ひぐらしを懐かしみながら、自分の罪を見つめる。

最近米津玄師が好きすぎて、彼が少し前まで書いていたブログを読んでいる。その中のある一節に一種の真理を見た気がして、思わずスクリーンショットして手元に置くことにした。そしてそれは、自分を見つめ直す機会にもなった。

(米津玄師 REISSUE RECORDS DIALYより『レオパードゲッコー』
https://reissuerecords.net/diary/レオパードゲッコー/)


「いじめ」は幼い頃から私の身の回りにも確実に存在した。それは私が「いじめられる」側でもあったし、「いじめる」側として加担していたからだ。

幼い頃の私はきっとだいぶ変わっていた(お遊戯会で踊ること以外、保育園の行事に全く興味を示さず、集団行動にも参加しないやる気のない子供だったらしい)ので、皆の当たり前の範疇におらずいつも仲間はずれにされていた。

そして成長した私は、仲間はずれやいじめられることの辛さ怖さを知っているにも関わらず、皆の枠からはみ出すことを恐れて同級生を仲間はずれにした。(これも言い訳なのかもしれない、周りのせいではなく自分の意思だったととも思う)

学生になり、様々な仕事をするようになって、そりゃあ仕事が上手くできない人もその中にはいて、私はそれを「何でできないんだ」「常識的に考えれば分かるだろう」とイライラしながら眺めるようになった。そして彼らを受け入れることもせず、そのイライラを何らかの形でぶつけてきた。
そしてそれと同時に他人からそのイライラをぶつけられることも多くなった。納得がいかないまま、そのイライラを受け入れるしかなかった。失敗することが怖くなった。

そんなお世辞にも「楽しかった」という一言で括ってはいけないような学生生活を経て、私は来春から教員になる。
狭い環境でいじめと隣り合わせの生活を送る子供たちを見守る立場になる。
果たしてその仕事に自分が就いてもいいのだろうか。
子供たちを素敵な未来に導けるような、そんな理想を叶えられる自信もない。
けれど「振るい落とされた者」であり「振るい落としてきた者」でもある私は、いつしか両者の受け皿になれるかもしれない。
子供たちと逃げずに向き合うことで、「当たり前」から振るい落とされることを恐れて流されるしかなかった弱い自分から、少しは抜け出せるかもしれない。

(自分語りして気持ち悪い、だとか、仕事如きで熱くなってて寒い、だとか思われるかもしれないけれど、私はそう思われるような「当たり前」からは喜んで飛び降りる。
情熱を持つことが恥ずかしい、無駄なことだと思われる世の中には生きたくないし、そう思わない人が増えて欲しいと思う。)

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