日記:イチブトゼンブ
海の波で削れたとある洞窟へ行った。入場料は500円。ごつごつとした内部の岩に触れる。奥には2,300年前の仏像が並ぶ。その洞窟の中は完全に整備されていて、人間の歩きやすいフラットに舗装された通路を等間隔に並んだ照明が空間を演出している。火災報知器までが整備された完全なアミューズメントになっている。その自然との出会いは不自然な出会いとしか思えない。
しかし、そうやってでも自然と相対すると人間の小ささはより加速する。この岩壁はこれまで何万年もここにあって、そしてこれからも、何億年ここにあり続けるのだろうと。人間なんてものはたかだか知恵をつけて何千年。アリエッティよろしく仮住まい。いや居候の身である。地球の長い生命の中でのほんの一瞬でしかないことを自覚する。キャンプだと言って大層な装備を馬鹿みたいに揃えて、普段の暮らしを再現しようと必死になったり。スリルだ非日常だと言って絶叫マシンやスカイダイビングで臨死体験を試みてみたり。多分そんなものは初めから身近にあったものなのだ。まだ人間社会としてのエコシステムが確立しないサルみたいなご先祖様達は全て経験として持ち得ていたに違いない。滑稽。地球の長い時間から見れば人間のエコシステムもまた、大いなる自然とも言えるのではないか。考えてみれば都会は冷たい、ビルばかりで自然がないとおっしゃるが。そんなビルも結局は地球の素材を加工したに過ぎない。地球にある物質をこねくり回してできたものなんだ。鉄は冷たく、木はあたたかい。それは人間の勝手なイメージだろう。そう思うと温暖化だなんだ、動物が絶滅していくからどうだと地球を守ろうなんて大袈裟なことに思えてくる。ほんのささいなことでしかないのかも知れない。でも、人間は馬鹿だから日々の暮らしの中で忘れていく。特に空が狭い東京という街では、まるで人間の作った不自然な風景の中で自然の一部であることを感じなくても生きていけるからだ。見たくないものはブルーシートを被せるか都会からは排除されていく、そんな合意形成がなされている都会には。だから、たびたび確認の必要がある。僕たち人間が自然の中にいることを。
自然に触れてリフレッシュというやつだ。滑稽だなと、先祖のサルに指を差し笑われながらでも。たまには確認しようではないか。長い地球の歴史から見れば一瞬の恥でしかないのだから。
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