【社説】定規としてのジェンダー
最近では様々なところでジェンダー平等や多様性が訴えられている。
これ自体は非常に素晴らしいことで、人類は有りたい自分が社会によって阻害されることなく堂々と存在できるという新たな自由を確保した。
しかし、その一方で課題も見えてきた。
例えば今までは男女別に分けられていた更衣室や、スポーツでの組み分けに第三の性やトランスジェンダーの人はどうするのが正しいのか?
男らしく女らしくはなくなったが、じゃあどうやって生きればいいのか?
今まで通りの生活が私らしい自分なのに多様性によってそれが阻害されていると感じる人もいる。
こうした問題の原因は様々あるが、私は今までの価値観、基準を鳥かごとして嫌悪していることにも一因があると思う。
男らしさや女らしさと言った存在を旧時代の遺物と決めつけ、それらを打破することが男女平等につながるのだと考えているかもしれない。
しかし、別にわざわざ敵対視する必要はないと考える。
人類はそもそも体のつくりとしてはManとWomanの二種類がある。車いすの生活を送っている人間が歩行生活を行っている人間と全く同じ生活体験を出来ないように体による物理的な差と言うのはある程度出てきてしまう。
だからこその定規としてジェンダーが必要だと考える。
例えばさっきの車いすの例だと、歩行での生活をする人間大半を占める社会においては車いすのユーザの意見は少数意見として淘汰されてしまい、不便な生活をするかもしれない。
しかし、ここに車いすユーザとい基準が出来ると、彼らが使いやすいようにと言う価値観、基準が生まれる。
これは別にだから車いすをつかう人と歩行をする人が違うとかそういう次元の話ではない。
車いすユーザだって普通にしゃべり笑い涙する。さらには結婚もすれば人によっては不倫や離婚もする。
このように別に基準が違えども、そこまで大きな差があるわけでは無い。ただし、だからと言って同じ基準で見てしまうとそれは障壁になる。なので分けるだけなのだ。
だからそれと同じようにジェンダーも定規としての基準が必要だ。だが、それは鳥かごのように自分を閉じ込めるものではなく、定規としてにょくわりでしかない、閉じ込められないものなのだ。
もちろんこの他にも問題は多様性の過度な押し付けや、不便さなどの物もある。そもそも変化を求めれば確実に問題ある程度起きてしまうから多少は許容すべきかもしれない。
社会は着実に自己を認め、他を認め合う社会に変化している。
そんな社会でどうあるべきか、一度考えてもいいかもしれない。
文責:丸山紡
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