私は特別ラッキーだと思います。周りに助けてくれる人がいるから。支援してくれる人がいなければ、病院に通うことができません。役所で手続きすることもできません。だから国からお金を受け取ることはできない。私自身、苦労して生きてはいるけど、もっと苦労している人がいっぱいいるだろうと心が痛みます。身寄りのない人にこそ寄り添ってくれる国であってほしい。じゃあ何ができるのか。辿ってみれば選挙に行くということに尽きるのでしょう。しかし、選挙運動に耳を傾けるのにはパワーが要ります。 ニュースは
自分勝手だ。 今ある命に感謝し一生懸命に生きていこう、やれることをやっていこう、という気持ちになれない。 遮断しようとしても耳に入る惨事。 知るべきことが私を崩壊させる。 なんて愚かなのだろう。 死にたくてたまらなくなる夜が続く。 生きたくて、生きて欲しくてたまらない人達が山ほどいるのに。
下北沢の古書ビビビで、また良い本に出会ってしまった。坂本龍一さんと福岡伸一さんの対談記『音楽と生命』である。 福岡さんは大学の時の教授で、講義がとても面白かった。いつも最前列で講義に参加していたし、著書もいくつか読んだ。私たちが学生時代に散々学んだ「条件が揃えば同じ結果が出る」という論理に異を唱え、生物は無限の変化が作用し合って現在に至ったと考えている。 福岡先生の好きなところは、生物学者という科学者でありながら、哲学や音楽、アートなどを含めた幅広い視野から、学問を教えて
先日、28歳の誕生日を迎えた。良い機会なので、今後どんな人間になりたいのかを考えてみたいと思う。 昨年の今頃は、躁と鬱の変動が激しかった。薬の調整も思うようにいかず、副作用に悶える日々。生きたくないのに、治療をするという矛盾に苦しんだ。暴れ狂う病は、自分も家族もボロボロにした。医師に何度も入院を勧められたが、医師の前で喚き散らし、入院を断固拒否した。あの時のように、強制入院をさせられなかったことだけが救いだった。 息をするだけでヒリヒリと痛む身体と共に迎えた、昨年の誕生日
持ち前の精神力でどこまでも無理をして、気づくと制御不能の状態に陥っていた。病は身を蝕み、否応なしに元の人格を崩落させる。 頑張ることと無理をすることは違う。 この履き違えをもっと早く知っていればと、後悔の念は尽きなかった。しかし、この感情は既に過去のものとなっている。生きたくないと思う人間が治療に専念するということ。この矛盾と闘いながら、生きたいとか生きたくないとか、そういうことを考えなくなるくらいの平穏な心が訪れるまで、頑張ることを辞めなかった。 今に満足している。未来
生きがいを感じるのに手っ取り早いのは働くことらしい。仕事というのは達成感を得やすい。また日々の生活を忙しくし、生きがいについて考える機会すら与えないこともある。ほかにも家事などやるべき事があり、それができていると、知らぬ間に生きている張り合いを感じるのかもしれない。育児や介護に於いては、他人から必要とされている感覚や、自分にしか成し遂げられない使命感・優越感が生きがいに繋がる。 さて、自身にとっての生きがいは何であろうか。仕事も家事も成し得ない、やるべき事もできる事も少ない
九州の山奥へ失踪してから、もうすぐ一年が経とうとしている。あの日私は、裸足のまま竹藪を掻き分け、奥へ奥へと進んだ。痛くも寒くもなかった。 何時間も獣道を歩き続けた。誰もいない境地を目指して進むのだった。決して足を止めてはならなかった。どこまでも行ける気がした。無敵だった。あともう少しで楽になれる。希望に満ち溢れていた。しかしそれは叶わなかった。いつしか疲れてへたり込み、そのまま眠った。凍えて目が覚めた。全身が激しく震え、死を目の前に感じた。怖くなった。最後の力を振り絞り、暗
「気づけば今年もあと10日、あっという間だなぁ。」という声があちらこちらから聞こえる今日この頃、私はというと、一年長かったなぁとしみじみ感じているのである。今年は特に散々であった。薬の調整に苦しむ日々。絶望感は何度も私を殺そうとした。一年を生き延びたのは奇跡のように感じる。乗り越えたからには死ぬまで生きなくてはならない。この気持ちと共に何としてでも生きていきたいと強く思う年末である。 最近は夜な夜な家にある食材を放り込んで作るお雑煮にハマっている。大根にんじん鶏肉ネギ、あと
