計算尺 - 美しくも忘れられつつある道具。
「始まりは道具史として。」
高校が実業高校だったこともあり、授業の中で関数電卓を扱う時間がありました。小さい単位や大きな単位を扱う上での指数表示、交流電圧のための三角関数、或いは周波数のための自然対数が必須だったのです。おそらく、今でも関数電卓はこの用途において最適な道具であると思います。そんな授業の中で教師が、自身の学生時代に使っていた道具として触れられていたのが計算尺でした。
その道具での計算を実演して頂きました。教師の熟達した淀みない所作が非常に美しく思えたのと同時に、時間を要した割には計算結果が全て「だいたい 〇〇.〇 くらい」と言うようにどう頑張っても有効桁数 3〜4 桁と言う計算精度の方を笑ってしまったのです。今となれば失礼であり、道具の本質を識る機会を逸した残念な反応でありました。当時の私は有効桁数 12 桁の回答を、瞬時に提供してくれる関数電卓を頼りにしてしまっていたのです。そして、私と計算尺の最初の出会いはそれだけでした。
たぶん、その教師の学生時代はこんな風景。 - 映画「風立ちぬ」より
「映画で計算尺の能力を知る。」
その存在など忘れきった生活を数年送った頃、私と計算尺を再会させてくれたのがある映画でした。先程の「風立ちぬ」ではありません。1995 年に公開された「アポロ 13」です。この頃はもう宇宙開発ものが大好きで「ライト・スタッフ」などを初め、映画以外でも NASA のドキュメンタリー群を漁っているころでした。(この習慣は今でも続いています)
アポロ 13 に於ける計算尺の登場は恐らく 5 秒にも満たない限定的な描写なのですが、そのシーンが象徴していることを理解するにつれ、とても重要な意味が込められていると思うようになりました。そして、計算尺と言う道具を見直すきっかけになったのです。
月に向かう途中で事故に遭遇した宇宙船の乗組員を地球へ帰還させる上で、NASA は月着陸船の用途を変えて救命ボートとして応用しました。しかし、その変更によって、事前に用意されていた計算は使えなくなります。そこで、様々な変更と現状を考慮した新たな姿勢制御のための計算が必要になります。船長ジム・ラヴェルはその緊張下での自身の計算結果に懸念を持ち、地上の管制官に検算を求めます。管制官はマニュアルの隅に手書きで数字を書き留めつつ、計算尺でジムが弾き出した値を検算します。そして彼は thumb up (ここでは sum up でも良さそう) と供に Go の判断を下します。
こんなシーンでした。アポロ 13 は 1970 年の史実です。当時は既にコンピュータは存在していますが、巨大ですぐ手元にあるような道具ではありませんでした。その上、計算は速いものの、そのための指示の入力には時間を要するものでした。なので、この場面のようにその場で答えを求めるには、まだ計算尺が必要だったのです。とても印象的であったと同時に、高校の授業での教師の美しい所作が同時に思い起こされるものでした。
有効桁数 3〜4 桁程度、つまりは円周率を 3.14 として扱うような精度の計算で事故に遭った宇宙船を地球まで導こうと言うシーンなのです。関数電卓は有効桁数 12 桁で計算してくれますが、そこまでの精度はそもそも人生に必要ないのではないか、と言う投げかけのようにも思えました。この衝撃は私の人生を根本的に変える程には大きくはありませんでしたが、私に計算尺を買わせる程度には影響しました。ミーハーですよね。
「憧れの計算尺をこの手に。」
ついに手に入れました。高校の教師が使っていたのを見たことがあるのと、映画の 5 秒ばかりのシーンしか知らない私には説明書が付いている個体を見つけることが重要でした。それが冒頭の写真にあるヘンミ社の No.250 と言う製品です。1950 〜 60 年代の製品なのですが、第一線の技術者向けではなく、どうもそれを志す学生向けにデザインされていたようです。おかげで説明書は単なる機能説明に留まらず、実務における諸問題を計算尺を用いて解決する演習の側面もあり、非常に学びやすいものになっておりました。
NASA の管制官への敬意が原動力になっており、割と真面目にその操作を学ぶことができました。やがて予定通り、平方根や三角関数、自然対数などは扱えるように。しかし、どう足掻いてもこれが実用品とは思えないのです。それは時間がかかり過ぎると言う点に尽きます。目の前に Excel が入ったコンピュータのある今、計算尺を生活の中で扱うようにはならないでしょう。
「美しくも忘れられつつある道具。」
もっと古典的かつ原始的な計算道具であるそろばんは今でも存在意義があります。そろばんは実はそれ自体には計算能力はなく、数字を可視化するだけの道具です。少し踏み込むとそろばんはそれ自身によって桁数の大きな数字であっても、人間を計算する一桁に集中させ、残りの桁は人間に代わって記憶してくれる道具です。実際の計算は一桁一桁人間が行なっているのです。しかし、そのプリミティブさ故にそろばんを扱うことは計算能力の鍛錬になり、今でも意義のある道具になっています。
