪も乱れていたため、横顔をちらりと見ただけではわからなかったはずだ。それでも趙広は何かを感じたのだろう、こちらに刺すような視線を向けたまま料理長と二言三言と交わしていた。その最中に爆発音が響き、趙広はほとんど顧慮することなく厨房から離れて行った。爆発音がもう少し遅れていれば、露見していたかもしれない。
囮の郭循以外は、爆発音を合図に諸葛亮の幕舎に集まり、天禄隊の眼を攪乱する手筈になっている。その間に、自分が諸葛亮の首を奪る。速やかにやらねば、もう近くまで蚩尤軍が戻ってきているはずだった。
諸葛亮の食膳が、盆の上に用意されている。兵が食べるものほどではないが、粗末で量の少ない夕食だった。一国の宰相となりながら美味いものを食おうとしない男と、贅を尽くしたものを食おうとする男の違いは何なのだろうかと、郭奕は束の間考えた。
黒い影が唐突に入ってきて、厨房で働く者を斬りつけた。入ってきたのは黒蜘蛛なので自分が狙われることはないが、郭奕は調理台の下に隠れた。
黒い影はすぐに去って行き、入れ替わりに蜀の忍びが入ってきた。あっちに逃げた、という料理長の声が聞こえた。
蜀の忍びが行ったのを確認し、郭奕は調理台から身を低くしたまま這い出て一人残った料理長に近付き、背後から腕を回して首を切り裂いた。声を出す間もなく、血と共に料理長の体から力が抜けていった。
郭奕は血に塗れた手で諸葛亮の食膳に手を突っ込み、穀物を炊いたものを口に入れて飲み下した。残りは床に捨て、懐の毒が盛られた肉の一片を盆の上に置いた。
大きなざわつきはないが、忍び同士の闘争の気配は近くにある。部下が上手くやっているようで、それは遠ざかりつつもある。
肉がぽつりと置かれた盆を手に、厨房を出た。すぐに衛兵の一人が怪しみ近付いてきたが、間合いに入った瞬間、逆手に隠し持った短剣で首を払った。厨房から目と鼻の先にある諸葛亮の居室まで、衛兵はこの一人だけだった。
中に入ると、周囲で異変が起こっているにも関わらず、一人の文官が書面に眼を落としながら、右手の筆を忙しそうに動かしていた。諸葛亮だ。
その諸葛亮の姿を、郭奕はしばらく立ち尽くして見入っていた。窶れながらも無私に働くその姿は、どこか神々しいものにすら感じられた。なるほど蜀の文官は、諸葛亮のこういう姿を見て力を出しているのかもしれない。
「食事はそこに置いておけ」
言われて郭奕は我に返り、諸葛亮の方へと近付いた。諸葛亮が異変に気付き、こちらに眼を向けてきた。怯えや焦りの色はまるで無い。
「今度は、漢の使者としてか、それとも魏の使者として来たのか」
「あの世からの使者でございます」
「郭奕か。顔が焼かれているな」
「ここに忍ぶのには骨が折れました。自分の顔を焼き、優秀な部下を犠牲にしなければなりませんでした。趙広は、良い忍びですよ」
おかしなほど、敵意は湧いてはこなかった。それどころか、同業者である趙広をかばおうという気にすらなってくる。
「しかし、忍び込まれた」
「蚩尤軍を手放したのは、悪手でありましたな」
「忍びこまれたのは私の責任だと言うか。しかし蜀軍の支えとなっていた帝のことだったのだ。仕方のないことだった。これについては、司馬懿殿が一枚上手だった」
「この戦は、蚩尤軍を東へやると決められた時に、勝敗が決されたのだと思います」
郭奕は不思議と、この老いぼれた男ともう少し話していたいという気になっていた。これからこ殺そうとしている男に、そんなことを考えたことはない。会ったことのない劉備という男も、こんな感じだったのかもしれない。
肉の一片が置かれた盆を、諸葛亮の目の前に置いた。諸葛亮はそれを見て、すぐに察したようだった。
「丁度良い。そろそろ死ぬべきかと考えていたところだ。儂は失敗を重ねすぎた。その失敗を咎める者も、もういない」
「諸葛亮殿が死なれれば、魏軍は退きます。これが、終戦の条件です」
「何故、その手で直接殺さん」
「始めは、この肉を密かに食膳に入れることができればと思いました。それがここまで近付けてしまった。殺し方については、何となくです」
「そうか、何となくか」
言って諸葛亮は子供のように笑った。そして何でもないように肉を右手に取り、齧り始めた。郭奕は内心驚き、それを止めたいという衝動を堪えた。
「これでよいか」
「魏軍は、退きます。私の命に替えても」
「つまらんことを言うな。儂が死ねば、蜀軍は退く。蜀軍が退けば、魏軍も退く。そちらも色々と厳しいのだろう。儂はそれがわかっているから肉を食べたのだ」
言いながら、諸葛亮の呂律が怪しくなってきた。毒が回ってきているのだ。惜しいものが、光を失おうとしている。
「私は無能であった。才知ばかりが先走り、才器に欠けていた。自らに頼り過ぎ、人を上手く扱うことを怠ったのだ。それが、私と司馬懿殿の違いであった。私を宰相に頂いた蜀は、不幸であった」