有名になりたいだとか、表に立ちたいだとか、圧倒的になりたいだとか、そういう憧れを拭えつつある。これは努力の結果だ。憧れを失うことは悲しいことじゃない。楽な方へ生きていかなければ爆死してしまう生き物も存在するのだ。ただの人間は偉大である。格好良く歩けなくても、生きていることは誇らしいことだ。もちろん死んでしまっても貴い存在であることに変わりはない。 以前の憧れを無くし、新しい憧れを構築しているところである。まずは好きなことをすること。そして、肩書きを持たないこと。弱さを知った強
先日、下北沢にある古本屋、古書ビビビさんで「生きがいについて」という本を購入しました。この本は半年前に一度、別の書店で手に取ったことがあります。そのときは「生きがいなんて有り得ない」といった絶望感に溢れた毎日を過ごしていたため、購入しませんでした。今回購入に至ったのは、体調が前進したからでしょう。このタイミングでまたこの本に巡り合えたことを嬉しく思います。 この本を読んでみて、今この世界で生きている人たちの生きがいを知りたくなりました。そこで、インスタグラムのストーリーズで
死産したばかりの女 隣の若夫婦 二人の目線の先にはいつも 赤子の泣く声、笑う声 苦しみを逆撫でする光景は 目を背けたくても不可能なほど 女の周りに溢れている すべての人が憎くなる 憎しみを抱く己を赦せなくなる 幸せな光景を眺めながら 架空の女を想うのは 心が荒んでいるからなのか 決して計り知れない 無意味な妄想 幸せを幸せのまま 受け取ることができたらと 描く理想は遥か遠く 有りもしない悲劇を構築し 自らを虐めて蝕んで どこまで落ちたら気が済むのか 無防備なこの身体
プレイリストから選んだ 音のひとつを体に取り込み 珈琲を淹れながら 舞い上る湯気の行方を追いかける 150ccのカップに入った珈琲の 変化する味を抜かりなく堪能して 最後にぬるくなったお湯を注ぎ ひと口 おしまいの合図 朝が終わる 昼が始まる 脇役の私はまぶたを閉じて 太陽が落ちてゆくのを待ち続ける
名の無い日々をやり過ごし 無意味な月日に息をする やっと今日まで生き延びた かろうじて見える明日には 涙がひとつぶ減りますように
双極性障害は検査ではわからない目に見えないものだからか、この世には西洋医学の力を借りずに自然療法などの東洋医学の力だけで病を治せると信じる者が結構いるらしい。 でも果たしてそれを謳っている人は双極性障害の当事者なのだろうか。本当に病のことを理解しているのだろうか。 風邪など少し体調が優れないという場合なら、自然療法で良くなる例はあるかもしれない。 ただでさえ病気で思考が鈍くなっていることもあり、そういった考えを信じて、自己判断の断薬をし悪化してしまう患者は少なくないらし
不思議なことがあります。観るべき映画は、観るべきときにやってくるのです。映画『こちらあみ子』は、私にとって忘れたくない映画となりました。 (ここから先、映画『こちらあみ子』の内容を含みます。) 珈琲を淹れるときにいつも聴くのは、決まって青葉市子さんの音楽。そよ風にそよぐカーテンのようなやさしい音が、こだわりの時間に寄り添ってくれます。そんな存在の彼女の投稿を見て知った『こちらあみ子』という映画は、予告編を観てすぐに虜になり、公開日を今か今かと待ち構えていました。 原作は
知らない人に死なないでと言われても じゃあ何をしてくれるの? いい薬を見つけてくれるの? 私だって本当は死にたくない 生きているのが苦しすぎるから仕方なく死にたいのだ この苦しみを取り除いてくれるの? 死なないでと言われて、うんと答えられるなら、元から死にたいなんて思わない あと死にたいと思っても死ぬとは限らない 死ぬのは本当に難しい 死に至るまでにはたくさんの困難がある だから死なないでと言う前に ただただ、いい薬を見つけてほしい