(小説)砂岡 4-1 「逃げられない」

 逃げられないわたしに追い討ちをかけるかの如く森川は広場に戻ってきたひとびとへ場所を譲って距離が近づく。...逃げられない。わたしは残りのケバブを食べきった。

「おかわり」

そう伝えると。森川は消えた。

 あのスピーチには悔しいけれど、心が揺り動かされることがなかったわけでもない。わたしはもう一度、騒々しい空を見つめ、あの城を見つめる。緑か。わたしには、空と城との境界が緑に見えた。そういえば女王もまた緑のドレスを身に纏っていた。あの男はスーツを着ていた。ブランデンブルク門に戻ってきたひとたちがわらわらとプラッツへ戻ってゆくなか、わたしはひとびとの喜びと自信、不安と喪失感を眺めるしかなかった。わたしも同じ気持ちだ。スピーチにはわたしがおばあちゃん家で叫んだことも含まれている。ミオちゃんの言う通り、これは茶番だ。この革命は利用された。大英帝国のさらなる「統合」のために利用された。どうせ体の良い「多様性」の一員として、その象徴として、イルガの理想は陣屈国との紛争に利用される。わたしのアイデンティティーはディベートのための格好の材料にされる。支配。支配とは常に「外部」を取り込むことで成立している。大英帝国は陣屈国との冷戦で領土的拡大の余地を失った。帝国はもはや機能しない。そんなことは国中が知っている。油田開発にしてもエネルギー確保を利用にしてネクロポリスとの海域の領土的支配を継続することが国家の、いや、帝国としてのメンツを保つためだろう。大英帝国が持つ「外部」は多様性という概念へと侵略を始めたんだ。今回のはその儀式。
ふぅ。こんなとこ来るんじゃなかった。
わたしは、わたしは、なんなんだろう。悲しくなる。消えたくなる。

「クソッタレ」

 その言葉は敗北感や喪失感を味わっている自分自身にも響いた。
それでも、わたしのどこかにエリザベスの言葉は脳裏に貼り付いて離れない。「生まれてこなかったことにしたこと」記録からも、国民の記憶にも残されなかった彼女たちの存在を抹殺しようとしていたこと。命の選別。わたしはエリザベスのスピーチに同情以上の何かを感じている。
「誰一人ともいないこと、いなかったことにしないこと」


そんなこと、どうでもいい。
「帰りたい。」
ここへ来たときと同じように、誰かに拉致されてさ。
自分の意思でここに来たんじゃない。観光でもない。
「もう、いい加減、帰りたい。」
「もう、いやだよ」
絆創膏の間から、血が滲んでくる。
ゆっくりと目を閉じて、うずくまる。

「春木さん、持ってきたんだけど、大丈夫?」
「うん」
涙汲むんだわたしの目の前にケバブが差し出される。
あー。もう、どうでもいいや。
どうせこいつにお持ち帰りされるんだ。
「森川くんって、結構、優しいよね」
よく考えてみれば、こんなに自分に好意を持ってくれて、
誠実で、ちょっとおちゃめな彼が魅力的に思えてきた。

そんな人生も結構ありかも。

「失礼します。お嬢様。」
「大英帝国王室第一秘書ローレンス・ウェイジャーでございます。高梨春木さんですね。」
うごぉ!何?長身で、ピカピカの革靴とキラキラの紅いネクタイと黒い肌と型の整った帽子の彼は真っ白なシャツをちらつかせながら、私の目線に現れた。この国で、この世界で私のことを「お嬢様」と呼ぶのは彼だけだ。
「お迎えに来ました。お嬢様。女王がお待ちです。」
さ、さっき帰りたいと願った。拉致されてでも、帰りたいと願った。
確かに、願いました。
「お怪我をなさっているようですね、まず、お車へお乗りください。」
群衆の間をスイーっと黒く光る車列がわたしの前を通り過ぎ、リムジンが停止した。バタッと大英帝国王室第一秘書ローレンス・ウェイジャーさんがドアを開く。
「どうぞ。」
「春木!」
森川くんが叫んでいる。
「あちらはお連れさまでしょうか?」
「いえ、ただの知り合いです」
 ローレンスさんはリムジンの中のジェントルマンに引き継いで、そっとドアを閉める。群衆の声も、森川くんの声も、ごぉーという雑音になった。さすが、防弾仕様である。即座に車はスルッと発進し、群衆を抜けた。ジェントルマンたちは丁寧に治療に取り掛かり、傷の形にぴったりのキズパワーパッドがあてがわれた。その間にもふらふらと車にGがかかった。痛みで目を瞑っていたが、一通りの治療が終わると、といっても絆創膏を貼っただけだが。ゆっくりと目を開けると、想像通り、おばあちゃんとエリザベスと、あの墜落から生還した男が真顔で乗っていた。その男はふと、にやっと、わたしを見て言った。

「やぁ、君、可愛いね。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?