(小説)砂岡 2-5「エリザベス」
その後、何週間か時は過ぎ、今年3度目になる砂嵐が来た。
取り敢えず自宅へ戻り、ママから頼まれた仕事セットとダイビングセットを梱包して出版社へ送った。ついでに登校する。
森川くんとは未だ言葉を交わすことはなかったが、話しかけてきたら今まで通りに対応しようと思う。そのくらいの思いやりは必要かもと思うし。だが相変わらず中井さんは学校に来ない。彼女は「入雅に行く」と言ったきり帰ってこないらしい。
わたしの日常も、この街の日常も、砂嵐程度では揺るがない。クーラーが止まると、徐々に教室の気温が上がってゆく。この街が完成する前は夏休みといって、海が干上がる3ヶ月のうち砂嵐の特にひどい後半2ヶ月が休校になっていたらしい。いくらなんでも2ヶ月は休み過ぎだとは思うが、うらやましい気持ちもある。
砂で擦り傷だらけのガラス。
「入雅なんて、知らないもん。」
新聞が溜まっている。さすがに誰もいない家で待っていても寂しいので、ママの言う通り、半島の南のおばあちゃんの家に行こうとおもう。海沿い?の鉄道で南まで向かう。防護壁の向こうの陣屈海、そして油田、お父さんの船。
ふと、塩崎の手の感触がした。つないだことのない手。なんだろ。
誰も降りない駅に着き、エレベーターに入って、そこから地下道をずっとまっすぐ。ママの言う通り、この街の目的地のすべては駅から遠い。おばあちゃんの家なら、なおさら遠い。この国を嫌っているから。この国が嫌っているから。ふんふーん。いい気分だ。
そんないつも通りの道に、今日、スーツを着たガタイのいいジェントルマンたちが、うようよとそこら中にいる。今度は、おばあちゃんは一体、何をしたんだろう。さすがにこんな大ごとになるなんて。孫の身にもなってほしい。ふふっ、そんなおばあちゃんが大好き。
さて、思ったとおりジェントルマンはおばあちゃんの家まで続いていたんだ。ピンポンを押そうとすると、ジェントルマンが低い声で言う。
「お嬢さん?」
一番、偉そう。長身で、ピカピカの革靴とキラキラの紅いネクタイと黒い肌と型の整った帽子の彼は真っ白なシャツをちらつかせながら、私の目線に現れた。それに、わたしはこの国に生まれて初めて「お嬢さん」なんて呼ばれて
「お嬢さん?」
とオウム返ししてしまった。その瞬間に彼はなにかのデバイスで私の顔を認証したように
「高梨春木さんですね。」
ええ、いかにもわたくしが高梨春木ですわ。そう言って、ちらっと自分の靴がだいぶ履きつぶして砂に汚れたアディダスであることに気がつき3mmよろけた。おや?そのとき、彼の胸にライオンとユニコーンの小さなバッチ、そして隣にはバッキンガム宮殿が目に入った。
「失礼。高梨様、申し遅れました。わたくしバッキンガム宮殿より参りました大英帝国王室第一秘書ローレンス・ウェイジャーです。」
「おばあちゃん。ひとつ聞いていい?」
「うん?」
「なにをしたの?」
「なにもしてないわ。向こうから来るのよ。」
「誰が?」
「エリザベス」
エリザベス、そう、エリザベス、そう。
秘書のバッチを思い出す。エリザベス2世。この大英帝国の女王様だ。
おばあちゃんはテーブルの本をどけて、わたしの湯飲みの周りへとさっとお菓子を投げた。わたしはそれを見つめていた。
ぴんぽーん。
鳴った。
おばあちゃんが、急にビシッと起立してドアを開けると、
「わたくしバッキンガム宮殿より参りました大英帝国王室第一秘書ローレン…」
「いいのよ。外で待っていて。ありがとう。」
お、おう。来た。その声と顔、そのたたずまいは本人そのものである。
だが…
「待ってたわ、エリザベス。」
おばあちゃんのエリザベスに対する初めの行動はハグである。
そして…
彼女は、つまり、この大英帝国の女王は完璧にアディダスを着こなしている。
15分前に3mmよろけた私、カムオン!生まれからさっきまで大英帝国をぼろくそに言ってきたわたしも、王室御用達の最高級のアディダスを召した女王様がとても誇らしいと思います。エリザベスはアディダス特注の帽子をおばあちゃんに渡す。おばあちゃんはそれを本の上にぽんと置く。帽子には銀色の王室の紋章が光る。そして、エリザベスは椅子に座った。脚を組んで。
だれかこの光景を絵に描けるものなら描いてほしい。
「ニーハオ、夏木」
「ズドゥラーストブィーチェ、エリザベス」
わたしは…「コンニチハ」
「コンニチハ、春木さん。」
目が合った。どうしよう。
「エリザベス、そのかっこうじゃ、決めたんですね?」
「そう。そう。決めたわ。春木お嬢さん、そのおせんべいを取ってくださる?」
はい。わたしの生涯の仕事はおせんべいを取ってくることです。女王様。
「わたしはね、今日、世界へ私たちの未来について問うわ。」
エリザベスはいつの間にか目の前に出現しているティーカップをすする。バキっと、破壊音を立てたのち、おせんべいの1/3が女王の口腔へ流れた。微細な破片が胸のアディダスで跳ねる。
「それで春木さん、率直に言ってわたしはどう見えていますか?」
待て待て、つっこみどころありすぎて追いつけん。どうって?
「率直に申し上げて、この砂岡ではあまり好かれてはいないと思います。」
わたしはいつも間にか、エリザベスと同じように脚を組んでそう言った。いまさっきの動揺はどこかに忘れて。
「そう、それは、どうして?」
おばあちゃんに会いに来たのに、このひとはわたしの名前を知っていて、馴れ馴れしく話してくる。エリザベスは露骨に不機嫌そうな顔を私に向けた。新聞では見たことのない顔だ。世界の仕組みがどうなってんのか、わからん。
「えっと、砂岡はまだ占領の歴史が浅いこと、いや違う、わたしは、わたしは、この国の、自由、教育方針も欠陥だらけだと思います。なんですかディベートって、同じ帝国なのに移動の自由もない。ろくな出版の自由もない。外が見えなくてどうして自由だといえますか?わたしはパリを知らない。わたしのママはわたしのために通信社を辞めた。外の世界が見える数少ない場所をママは辞めた。」
「そう。そうね。その通りだわ。」
そう、その通りって、なに?
私は続ける。
「それに、いいじゃないですか地下で音楽を奏でたって。それに、それに、この国の統計はどうなってんですか?いかさまも甚だしい。イルガは敵じゃない。中井海央さんも敵じゃない。言論の自由はどうなってんですか?」
おばあちゃんは微笑んでいる。
エリザベスの表情はあまり良くない。そりゃそうだ。
「もっとありますよ。油田開発でどれだけのひとが犠牲になったか、何年か前の事故だってサンゴ礁のどれだけの海の生き物が死んだか?いまも、わたしたち有色人種がリスクを負って、使い捨てにされて、その数も隠蔽されて、。塩崎もそのせいで、パパが事故に遭って…もう…あぁもう。」
え?嘘?
「わたしは、春木さんには、どうみえるの?」
わたしは、それに答える間もなく、意識が遠くなってゆき、がたんと衝撃がはしって、暗くなった。
「えっ?」