「不幸などと」
「蜀軍は漢王室の再興を掲げていたが、それは万民にとっての良い世をつくるためだった。私が死ぬことで、漢という国は完全にこの世から消え去るであろう。司馬懿殿に、漢よりも優れた世をつくってくれと、伝えておいてくれ」
「伝えます。必ず」
諸葛亮の顔から、ふっと生気が引いた。そして胸を抑え、激しく嘔吐し始めた。漢という国が、一人の男の命と共に、目の前で消えようとしていた。
行く先に、日が落ちようとしていた。
どこから情報が漏れたのか、五丈原の近くにまで来ると、かなりの数の黒蜘蛛が蚩尤軍を待ち構え網を張っていた。そこを抜けるのに、かなりの時を費やしてしまったのだ。
せめて日が落ちる前に帰陣するため、句扶はなんとか黒蜘蛛の包囲網を抜け、独りで五丈原に辿りついた。
帝の死は、本当だった。太子も何故か既に死んでいて、嫡孫の劉康は魏国の監視の下で普通の男として育てられていた。諸葛亮は、残された孫の血のために、これからも戦を続けようというのだろうか。或いはここまでやってきた戦を、止めることができるのだろうか。
五丈原の陣は、離れる前と比べて、どこか閑散としていた。蚩尤軍が不在の時にぶつかり合いがあって兵力がかなり減っていたが、閑散と見えるのは数が少なくなったからではない。一人一人の兵の表情に、どこか元気がなかった。
陣を歩いていると、本営の方から爆発音が起こった。
趙広は何をやっているのだ。心の中で呟きながら、句扶は足を速めた。自分の知っている限りでは、蜀軍陣内に忍びこんだ黒蜘蛛はほぼ駆逐しており、こんな騒ぎを起こせるはずはなかった。東へ行っている間に、忍びの戦いで押されていたのかもしれない。
本営に近付くにつれ、忍びの臭いが強くなってきた。目に見える争いではない。しかし、もう既に始まっている。
諸葛亮の幕舎に立っている衛兵に声をかけたが、それは立っているだけで既に死んでいて、少し触っただけで倒れた。こんな殺し方をするのは、黒蜘蛛をおいて他にない。
句扶は短剣の柄に手をかけて幕舎に走りこんだ。荒らされている様子はない。むしろ、異常事態だというのに、中は驚くほどに静かだ。
諸葛亮の居室に、顔と頭髪が焼かれた粗末な格好の男が立っていた。そしてその傍らに、諸葛亮が突っ伏していた。
「遅かったな、句扶」
声を聞き、顔に火傷を負ったその男が郭奕だとわかった。不思議と、殺気はなかった。
「お前ともあろう者が、何故逃げん。一仕事を終えて惚けたか」
「この男の死に様を最後まで見ていたかった。ここで殺されたとしても、それだけの価値があるものだと思った」
「なら」
ここで死ね。言おうとしたが、背後から二つの殺気を感じた。郭奕も含め三人の黒蜘蛛に囲まれる格好になっていた。囲まれてはいるが、やろうと思えば郭奕だけは殺せる。だがその時は、後ろの二人に刺されて自分も死ぬ。ただ味方が帰って来ることを考えれば、いつまでもこの形勢は続かない。
「潔い男であった。自らの負けを認め、あっさりと毒を口にしていた。俺はこの死んだ男の言葉を、司馬懿殿の耳に届けなければならん」
「死に際に、丞相は何と言っていた」
「良い世をつくりたかったが、自分は無能であったと。司馬懿殿に、良い世をつくってくれと」
「偽りではあるまいな」
「そう思うのなら、ここで俺を殺すがいい。ここで共に死のうではないか」
「お前と共倒れなど、まっぴら御免だ」
「なら行かせてくれるというのか」
殺気の無い声で郭奕が言った。句扶は背後の二人に殺気を送り続けていた。
「お前には借りがある。それをここで返しておこう」
「借りだと」
「前に王訓を攫った時、王訓を鄭重に扱ってくれた。お蔭で俺は片目を失ったがな」
「そうか。お前の眼帯は、そのせいだったのか」
郭奕が口の中で低く笑った。
「王双という男を知っているか」
「名だけは聞いている。王訓の叔父だな」
「陳倉で共に戦った。良い男であった。俺はな、王双という男が好きだったのだ。だから、王訓には手を出さなかった」
「ふん、相変わらず気持ちの悪い奴だ」
片手を爛れた顔に当て、郭奕はさらに笑った。
「もう言いたいことがなければ、さっさと消えろ」
「そうさせてもらおう」
幕舎内の灯が不意に弱いものになり、その仄暗さの中に溶けるようにして郭奕の体が消えていった。背後にあった二つの殺気も、もうない。
諸葛亮の死体が、灯が消えた幕舎内に転がっていた。
駆け足が聞こえ趙広が飛び込んできて、諸葛亮の突っ伏した姿を見て息を飲んでいた。
句扶が趙広に歩み寄ると、殴られると思ったのか、趙広は肩を竦めて両目を閉じた。
「楊儀殿には、俺から話しておく。お前が責任を感じる必要はない」
諸葛亮を守るのは、自分の役目でもあったのだ。それを、趙広に全て押し付けるわけにはいかない。
戸惑う趙広を尻目に、句扶はそこを後にした。
戦は終わったのだ。