(小説)砂岡 4-4「ばらばら」

 所詮は大英帝国の思惑通り。この事件は、むしろ陣屈国に与えたダメージの方が大きかった。大英帝国内よりも、陣営屈国では大規模な学生運動はもちろん老人までものがデモに参加した。統計なり公文書の改竄はあちらの国でもあったようで、国民の不満は一気に爆発した。当時の財務次官、理財局長が飛び降り自殺、警視総監が心臓発作で死に、裁判官や検察内でも失踪者や自殺者、不慮の事故が相次いだ。内務省国家保安委員会は本部が爆弾テロにより吹き飛んだ。翌週には陣屈国トップであり、肺がんを患っていたティム大統領が病室で狙撃され死んだ。クーデターも近いとの見方も出始めた。陣屈内に長期に幽閉されていたロマノフ王室も英国へ亡命した。上記全ての「悲劇」は全てイルガ自治宣言から半年以内に起こった。陣屈国という世界第二の軍事大国は「内側」から瓦解したのだ。

 国境が開かれた今、私たちの悪夢のような抑圧の象徴だったディベート教育は現在は世界的にも理想的な実践的教育と評されるに至っており、教育水準はトップレベルであるという。そんな統計が大英帝国以外でも騒がれるようになっているんだ。いい気分だって?ただただ不思議な話だ。世界の羨望のままざしを受けるようになった。たくさんの欺瞞を抱えながら、完璧では無い世界を生きている。それがわたしには息苦しい。それでも私たちの日常は残酷にも少しずつ変わってゆく。

 父のホバークラフトは砂嵐で露出した岩に高速でスピンしながらコックピットから激突した。船体が砕け散った上に爆発したという。事故当時、トランスポンダーは稼働していたが、砂嵐とその後の海の到来で回収は困難であり、誰一人近づくことができずに砂に埋れ、水が来て、そのまま海に沈んだ。波が落ち着いてから海面から40m下からブラックボックスや船体の破片が引き上げられた。右エンジンのブレードが客室に突き刺さり、焦げた配線が荷物や衣服や遺骨に絡みついていることが事故時の衝撃を物語っていた。ただ尾翼だけが原型を留めていた。事故発生時の物理シミュレーションを行い遺体の位置を予測する。入港を拒否した入雅か、ジャミングをかけた砂岡か、事故調査と責任追及のための複数の訴訟が行われている。

 帰っても学校にも行く気がしない。森川くんはこの革命を大英帝国のために少数者を利用したに過ぎない。とイルガの革命を論じた。革命だとか政府批判なんて世迷言なんて忘れて学校へ戻ってきなよと。しらけたことをいう。このベッドでどれだけ過ごしただろう。砂が来て、また去って。妹にも叱られて、呆れられて。気がつくと、わたしの部屋の壁には凹みや穴が空いていた。毎月毎月毎月毎月と小さなパパが帰ってきて、それをぼーっと見て。どれだけ集まっても、パパはいつも石ころみたいな形で。それを入れるつぼ。一番大きいのは半分に割れた骨盤かな。そんなのを少しずつ届けられて、コレクションのようにつぼに入れる。ころころ。ころころ。お母さんは原告なり、砂岡政府の事故責任を追及する傍ら通信社の仕事に戻った。ひとりぼっちの部屋にパパとふたり。吐いて、また食べて。おばあちゃんは心配して、わたしを時々訪ねてきてくれる。本当にわたしは心配かけて、迷惑ばかりかけてばっかりだ。
死んだら、塩崎に会えるかな。
木っ端みじんになったお父さんの遺骸を思い起こして、吐いて。

パパの遺灰の前で、「わたしはレズです。」とつぶやく。どうしてだろう。どうしても。わたしがずっと「抱えてきたこと」「伝えたかったこと」「認めてほしかったこと」「言えば、きっと納得してくれた」「わたしの苦しみもきっと抱きしめてくれた」
ううん。わたしがずっと「否定したこと」にやっと向き合わなくちゃいけないんだ。涙が溢れて止まらなかった。


ある日、ひとつの手紙が届いた。バッキンガム宮殿からだ。普通に住所があるんだ。あの建物。エリザベスからわたし宛におばあちゃんの家に届いた手紙だ。わたしには一文だけ。
「耐え忍び、生きる場所を見つけなさい」
思いっきり破ってやりたかった。ばらばらにして。でも、わたしの取った行動は、案外冷静に、それを静かに壺の横に置いてやることだった。その言葉がパパの声に聞こえたからかもね。わかんない。


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