見出し画像

(小説)砂岡 1-4「ホットケーキ」


さて、悪夢のような日々はいつものことだ。
 ある程度の気怠さも重要だ。人間、労働と休息だけではやっていけない。動いている時間とそうでない時間、そして時間と空間を超越した気怠い時間。ベッドは優しくわたしの身体を包みこみ、時より私をくすぐり、さらさらとした刺激的快楽を提供する。カーテンは締め切られ、この位置からは時計すら確認できない。それが世界のすべて。どんなに物理学者たちがこの宇宙の果てを研究して明らかにしようとも決して侵すことのできない聖域。個室。プライベート。その人権的領域がいかに保護されているかはなんら問題でもない。

しかし、そう、しかし。そのときはやってくる。

「春木〜。もう!いま、何時だと思っているのよ!朝ごはん冷えちゃうわよ!起きなさい!」

これを「不幸な」と形容べきなのか、「幸福な」と形容するべきなのか。
このお話の作者は答えてくれない。

「まったく、残酷かな。休日というのは。」

 春木さんはそうつぶやくと、先ほどまで優しかった布団を皮膚の連続性からはぎ取る。カーテンは自動的に、いや強制的に開け放たれ、そこにある団地を露わにする。空気は澄んでおり、今日は北風のようだ(南風なら警報で目が覚めるこもあるのだから)。
 ドアがずらりとならんだ光景はその先も、自分の団地のその後ろも続いている。目の前に布団が自動的に、強制的に壁へ綴じ込まれる。さっきからスイッチをぴこぴこ押しているのは春木さんこと、自分自身なのに。
 重層的な現実を鏡が鏡がように映している。目の前の団地とわたしたちの団地との間にある隙間には、わいわいと子供たちが集まっている。これから彼らはぞろぞろと日曜学校に向かう。スズメの丘第6区にある自由メソジスト教会だ。ここから地下鉄で2駅だ。自分も小さいころは通っていた。

がちゃーー。わたしの部屋の扉がゆっくりと開く。

「よっ!なんだ起きてるんじゃない。」
ママがドアを開けた。開かれた扉の向うから、ホットケーキの香りが漂ってきた。

時刻は午前8時49分。
そして、唐突に決心したのだ。

「ママ、今日チエ山(チエ・ムプリ)登ってくる。」

チエ・ムプリは染切半島北部に広がるウナ山地の山のひとつで深い人工森林に覆われている。かつてはナラなどの落葉広葉樹林が大半を占めていたらしいが、いまではスギやヒノキが林立している。

「また、どうして?」
ママはボウルのラップをはがして、生地をもう一度かき混ぜながら聞く。

わたしが山に登るのは決して珍しいことではない。
こうして朝、唐突に決めて登るのも決して珍しいことではない。

「まぁいいわ。暗くならないうちに帰るのよ。夕飯は用意しておくから。あと、どうせチエまで行くなら、はちみつのジャムを買ってきてちょうだい。山菜までは要求しないから。あ、あとダイビング免許取るから住民票取ってきて。」

「はい。オッケー。」

ママには半島南部のアペ山などの低い山に山菜を摘みに行く趣味がある。
というか、ダイビング?海が来たら泳ぎに行くのだろうか。

「それと、明日パパ帰ってくるから。」

「ん、そうなんだ。」

冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。

 パパは船(ホバークラフト)乗りだ。一度航海に出ると一週間以上帰ってこない。夏は天候と地形ともに変化が大きいため、特にスケジュールがズレ込むことになる。現代のテクノロジーもってしてもだ。南風になれば、このマーブル市に、いや砂岡国にすら飛行機は一切入ってこられなくなる。船で陸沿いに走ってきた方がずっと効率的なのだ。

「焼けたわよ。明日はごちそうなんだから、今日はホットケーキで我慢ね〜。」

 ぼんっと、焼きたてのホットケーキとはちみつジャムがテーブルに置かれる。わたしはコップに牛乳を出そうとすると、どろりんっと零れた。

「あ、ごめん、言ってなかったっけ。いま、ヨーグルト作ってるの。」

ママは結構、おちゃめだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?