対して計算尺は対数目盛 (ノギスに於ける少数以下の目盛と同じ原理) を用いて直接的に答えとなる値を算出する道具です。人間はさまざまな値から計算尺に与えられる部分を選んだり、取捨選択の能力こそ求められますが暗算能力は必要ではありません。そこが現代でも残るそろばんと、残らなかった計算尺の違いになったと考えます。
ただ、数学の面白さを体感するには良い道具だと思います。均等に並ぶ普通の目盛と、段々と間隔が狭まっていく対数目盛。この 2 つの組み合わせで多彩な計算を行えると言うのは数学そのものを理解する上で面白い働きをします。従来は公式を覚えて、そこに数字を当てはめて解を導いておりました。しかし、計算尺に触れたことで、その公式自体の成り立ちを目盛の動きから理解することが出来ます。数字の動きに法則があることを理解するにはグラフにすれば良いのと同じです。計算尺は数字と数字の関係を視覚化する道具と言えそうです。
計算尺の目的は暗算や筆算では到底解に到達できないような高度な計算を行うところにありました。現代に於いてはより短時間により高い精度で同じ目的を果たす道具が存在します。計算尺にはもはや計算の道具としての需要はないでしょう。しかし、数学と数字の関係を視覚的に表してくれることから得られる発見の体験は後継の道具には無いエレガントな側面です。加えて、必ずしも高い精度で答えを求めなくても良いと言う点も良い学びになると思います。計算尺が持つこれらの要素は今後も教育のどこかの段階で触れてくれたら、と思うのです。そうなることで、もう少し数学を好きになる人が増えそうな気がしたのです。
余談: 事実検証。
ここからは余談です。NASA は公開を活動の原則としております。アポロ計画の記録の多くは公開されており、事故に遭った 13 号のミッションを含めてインターネットで参照可能です。そこで、例のシーンに該当する部分を探してみました。
Apollo Flight Journal
Apollo 13, Day 3, part 3: Aquarius Becomes a Lifeboat
https://history.nasa.gov/afj/ap13fj/09day3-lifeboat.html
この資料の打ち上げから 58 時間 04 分 03 秒の部分にありました。そこでジムはこう言っています。‘Houston. Okay. I want you to double check my arithmetic to make sure we got a good coarse align. (ヒューストン、私の修正角度の計算が正しいか確認したいので検算して欲しい。)’ と言っています。あのシーンは実在したのですね。
と思ったらこの直後に脚注が入っておりました。‘This stage in the LM activation process was dramatised in the Apollo 13 movie. (月着陸船の起動プロセスこの場面は映画アポロ 13 の中では脚色されていました。)’ と書かれています。 先程のジムの発言は記録にありますので地上に検算を求めたこと自体は事実です。ではどこが脚色だったのかというと、その検算を地上に求めるのがさもイレギュラーであるかのように描かれていたことと、この検算に管制官が計算尺を用いたことの 2 点にあるようです。
前者、地上での検算はもともとこのような場合には通常の手順として含まれているとのこと。そして後者、計算尺は足し算の場面では使われないと言うこと。実際、この場面で行われた計算式も同じ資料に含まれており、単純な足し算 (sum up!) でした。確かに宇宙船の事故は緊張する状況であり高度な計算が必要にもなるのでしょうが、この場面に限って言えば求められる計算は決して複雑なものではなく、筆算によって検算出来るものだったのです。(確かに私の計算尺にも足し算の機能はありませんでした)
まぁ、確かに検算を求める前の段階で、ジムは紙とペンによる筆算で値を出していましたしね。
と言うことで私に計算尺を買わせる程度には衝撃的だったあのシーンは脚色であり、史実では無かったようです。ちょっとショックです。でも計算尺を返品したい程のショックではありません。計算尺は悪くないのです。
買うほどではないけど触ってみたい人はここ。
アポロ計画で採用されていた N600-ES と言うモデルの操作ができます。
YAVSR: Yet Another Virtual Slide Rule N600-ES
http://www.antiquark.com/sliderule/sim/virtual-slide-rule.html