日記メモ
〈見た映画〉
・タンポポ(伊丹十三)
お葬式の後、伊丹十三の第二作。
本筋は山崎努と渡辺謙から始まる。豪華だ。この映画はラーメンウエスタンムービーらしい。西部劇を下地にしたアングルや構成やストーリーになっている。食と生(性)の因果などを語るパートと本筋が入り乱れる構成。珍しい試みで、物語に厚みを持たせるためなのか、食というテーマを貫くためなのか。食べるとは生きることなのか、生きるということは食べるということなのか。フェチズムなのか。なんだかわからないが賑やかな映画だ。
冒頭の役所広司からはじまる、映画上映前の注意めいたものが妙に大作感を醸し出す。群像劇の人物がちょっとフェリーニの映画の様な趣を感じた。
前作のお葬式の嫌な部分が吹っ切れて、映画の強度が上がっているような気配がした。
当時のエンタメムービーも時を越えれば名作たりうる。
山崎努のウエスタンハットも嫌味がなくみえる。
やっぱり映画は観る時代と環境で変容していくものなんだ。とにかくラーメンが食べたい、あたりまえにあたりまえのラーメンを。ラーメン=映画として。それが伊丹十三の答えのような気がする。持ち前のサービス精神は権威や過去の映画や映画人たちに媚びることじゃないと、今までの地続きにあたりまえに面白いものを作ろうじゃないか、ラーメンみたいにみんなに愛されるものを。とそんな思いが伝わった。
・カップルズ(エドワード・ヤン)
エドワードヤンに今のところ外れなし。
お決まりのフィックスのショット構成から、長回し、カメラワークのチョイスまで見る人をひきづり込む力がある、もっと見たい。という意識になる。
ファッションがとにかくおしゃれに映る。単に今の時代、2023年にフィットしているからなのか。
他の映画でもエドワードヤン映画のファッションは平凡なチョイスに見えない。子綺麗なスタイリングではなく生きている服に見える。
父との確執を持つボンボンの頭の回る子供。
その仲間たちと、街にやってきた外国の女の子。
この世には悪人とバカしかいない。お金と幸せ、エドワードヤンの贖罪にも似た、親世代の功罪を若者たちに見せつけ、問う映画になっている。死んだ後に何が残るのか?それは子供なのだ。
台北ストーリーでも語られた、親に似てくる子、繰り返される社会のどうしようもなさを描いている。悪人は誰かにとってのバカだし、バカもまた誰かの悪人なのだ。お互いを利用し合う関係性、その先に欲しいものが金なのか、それともなんなのだ?
現代を受けたエドワードヤンは何を作るのだろう。
インターネットで駆け巡る情報は、均一化をもたらして都市像をぼやかしている。今の台北に行ってみたい。きっとそこには東京と何も変わらない都市があって、つまらないのかもしれない。そんなことを言いつつ圧倒されるのかもしれない。今の若者を救うにはどんな物語が?今の東京にストーリーはあるのか?答えはない。
余談だが、普通に見ているだけで長回しの3カットほどガンマイクの先っぽが画面上部に見切れていた。エドワードヤンはNGを出さなかったのか、それとも演技を優先してそのテイクを使ったのだろうか。予算がなかったのだろうか。そんなこと気にしてなかったのだろうか。
演技を優先したと言ってほしいなあ。
・光陰的古事 第二話希望(エドワードヤン)
初潮を迎える女の子の話。目新しさは今見るとあまりない。
ガラス瓶の底みたいなメガネをかけた男の子がずーとしゃべる、女の子はほとんどセリフはない。ストーリーは予想通りの筋を辿る中、ビートルズ好きの姉の一歩先を行っている、未来を垣間見る妹。終始アフレコの声が浮ついているのが気になった。幼少期の子供の希望を描いている、ああなりたい、こうなりたい、自転車に乗れた。とか、どこにでもいけそうだけど行けない。これは都市論や台北ストーリーのアメリカに行きたい女にもつながる要素だと思う。示唆に富んだ、チカチカする電球、乗れない自転車、父性の欠落、ビートルズと戦争、表面上のストーリーが平素な分、演出面の秀逸さが目立った作品だと思った。
終わり