なぜ頑張れるのか、なぜ関われるのか、なぜ愛せるのか
よくわからない。
普通の人が当たり前にできることが、私にはよくわからない。
※注意
この文章は、ただ思ったことを書き連ねただけのもので、まったく整理されておらず、何かの役に立つとか、感動するとか、笑えるとか、そういったことは期待できないかもしれない。
なぜ頑張れるのか
なぜ世の人は、さして楽しくもなく、生存に直結しないことでも、必死で頑張ることができるのだろうか。
私も、子どもの頃は必死で頑張っていた。
「義務を果たさなければ、牢獄のような場所に送られ、拷問にかけられて死ぬことになるかもしれない」と考えていたからだ。
だから、自分が「義務である」と判断したことは、必死で頑張った。
一方で、私のことを怠け者だと言う人もいた。客観的にいえば、これもまた真実であった。
「義務を果たさなければ死ぬ。だが、義務でないことはやらなくても許される。たとえば、『病気でもない限り、毎日学校に行く』は義務なので何としてでもやりとげるが、『家の掃除の手伝いをする』は義務ではないのでやりたくない」
まったく極端な考え方だが、そう私は考えていた。
ここまでの文章を読んで、「あなたは親の育て方に不満を抱いているのではないか」と思う人もいるかもしれないが、そうでもない。私は牢獄に送られることはなかったし、義務でないと判断したことは強制されなかった。十分な教育も受けることもできた。客観的に見れば、とても恵まれていた。
もちろん今では「義務を果たさなければ死ぬ」とは思っていない。
小学校低学年くらいで「義務を果たせなくても死なないのでは」と思うようになり、その後も少しずつレベルダウンし、今では「義務を果たさなければ恥ずかしい」くらいになった。武士にとってはレベルアップかもしれないが、私にとってはレベルダウンだ。
これは私に精神的平安をもたらしたが、一方で重大な副作用を生じた。
頑張れなくなったのだ。
「拷問にかけられたくない!死にたくない!」に匹敵するモチベーションなど、そうそうあるはずがないのだ。
私は幸運にも正規雇用され、今のところ生計を立てることができている。
私の仕事を必要としている人のことを考えれば、それなりの意欲も出てくる。
しかし、もうあの頃のような必死の頑張りをすることができない。
あの頃のように働くことができれば、今の何倍もの成果を挙げることができると思うと、悔しくてならないのだ。
なぜ関われるのか
なぜ世の人々は、人との関わりを求め、一緒にいるだけで喜びを感じるのだろうか。
人が仕事でもないのに他の人と関わりを持とうとするのは、その人が何か役に立つから、楽しいことをしてくれるから。
だから、関わりを持とうとするなら、役に立たなければならないし、楽しませなければならない。逆に、役に立たなかったり、不機嫌にさせたりしたら、拷問にかけられて死ぬことはないにせよ、きっと責められるだろう。
そういう観念が染みついていて、「迷惑をかけたとしても、一緒にいていい」という感覚がよくわからない。純朴だった子どもの頃はその感覚がわかっていたはずなのに、なぜ失ってしまったのだろうか?
なぜ愛せるのか
こういう調子だから、愛についてもよくわからない。
双方が魅力的と感じるカップルが存在するなどということは、ほとんど奇跡のようなものではないか。
そして、大体の場合において奇跡は偽物であり、人々はかつて無条件に愛していたはずの相手から離れるか、怯えながら関係を続ける。
それでも奇跡は確かに存在し、多くの人が愛し合っていることは頭では理解しているが、やはり驚くべきことだ。
このようなことを書くと、両親の仲が悪かったのかと取られるかもしれないが、そのようなことはない。子どものころの父は海外出張が多く、家にいることが少なかった影響はあるかもしれない。
これらのことができたら幸せなのか?
私は、ある段階まで、これらのことができる「普通の人」は常に幸福であると信じて疑わなかった。私は「いつか普通の人になれる、そのとき永遠の至福が訪れる」という「信仰」を心の拠り所として生きていた。
しかし、人間社会のことをよく知るにつれ、「普通の人」が必ずしも幸福でないことを知ってしまった。
その事実は、私からじわじわと希望を失わせていった。
次回は、この話の続きとして「自己肯定感」の話からスタートしたいと思う。
また、その次の話は、今回の問題、特に「頑張れない問題」を解決するための思想的試みについて取り上げる予定である。
この記事については、また書くべきことを思いついたら、加筆して再度投稿するかもしれない。
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